第二十二話 暗語②
後宮の一角にある、白陶の瓦が特徴的な通倭司の建物は、傾き始めた陽によって影を伸ばし始めている。その奥にある司長室とも言うべき場所で、小文は問われた暗号を説明してみせた。
倭国はかつて華国の文字を輸入し、自国の言葉として用いた経緯がある。しかし当然ながら全ての文字が用いられたわけではない。取捨選択がなされ、倭国の文字として用いられた華国の文字はその一部である。
「ということで、先ほどの暗号文の中から倭国で日常的に使われる『漢字』だけを抜き出すと、このような文になります」
『「石」缝攀躋 处处「段」损 请转「左」边 绕损「下」边』
『石、段。左、下』
小文は筆を手に取ると、先ほど落とした硯にわずかに残った墨汁で暗号文の下に答えを記した。
「この紙片は上側が破られていますから、おそらくそちら側に具体的な地名が暗号で書かれていたのでしょう。どこかの『石段左下』を指し示しているという暗号文ですね」
司長は腕を組み、小文の書き記した文字をしばらく無言で眺めた。
「なるほどな……華国の者には全て同じ字に見えてしまうが、倭人であれば倭国で使われる『漢字』を抜き出して解くことができるのか」
「そうは言っても、石段なんてあちこちにありますし、これだけだと特定は難しいでしょうけれど」
小文は首を傾げながら率直な疑問を口にした。石で作られた階段など、この広大な後宮の中にはいくらでもあるだろうと思ったのである。
「……いや」
司長は首を振る。
「この後宮では帝がおわす本殿よりも高い位置には建物を据えられない。そのため宮内にある石段は実のところ数えるほどしかない。先の本殿と、園遊会で帝の寵姫たちがお集まりになられる、瑶華庭園の翠明閣だ」
小文はこの後宮に来てから数年経つが、元人質というその身分故に出歩ける場所は限られている。言われてみれば、この宮内に高さのある建物はさほどない。
司長は窓から外を仰ぎ見た。まだ陽は暮れておらず、空は緋色に染まり影が長く伸びている。
「この答えが正しいかは、その石段を調べぬ限りは分からぬな」
司長はそう言って立ち上がり部屋を出ようとする。小文がその背に視線を向けていると彼は振り返りもせずに言い放った。
「何をしている。お前もついてこい」
「……私もですか?」
暗号を解いたのだからお役御免では? 露骨に遠慮してみせる小文を意に介することなく司長は手招きする。
「石段左下に何があるのか、確かめる必要がある。もしかすると再び倭国人の力を借りる必要があるかもしれないからな。ついてきてくれ」
理屈は分からなくもないが、しかし小文には小文なりの怠慢癖……もとい都合があった。
「で、でも墨磨りの仕事が残っています。他の司官様たちの墨がそろそろ……」
「墨など各々が自分で磨ればよい」
うわぁ、自分の仕事を全否定された。顔を露骨にしかめる小文だが、そんな彼女を釣ろうとするかのように、司長は口元を歪めて言う。
「……案外、石段左下には褒美が隠されているかも知らんぞ。暗号を解いた功労者がそれにありつけないというのも不憫な話だ」
小文は元より楽観的な思考の持ち主ではなく、正直嫌な予感しかしない。しかし上役に対して断りを入れられる身分でもない。彼女は承諾するしかなかった。
「……もしお宝が隠されていたら、取り分は七対三でお願いしますね」
「いいだろう。お前に三割くれてやる」
陽も傾きかけた中、二人は後宮中央の大通りを通り過ぎ、瑶華庭園の門前まで足を運んでいた。
瑶華庭園は後宮の北側に位置しており、大河を見渡せる羨望の地である。皇帝の寵姫たちの遊覧に使われる場で、手入れのよく行き届いた風光明媚なところでありながら、その一方で守りの要となるよう、他の方角に比べて守りが厚くなっている場所でもある。
瑶華庭園の門の前には警備の兵が二人立っていた。本来は皇帝の寵姫たちのためにある場所であり、司長とはいえおいそれと立ち入れるような場所ではない。
司長は小文に立ち止まるよう言うと、一人門番の所に近づいていき、一礼をした後に袖の下を渡した。それから何やら二言三言を交わすとようやく許可を得られたのか、彼は小文に向けて手を振った。
「……随分と手慣れておりますね」
「褒めても何も出ないぞ」
皮肉が通じずに黙り込む小文だが、考えてみれば一部署の長にまで上り詰めた者である。賄賂の一つや二つ慣れていないわけがない。この後宮に聖人君子がどれ程いようか。
「それにしても……この時間に瑶華庭園の立入が許されるとは思いませんでした。いくら袖の下を通そうとも、理由なく立ち入れるものですか?」
「……理由なら、言った。丁度いい言い訳が……まぁ、使えたからな」
「言い訳? 何ですかそれ」
珍しく歯切れの悪い司長の言葉が気になり、つい疑問を口にしてしまう小文。
小文はやはり気になっていた。どうして彼がわざわざ暗号の示した場所まで自分を付き添わせたのか。倭国の者にしか解けない暗号が二度もあるとは思えないし、仮にそんなものがあったとしても、翌日また暗号文を見せてくれればいいだけの話である。彼が急いている感じもなく、どうにも理由が分からない。
仮にも若い女子を夜分近くに連れまわすなど……そう我が身のことを振り返った時、小文ははっとして思わず門番の顔色を窺った。
普通なら怪訝な顔色を浮かべて白い目を向けていてもおかしくない門番たちが、何やら妙に好奇の視線を向けている。
「まさか……」
小文の呟きに気付いた司長は、即時補足を入れた。
「誤解のないよう言っておく。私はお前に興味などなく、むしろ手のかかる部下で面倒な奴だと思っている。だからあくまでこれは口実だ。わざわざ説明するまでもないだろうがな」
だから司長はこの門をくぐり抜けるために小文を連れてきたのであった。一人でこのような場所に来ていくら賄賂を渡そうとも、門番からして見れば「なぜかような所に?」という疑問が浮かぶ。
それを晴らすために小文を連れて、瑶華庭園での逢瀬であると門番に理由付けをしたのだ。
確かにこの風光明媚な場所は逢瀬にぴったりで、匈国よりさらに西側の国の言葉を借りるなら「浪漫溢れる」場所であろう。全く、小文は呆れてものが言えない。まさか司長と逢引すると、例え嘘でも他人から思われることになるとは。
案外、この上司とは意見が合うのかもしれない、と小文は思った。こっちも興味なく、面倒な奴だと思っているのだから。
小文の脳内で司長が悪女に騙されて無一文で後宮を放逐され咽び泣いている頃、彼は門番から受け取った松明を掲げて、瑶華庭園の翠明閣に続く階段の左側を一つずつ確認していた。
陽に陰りがあるため分かりにくくはあるが、司長が段を逐一調べていくと、九段目の左端に小さな切れ目があった。何度かその個所に触れると、音を立てて石板が外れ、その奥にある硬い土の中に白く小さな陶器が置かれてあった。
「まさか、本当に暗号文通り隠されているとはな」
司長はそう呟きつつ、その陶器を手に取った。手のひらに丁度乗るくらいの小壺は上に蓋が乗せられており、中に何かが入れられているようであった。
「これは……まさか骨壷か?」
司長の問いかけに、小文もその小壺の中を覗き見る。半日ほど前に不用意に彼の手元を覗き大目玉を食らった彼女であるが、つい視線を送ってしまうその悪い癖は好奇心を抑えられない彼女の気質によるものであろう。
小文は司長の疑問に答え、これが何であるかを話した。
「そうですね。焼かれた歯と、そしてその奥にあるのは喉仏でしょう。倭国の宗派では、このように骨壺を二つに分けるところもあるのです」
華国のそれとは違う、倭国のとある宗派は、このような骨壺を用いることを小文は知っていた。そこでは遺骨の大半を入れる骨壺とは別に、歯と喉仏を小さな骨壺に分別して入れるのである。もっとも、これほど白と分かるほど美しい壺ではなく土色と言うべき色合いではあったが。
「焼かれた痕跡もあります。匂いが残っていないところを見ると、丁重に葬られたということでしょうか。そして見てください……この歯の中には、乳歯が混じっています」
一般的な歯と乳歯は明らかに形状が異なる。これが混じっているということは、子供と大人の境目にあたる年齢の者であるということの証左であった。
「随分と詳しいな?」
「今は落ちぶれてしまったとはいえ、一応は人質となり得るほどの出自ですから、弔事にはそれなりに精通しております。ですが、これは……」
骨壺を階段の隅に置いておくことなど当然ながらあり得ない。遺骨を墓に納めていないということは大々的に葬儀が執り行われていなかったことを意味する。何かの理由で、秘密裏に埋葬されたということだろう。
「まとめるなら、これは身分の高い、子供の、秘密裏に火葬された、おそらく倭国の者の骨壺ということになります。そして、わざわざこんな場所に骨壷が置かれたうえに、暗号文が出回り暴かれるなどということは……」
「何やら事件性が考えられる、ということだな」
ここまで言えば、さすがの司長も想像力を働かせることができていた。
「宮中で騒ぎになっている、下級妃が失踪した事件と関係があるというのか?」
噂では失踪したとされており、皇帝の近衛兵さえも捜索に駆り出されていたが、この状況を見る限りではすでに亡くなってしまっているということになる。
そしてここまで丁重に葬られているということを鑑みると、倭国に縁の深い……紫妃がこの件に関わっている可能性は小文には十分に考えられた。
遠くからは犬の遠吠えが聞こえる。いつの間にか陽は落ち、空は藍色に染まっていく。
宮内に潜む秘密の一端を解き明かしてしまった小文が身体を震わせたのは、夜風がその身を凍えさせたからだけではない。




