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第十六話 寝殿①

 通倭司を出て後宮の中央通りへ向かう。夏の強い日差しの下、市は思いのほか人で溢れている。


 雑多な食材の匂いの中、小文はいつものように少し外れた先の店で墨を選んで、十丁ほどを布に包んだ。


「……少し、値が上がりました?」


 店主は申し訳なさそうに肩をすくめた。


 世の常とはいえ、こうした細かな値上げは帳簿にそのまま響く。そしてやがては「墨を大切にせよ」という司長の小言に繋がる。小文は小さくため息をつきつつ、銭を払った。


墨を抱え、通倭司に戻る道すがら、ふと聞こえてきた雑談に小文は足を止めた。


「……倭国が朝貢を取りやめるらしい」


 その噂は一度片がついたはずだ。貿易船にて朝貢品はすでに納められている。


(まだその噂、続いているの……?)


 司長なら流言飛語を疑うかもしれない。まったく、どうして人の心というものは――その瞬間、小文の胸の内に別の疑問がふと浮かんだ。


 なぜ、こうも倭国と戦を望む者がいる?


 戦となれば人も物も動く。物価が上がることで利益を手にする者もいるだろう。


 だがそれだけで戦を望むだろうか。朝廷が背後にいることを司長は疑っていたが……その朝廷は何に突き動かされているのだろう?


 もっとも、自分のような末席の文官には分かるまいと小文は考えを止めた。


そして再び歩き始めると、背後から不意に声をかけられた。


「……小文殿ではありませんか」


振り返ると、見覚えのある中書官の姿があった。名は確か裴慎之と言ったか。


「裴様、お久しゅうございます」


「司長様は、今も通倭司に?」


 挨拶もそこそこに、中書官は司長の所在を尋ねる。前の落ち着いていた顔はそこになく、どこかに焦りが見られる。


「ええ、いらっしゃると思いますが。何かございましたか?」


 小文が何気なく尋ねると、中書官は周囲を気にするよう視線を巡らせた後、声を落とした。


「倭国の朝貢船が、港に着いたというのです」


「朝貢船が?」


「しかもその使者は、以後これをもって華国への朝貢を取りやめたいと話しているそうで」


 その言葉に小文はつい息を飲む。抱えた墨が、急に重みを感じられた。




「そんな馬鹿げた話があるか! では先の朝貢は何だったというのだ!」


 中書官の報告を聞き、司長は思わず声を荒げた。


 司長がここまで感情を露わにすることは滅多にない。以前の送終の件では怒りを露わにしていたが、裏を返せばそれほどの事態であることの証左でもある。


「倭国にも幾つかの派閥があります故、行き違い、手違いがあったとも……」


 他の司官の手前、中書官がなだめようとするが、司長の感情は高ぶったままだ。


「だとしても、夏に朝貢船を走らせるなどあり得ぬわ! あれは見た目こそ飾っているが、中身は旧式――速くもなければ大した荷も積めぬ、嵐一つで沈みかねん船なのだぞ!」


「……そうなのですか?」


 小文は後宮の外に出られない身分故、船の違いにはそう詳しくはない。だが司長曰く、現在の主流は主に二つがあり、一つは速度重視の快速船か、もう一つは物量重視の貿易船であるという。


「そのどちらでもない朝貢船をいつ嵐が来るかも分からぬ夏に使うなど、半ば自殺行為に等しいではないか!」


――決してあり得ぬことが起きている。それはつまり、裏があるということ。


 司長は周囲に話が聞かれぬよう、中書官を連れて奥の部屋へと向かった。


「……小文も来い。墨磨りとして、書記を務めてもらう」


 呼び出しの理由があまりに適当だと小文は思ったが、呉越同舟の者として、この船に乗らないわけにはいかない。小文は二人の後をついていった。


 司長室に入り、二人を席に着かせると、司長は結論からはっきりと述べた。


「……つまり此度の朝貢船は倭国から来たのではなく、何者かによる陰謀だということだ」


 理性を再び取り戻した司長は、今回の件をそのように考えているようだった。


「おそらくは倭国の小型船を朝貢船に偽装したのだろう。港は朝廷の管轄で手出しできないが、調べればボロが出てくるに決まっている」


「……朝廷側による策謀であると、そうおっしゃりたいのですね」


 華国の港は朝廷側の管轄である。朝貢船を隠しておけるのは、朝廷の者以外には考えられないことだった。


 今まで禁句とされてきた言葉を言われた司長も、今度ばかりは首を縦に振った。


「奴らめ、そこまでして戦がしたいか。よほど華国を弱体化させたいと見える」


 大きく息を吐いた司長は、しかし今度は笑みを浮かべて鼻で笑う。


「今までの件、どうやら裏で糸を引いていた奴らがついに業を煮やしたか」


 司長はそう呟くと、気持ちを落ち着けて改めて中書官の話に耳を傾けた。


 中書官曰く、先日港に朝貢船が到着し、倭国の使者が一人降り立ったとのこと。その者は女性で、高貴な衣装をまとい、倭国の使者を名乗り国書を持参していたということだった。


「北の港より入港の報せはなく、聞けば南回り航路で来たとのこと。嵐を厭わずに急ぎ来る理由もなく、不自然に思っているのは私もです」


 中書官も司長と同様に、懐疑的な見方をしているようだった。


「……使者はどうやら倭国語しか話せぬようで、急遽港の通訳官が傍に着くことになったとのことです」


「通倭司に連絡一つなく朝廷側の港の通訳官が専任するか。ますます疑わしい」


 疑いどころかほぼ確信に近い思いを抱く司長だが、一方で同時に頭を抱える。


「しかし帝に進言したくとも、これだけでは証拠にならぬ。中書官殿から上手く帝を説得する術は……」


「我らは帝のお言葉を書に記すが役目。意見を申せる立場にありませぬ」


 そう言って首を振る中書官を見て、司長は肩の力を落とした。


 今回の使者が本物だと帝に思われれば、先の朝貢は偽とされ、朝貢を取りやめた倭国に対して戦を仕掛けるは必定。通倭司は不要となり、小文の命も極めて不確かなものになる。


「ならば我らに残された術は……紫妃様に縋るより他ないか」


 司長の呟きを聞き、小文はなぜこの場に呼ばれたのかを理解した。


「私が紫妃様の元へと向かい、帝を説得してくださるようお願いしろとおっしゃるのですね?」


「そうだ。『これは朝廷の陰謀であり、本物の倭国の使者ではない』と紫妃様より帝に伝えてもらうしかあるまい」


 通倭司という小役所の権限では、皇帝に勝手に進言などできない。しかし后妃である紫妃であれば、皇帝に直接進言することはできる。


 それに紫妃もまた、倭国との戦には反対の立場である。小文が赴けば、話くらいは聞いてもらえるだろう。


要するに、紫妃の口添えがなければ自分の命が危ないのである。司長の命令如何にかかわらず、小文に残された道は一つしかなかった。


「……分かりました」


 ため息を一つ吐き、小文は立ち上がる。


「しかし証拠がない以上、どのように話が転がるかは分かりません。あまり期待はしないでくださいね」


 司長と中書官の二人にそう言い残すと、小文はさっそく身支度を整え、東和宮の紫妃の元へと出かけるのであった。




 東和宮に向かった先では、すでに侍女が待ち構えていた。どうやら朝貢船の話を聞きつけた紫妃は、こうして小文が頼みに来ることを予測していたらしい。


(……その深謀遠慮は一体どこから来ているんだか)


 小文は身震いしつつ、侍女に従い、紫妃の元へと向かう。


 東和宮中央の正殿に紫妃は座していた。彼女はより一層華やかな装いであった。紫色の重ねの絹衣は、金糸の刺繍と宝石が惜しみなくあしらわれ、灯りを受け静かに煌めいている。


「今しがた、小鳥を通倭司に向かわせたところだったのよ……あなたの方から来てくれて丁度よかったわ」


 紫妃の言葉に、小文は膝をつき、深く頭を下げた。


「倭国から来たという、朝貢船の件で話があるのでしょう?」


 挨拶より先に、その一言が降ってくる。やはり全て承知の上らしい。


「……はい。司長より、紫妃様から帝へ口添え願えないかと」


 紫妃はすぐには答えなかった。香炉の煙を見つめつつ、ゆっくりと言葉を選ぶ。


「……私としても、今ここで倭国と戦になるのは避けたいところよ。勝ったとて、和子を倭国の王に据えるにはまだ幼すぎる。時期尚早といったところね」


 建前はもはやなく、真意を紫妃は語る。


「でも確実な証拠はないの。そのような中で帝に進言しようだなんて、命知らずもいいとこよ。……小文、あなたは己の命を、身を捧げる覚悟はあるかしら?」


「……はい。私一人の命でよいのなら、何なりと」


 小文はそう言い切り、紫妃を見据えた。


 確かに、朝貢船が偽であるとする確証は今のところない。しかしこのまま座して待てば、皇帝はこれを機に倭国への戦を始めてしまうだろう。


 あの苛烈な皇帝であれば、例え朝貢船が偽であろうとも、都合の良い口実として戦を始めてもおかしくない。


 それを防ぐためには、あの朝貢船が朝廷の陰謀によるものであり、戦を始めれば朝廷に利することに繋がると、そう紫妃に諭してもらわなければならなかった。


(……?)


 そう、小文は紫妃に口添えをお願いしに来ている。それなのに、なぜ彼女は小文に己の命をかけるようにと……?


 何か嫌な予感がして、小文は紫妃に再び目を向ける。紫妃は小文の言葉を受け、実に満足そうな笑みを浮かべていた。


「なら、あなたの望む通りに帝に進言をいたしましょう――私たち二人で、今宵の寝室でね」

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