第二十一話 暗語①
後宮の一角にある白陶の瓦が特徴的な通倭司の建物にて。
この日、司長は宦官らしからぬ屈強な体躯を丸め、自席で何度もため息を吐いていた。何やら手にした紙片と格闘しているらしい。しかし彼の姿を横目で見ている小文は、素知らぬ顔で墨を磨り続けていた。
伊都が朝廷の件で尋問に呼ばれており、港の方もまだ小文の受け入れが整ってはいないためか仕事がない。そんなわけで今しばらくは墨磨りの仕事をこなしている彼女であったが、その勤務態度はやはり怠惰の一言であった。
常日頃から司長に墨が荒いだの仕事が遅いだのと小言を言われる小文にとって、彼が悩む素振りを見せていようと眼中にない。今彼女が気にしているのは、いかにして機嫌の悪そうな彼の元へ墨を磨り終えた硯を持っていき、卒なく自席へ戻るかどうかである。
他の司官たちにはすでに墨を渡し終えており、後は司長しかいない。
(また小言を言われるんだろうなぁ……あー、やだやだ)
長い間「丁寧に」墨を磨っていた小文だが、やがて仕方なく硯を手に取り、盆に置いて司長のところに向かっていった。
司長が悩んでいることについて、小文はおおよその見当がついていた。おおかた最近宮中で騒ぎになっている、とある下級妃が失踪した事件絡みであろう。小文はそうあたりを付けつつ、硯の入れ替えが卒なく終わりますようにとだけ祈る。
「好奇心は猫をも殺す」という言葉を小文は知らない。怠惰な猫のような彼女は、司長の傍に立つと、ふと魔が差したのか彼の手元を覗き見てしまった。
その紙片には何やら奇妙な文章が書かれていた。とりわけ、その中の一文が気にかかる。
『石缝攀躋 处处段损 请转左边 绕损下边』
(……岩の割れ目やあちこちで損傷が酷い箇所があります。左へ回り、損傷箇所を迂回して下の方へ進んでください?)
あまりの難解な言い回しに一瞬意味が分からず、脳内で倭国語に訳して一度整理する。どうやら注意文のようだが……と意識がその一文に引き寄せられたその時。
「――何を勝手に覗き込んでおる!」
小文の気配にようやく気付いた司長は、慌てて紙片を伏せ声を荒げた。
「え……んなっ、あっ、ちょっ……!」
その声に驚いた彼女は、びくりと身体を震わせてしまう。それと同時に手にした盆から、墨汁がたっぷりと入った硯が滑り落ちてしまった。
ぱしゃっ!!
水飛沫の弾ける音が聞こえ、次いでごろんという硯の落ちる音が周囲に響いた。幸いにも、硯は司長の頭の上に落ちなかった。そして不幸にも、彼は墨汁を頭から被っていた。
「……小文」
「…………はい」
そして当然のように、小文の頭上には激しい雷が落ちた。
「……これはとある所から渡された、秘密の暗号文だそうだ。だが、何のことやらさっぱり皆目見当がつかん」
「そうなんですか」
半刻にも及ぶ司長室での叱責を受けた後、殊勝な顔色を浮かべつつも内心極めて不機嫌な小文は、しぶしぶ話す司長の説明に何とも言えない適当な相槌を打った。
正直知ったこっちゃないと小文は思っていたが、仮にも上役に対してそのような粗雑な言葉を使うわけにはいかない。彼女はできる限りの上品な言葉遣いで、その目上の方に提案する。
「倭国には『秘すれば花なり、秘せずは花なるべからず』との言葉がございます。秘密は胸の内に留めておくのが最良かと。私も何も見なかったということで……」
「『花言巧語』にもほどがあるな。勝手に覗き見ておいてどの口が言う」
花の如く飾った巧みな言葉、つまり口先だけの戯言はやめろという意味である。司長はにべもなくそう言うと、手にしていた紙片を小文に手渡した。
上辺が破られたやや厚めの紙には、以下のような一文が書かれていた。
『石缝攀躋 处处段损 请转左边 绕损下边』
先ほど見た、妙に難解で大仰な言い回しの注意文である。華国語で書かれているが、これが不自然な文であることは倭国出身の小文でもすぐに分かった。
小文は後宮に連れてこられた倭国の人質である。だが自家が没落し人質としての用をなさなくなり、半ば持て余されるようにこの翻訳を司る部署に回されていた。
日常生活では支障なく華国語を話せる小文でも、古文のような類はさすがに手に負えない。古文と言うより、これは子供がわざと難解な文字を使っただけのようなあまりにも違和感のある文だ。
しかし文としての不自然さと暗号としての難易度は比例する。現に司長はこれを前に、今も手を焼いて頭を抱えているのだから。
「『处』が四回繰り返されているところに何か意味があるのかと考えてはみたものの、全く見当がつかん……小文から見て、何か気になるところはないだろうか?」
「私から見て……ですか?」
ふと小文の脳裏に、しばらく見ていなかった倭国の文字が思い浮かんだ。
かつて華国から文字を輸入し、独自の発展を遂げたその文字は、当時の国名から呼ばれる「漢字」と、それを崩した「ひらがな」「カタカナ」から構成される。
……ああそうか。これ、倭国語なんだ。そう気付いた小文は、素早く暗号を解き明かすと司長に説明する。その語気はどこか得意げであった。
「『处』は関係ないですね……おそらくですが、これは倭国人でないと解くことのできない暗号だと思います」
「ということは、倭国語と華国語を組み合わせた暗号ということか?」
訝しがるように尋ねる司長に、小文は答えてあげるべきかちょっとだけ迷った。司長までのぼりつめた秀才が悪戦苦闘している姿に、思わず口元が緩んでしまう。分からない振りをして日頃の鬱憤を晴らしてやろうかと邪な考えが浮かぶが、また彼のため息を聞き続けるのも憂鬱だ。
小文は仕方なく、手がかりを司長に差し出した。
「組み合わせなくても、倭国語だけできれば解けますよ。むしろ、倭国語だけしかできない方が解きやすいかもですね」




