城塞都市ルセイス 4 -秀才と天才-その2
ルセイスはそのほとんどが森林地帯といえど、開墾に次ぐ開墾によって農村はもちろんのこと、中央地中海の港町や小都市を多く持つ。
『豊穣の杖』の影響が大きい王都レウノアーネと、
『精霊の樹』と『世界樹』に挟まれる領地は水の王国でも稀に見る豊かさを誇るからだ。
主食に使われる小麦やライ麦をはじめ、ジャガイモやトウモロコシなどの酒の原料となる作物は積極的に作られ、魔法円〈発酵促進〉を用いた発酵蔵を導入する町もあるくらいだ。
ただし、問題がないわけではなかった。
水源に偏りがあったのだ。
ルセイスの北には沼や湖が点在し、西には南の大森林の地下水脈から湧き出る川がいくつもあった。
ところが東には川も沼もなく、あるのは中央地中海を満たす潮水だけだった。
地下水脈がまったくないわけではないが、人口の増加が不安の種になる程度に心許なかったのだ。
かといって王都や南東部城塞都市とを繋ぐ中央地中海の海運ルートは、痛みやすい果物を扱う南西部城塞都市にとって大きな利益をもたらすものであるのは明らかで――。
それらを治める伯爵たちにとって、水源確保は重大事であった。
一番簡単なのは西側の川から引く治水だが、あくまで発案が――であって計画実行は困難極まる。
いくらルセイスが大きな利益を上げていると言っても、治水に掛かる費用はおいそれと出せる代物ではないし、弊害予測調査のこともある。
現在川を生活用水にしている町村が水不足になっては意味がなく、分水による川魚などの生態の変化にも気を配らねばならないからだ。
特に河川というのは防衛にも大きな影響を与えるので、慎重にならざるを得なかった。
私はなんの解決の糸口も掴めぬまま、執務机に広げた地図に向かって唸ることしか出来ないでいた。
重いため息を吐いて、頭を頬杖に預ける。
他にも相談は多く寄せられている。
机の端やキャビネットに目を向ければ、蝋封の解かれた書簡が山と積まれていた。
そのほとんどはどれも急を要さぬというか、相談にかこつけた愚痴だ。
領民が不衛生だからどうの。健康がどうの。鬱憤が溜まっているからどうの。
みな本気でどうにかして欲しいわけではない。
疫病が流行しただとか。
それを危惧する変死動物を発見しただとか。
野生動物やモンスターの大量発生だとか。
野盗団や傭兵団の影の目撃といった対処を要するものがない場合、大抵こういった報告書になる。
言い換えるなら、平和ということだ。
だから結局のところ悩みの種は、慢性的に水不足の地をどうするかに尽きた。
カップを手にすすると、紅茶はぬるくなっていた。
ポットの注ぎ口からはほんのりと湯気は上がっているが、おかわりをする気にはならなかった。
茶の良し悪しはわかるつもりだし、気分転換に自分で入れることもしばしばある。
メイド長には毎度「ルセイスの領主代行ともあろう方が」と小言を貰ってしまうが、好きなのだから仕方がない。
しかし最近はストレスからか、のどを潤すための作業になりつつあった。
そんな自分を改めて認識すると疲労感が襲い、今度はため息と一緒に目が落ちた。
すると、視界に小さな侵入者の頭が映った。
執務机の向こう側で、ぴょこんと自己主張する金色の髪には蜘蛛の巣が張り付いている。
また隠し通路を使ってやってきたのだろう。
「ウルール。今日は執務室にご用かい?」
「こんにちは。じょーばーとおじさま」
「そんなところに立っていないで、こちらに回っておいで」
「はい。おことばにあまえます」
女の子はおませさんだとよく言うが、彼女は3歳にしてもう淑女を名乗れるな。
くすりと笑うと、回りこんだウルールが小首をかしげていた。
「なにかへんなことをいいましたか?」
「いやいや。とても丁寧なヴァスティタ語だよ」
言うとウルールは輝くように微笑んだ。
頭の蜘蛛の巣や服の埃を払ってやると「ありがとうございます」と頭を下げた。
舌足らずさは残るが、ウルールのヴァスティタ語は貴族子女として申し分ない。
むしろ先日妻とともにレウノアーネへ旅立ったヘレナの方が、男勝りで乱暴な言葉遣いだ。
一応丁寧な言葉も知っているようだが、どうにもブレンダやララーナ様の悪戯っぽい仕草を真似たがる。
逆にウルールが、それに影響を受けずにこうなっているのが不思議なくらいだ。
「おてすきでしたら、もじをおしえてください」
「ああ。構わないとも」
3歳といえば言葉を最も多く覚える時期と聞くが、ウルールはエルフ語も覚えている。
ソーネストやララーナ様を相手に話す時は、そちらを流暢に使っていた。
どの種族言語が、誰に伝わるのかを正確に理解して使い分けているのだ。
同じ頃だとハワードやヘレナは話す言葉が少し長くなった程度で、乳母やララーナ様もそれが普通だと言っていた。
「ほんとうにおじゃまじゃないですか?」
「うん? どうしてだい?」
尋ねるとウルールはチラリと視線で訴える。
執務机の書簡の山と地図に気付いたらしい。
勘がよく気遣いも出来る、か。
「丁度ひと息入れようと思っていたところなんだよ。
しかしヴァスティタ文字の基礎は一通り教えてしまったからな……。
物の名前とつづりの勉強をするのが妥当かな?」
「それでしたら」
「おや? お姫さまはなにか要望がおありかな?」
「『ちず』がみたいです」
「……ああ。かまわないとも」
なにより驚くのは文字への修学心が旺盛で、実用性の高い物を選ぶところだ。
この年頃なら英雄譚や冒険譚に傾きそうなものだが、地図ときたか。
ウルールはエルフィンゆえにルットジャーの家督相続権を持たないが、三女という立場にはある。
しかもララーナ様の娘で、サラーサを継ぐ。
いずれルットジャーの系譜を見届ける、第三のメネデール様になるだろう。
学ぶ気があるのなら、地図の見方くらい知っておいても損はない。
それに――ウルールは3歳にしてすでに、約束や秘密の重要性を理解している。
守ることで信頼を得ることと、優先順位をも、だ。
臣下やメイドたちにとってウルールは神出鬼没の脱走姫なのだろうが、ルットジャー当主である父上が隠し通路探しとその利用を認めてしまったのだ。
そして、一人で城壁の外へ出ないという約束はしっかりと守っている。
この娘は、すべてにおいて聡い。
「では、ウルール。こちらへ来なさい」
「はい。じょーばーとおじさま」
執務机に広げていた地図を、ウルールに見やすいよう来客用のテーブルに広げた。
ウルールはお菓子に誘惑される子供のようについて来て、ソファーには座らず前のめりに見つめていた。
こういう興味を隠さないところは子供らしくて微笑ましい。
「今日は地図の見方や町の名前、特産物について教授しよう」
「はい。じょーばーとせんせい。よろしくおねがいします」
「詳細な地図は機密なので、口外してはいけないよ?」
「はい。こうがいしないことをちかいます」
「では、ウルール。一応聞いておこう。機密や口外の意味を知っているかい?」
「『くに』や『ぐん』にとってのとくべつなじょうほうで。はなしてはいけないことです」
「うむ。完璧だ」
難しい言いまわしも、明確に説くことが出来るか。
得た知識を他者に理解できるよう説明するというのは、実は難しい。
たとえば池、沼、湖、泉の違いを説明せよと言われて出来る者は少ない。
なんとなく理解している大人がほとんどで、どこかふわふわした説明になってしまう。
うちの弟のスレイモンもこれが苦手で、地図をぼんやり読み解くことは出来ても作ることが出来なかった。
池は人工的に作り出したもの。
沼は水草が自生し、底に泥が含まれることの多い天然のもの。
湖は水深5メートル以上の大きな天然の水溜まりで、底に水草が生えないもの。
泉は水源がそこに含まれるものを言う。
これと同じような区分として林と森がある。
人の手が入り、歩きやすくしたものを林。
自然のままにあり、凸凹な地面が目立つものを森と呼ぶ。
谷間や海からの風を阻むために作られた防風林などがよい例か。
エルフィンの住む南の大森林などは、言うまでもなく森に分類される。
「この東の辺りは山らしい山がなくてね。あるのは丘くらいなものだよ」
「なにがゆうめいですか?」
「そうだね。一面のトウモロコシ畑が絶景だと吟遊詩人に歌われている」
テーブルに広げた地図は、すでに私とウルールの書きなぐった文字でいっぱいだった。
会議などで用いる複製品なので、汚そうと破ろうと問題はない。
地図の存在自体が機密情報なので、使用後は基本的に暖炉で焚べられる運命だ。
「ウルールにはまだ早いが、ウィスキーなんかも作られているよ」
「おさけですね」
「そういえばブランデーケーキが苦手だと聞いたが、匂いがダメなのかい?」
「いいえ。おさけはおとなになってから、です」
「……そうか」
食べることは好きらしいが、酒が強めに絡むものだと避けると聞いている。
だから調理の段階でアルコールを飛ばす料理やお菓子などは、問題なく食べるのだとか。
きっと誰かと約束でもしたのだろう。
「じょーばーとおじさま」
「うん? なにか気になることでもあったかい?」
「このあたりは『すいげん』がないのですか?」
ドキリと心臓が跳ねた。
「……どうしてそう思う?」
「こちらがわは『いけ』しかありませんし。
おもだったのうさくぶつが、『とうもろこし』や『じゃがいも』ばかりです」
私は絶句した。
「……ほう」
妙な間を開けてもそう頷くのが精いっぱいで、驚きを隠せなかった。
確かに東側の作物は年を重ねるごとに、ジャガイモやトウモロコシに変わっていったという歴史がある。
環境の変化に強く、水が少なくとも育つという性質があるからだ。
東側の各領主は、こぞってジャガイモ畑やトウモロコシ畑の拡張を進めた。
水が少なくとも育つと言っても、畑が増えた分だけ水は必要だ。
水源枯渇の不安がありながらもそうしたのは、治水を求めるための財源獲得でもあった。
彼らとて治水に掛かる費用が容易でないことはわかっていたのだ。
それをこのウルールは、地図と特産物の情報で読み説いたという。
3歳の娘が――である。
そのとき、父上の歓喜に咆えた言葉がよみがえった。
『神の子だ!』
生後たった七カ月の赤ん坊が隠し通路を発見したことは、偶然に偶然を重ねた奇跡のような出来事だったのだと。
それ以上のことは考えないようにしていた。
優秀な娘だと、賢い娘だと無理やり自分を納得させていた。
しかし。
今のやり取りが決定的なものとなって、目を反らすことが出来なくなってしまった。
これは恐怖だろうか?
それとも嫉妬だろうか?
腹の底からわき上がるズシリとした感情が、胸の奥で渦を巻いている。
この感覚は初めてではない。
どれほどの努力の時間を積み重ねても、魔法の才は開花することなく。
後から後から追い抜いて行った弟たちの背を見送った日々。
うつむきそうになるのを堪え、前を見て歩んで来た。
ルセイス領主代行の大任を与えられてからは住民や各地の代表者と向き合い、身を粉にしてきた。
歴史を振り返り、雨季や乾季を照らし合わせて対策を練ってきた。
治水に掛かる人工の数と歳月から費用を計算したりして、各地の領主たちを説得してきた。
もしかすると彼女は、それを無駄なことだと一笑するような名案を思いつくのではないか?
そして凡夫たる私は思うのだ。
自分はなにをやってきたのだろうか? と。
ならば。
その才能を持って目を反らすことすら許さぬというのならば、力を示して欲しい。
凡夫が努力を積み重ねてなお踏み込めない領域を今、垣間見せて欲しい!
――いや。ダメだ。
冷静になるべきだジョーバート。
彼女は姪で、私は伯父だ。
感情に任せて縋りつき、答えを迫るなどあってはならない。
そんなことをすれば、幼い心の奥底に大人に対する不信感と恐怖心を植え付けることになる。
自由な発想を言葉にすることに抵抗感を持たせるなど、才能の芽を摘み取るのと同じだ。
子供の才覚に気付いたならば、大人はそれを伸ばす責任があるのだ。
為政者ならばなおのこと。
震えそうになる声を呑みこみ、眉間を強く押し揉んだ。
努めて深く呼吸をし、咳払いによって気持ちを切り替えた。
「よく気付いたね、ウルール。
ではそんなウルールに問題だ。
この場所に水をもたらすよい方法とはなんだと思う?」
いつもの落ち着いた声色だったと思う。
腕を組んで目元は出来るだけやわらかく、口元は「この問題は難しいぞ」というふうに笑えたはずだ。
どうやらうまくいったようで、ウルールも私の質問に対して地図との睨み合いを始めた。
気付かれぬよう密かに息をつく。
町と農作物。森と林。山と川。湖と沼に。池と地中海。
それぞれの名称を大人と子供が書き散らした地図。
今彼女が見つめているのはなんだろうか?
目の前の文字か。地図の全体か。
それとも天才にのみ見える真理か。
そうしてしばらく。
ウルール・サラーサ・エルフィンは顔を上げて言った。
「じょーばーとおじさま。おこうちゃをください」
「……あ……ああ、すぐに用意しよう」
天才はのどが渇いたらしい。
「予備のカップはあるのでそこで待っていなさい」
異様な期待感への肩透かしに、ひどい脱力感に囚われた。
確かに失念していた。
ウルールがやって来てそれなりに経っている。
来客へ茶も出さぬのにお茶好きとは笑わせる。
給仕車の前に立つと、ウルールが丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます。じょーばーとおじさま」
急にバカらしくなってきた。
こんなにかわいらしい姪に嫉妬などと。
才能の有無など関係ないではないか。
文字を学びたいというから教える。
ただそれだけのことだし、彼女はそれを教われるだけの環境と立場にある。
私もルットジャーに生まれたからそうあれた。
食べるのにも困る国がある中で、豊穣の女神からの加護を十二分に受けるヴァスティタの――ルセイスとレウノアーネで育った。
多くを学び、惨めな思いもしたが、それ以上の喜びとも出会えた。
今は貴族として生まれた責任を果たすべく、難題に頭を悩ませているだけだ。
くだらぬ感情に振りまわされている場合ではない。
まったくもって、ルセイス領主代行失格だ。
頭の中を整理しながら、カップにお湯を注いだ。
先ほどは予備のカップと称したが、これはふいに訪れるウルールのために用意させていたものだ。
カップに触れて温まったのを確認すると、専用のボトルに湯を捨てて、ティーポットから紅茶を注ぐ。
こちらはまだ冷めきっていないようで、淹れるとほんのり湯気が上がった。
丁度いい。
これなら慌てて冷まさずともすぐに飲めるだろう。
受け皿に載せてテーブルへ運ぶと、ウルールは意外な行動に出た。
「ウルール?」
「じょーばーとおじさま。すこしだけおじかんをください」
ウルールはソーサーでカップにフタをすると、地図の広がるテーブルに置いたのだ。
過度な猫舌というわけではなかったはずだが……。
「構わないが……飲まないのかい?」
「あとでいただきます」
ウルールはそう言うと、ソファの上でカップと地図をじっと見つめていた。
動かない。
こちらの様子を窺うような仕草もない。
ただひたすらに見つめていた。
なるほど。
のどが渇いたのは方便で、先ほどの言葉通りに考える時間が欲しかったということか。
これならばメイドに湯を用意させた方が恥をかかせずに済んだというのに。
悪いことをした。
今からでもそうするべきか。
それとも事情を説明し、無理難題を押し付けてしまったと止めるべきか。
思い悩んだ末に、行動を起こそうとした。
そのときだった。
「じょーばーとおじさま」
ウルールが立ち上がり、カップに手を伸ばした。
「これではいけませんか?」
ウルールが手にしたのはソーサだけで、それを地図の上でゆっくりと傾けた。
ぽたり、ぽたぽたり。
一滴に続き、二滴三滴と地図を濡らした。
カップの中で上がった湯気がソーサーで結露し、降り注いだのだ。
はじめは意味がわからなかった。
しかし、カップの位置と滴の落ちた場所に気付いた。
北の湖と東のトウモロコシ畑。
そして私は戦慄する。
――雨だ。
目の前のこの娘は、雨を降らせろと言っているのだ。
つまり、雨量を人工的に増やせと。
「……それは可能なのかね? 本当に」
「かぜは『ほくせい』から。『ひがし』へふいています」
ウルールは羽ペンを手に風向きを書き込み、
「かざかみに『みずべ』があって。ここに『あめ』がすくないのは、『やま』がないからです」
先ほど話していた丘の辺りをぐるりと囲った。
「たぶん。このあたりでふってるんじゃないですか?」
ウルールが指差したのは中央地中海だった。
「その通りだ。ルシンコスへの海運ルートで雨に降られることが多いと聞いている」
「なので『しっけ』をふやして。『あめ』をふりやすくすればいいとおもいます」
「……雨の降りやすい環境か。ティーカップはどうする? 各地で湯気を増やすにしても、そううまく運ぶとは思えないんだが……」
彼女の理論が正しかったとして、そのままにあちこちで行っても湿気は分散してしまうのではないだろうか?
風向きは確かに間違ってはいないが、世界はティーカップのように閉じられたものではない。
中央地中海の雨量を増やしても意味がないのだ。
「『おまつり』なんて、どうでしょうか?」
「……なるほど、祭りか。時期も内容もこちらで決められるし、騒げる住民にすれば丁度いい鬱憤晴らしにもなる」
祭りが開催されれば大きな火を起こすし、炊き出しが振る舞われる。
人が集まれば酒宴も始まり、子供らにもなにかしら作るだろう。
一家庭が細々と上げる日常的な煙と湯気に比べれば、大きな違いとなる。
突然の提案に懐疑的になる者もいるだろうが、ルセイス貴族は基本的に仁政を敷いている。
しかも運のいいことに帝国からやってくる吟遊詩人の歌は、悪政に苦しむ民衆がよく登場した。
批判や否定的な意見はそれほど出ないはずだ。
そうだ。
いっそのこと一定量の水を炊き上げて、湯気の上り方や鍋が空になる早さで未来を占うというのはどうか?
それなら正確な実験データを収集できる。
……悪くない発想だ。
「あとは――」
「あとは?」
「ルセイスではあたりまえですけど。『みずあび』しかしないところもありますよね?」
「……風呂か!」
ウルールの指摘する通り、村や小さな町だと水浴びや濡れ布で体を拭くに留まる者の方が多い。
水の王国でも公共の風呂施設があるのは6大都市くらいなもので、湯浴みと言えば地方貴族の贅沢のひとつだ。
施設建造にしても公共運用にしても、時間帯を限定すれば小都市規模でなら可能だろう。
ただ、失敗したときの損失を考えると領主は踏み切れない。
きっかけが必要なのだ。
幸いなことにルセイスには『蛇と杯』という機関がある。
自然現象を操る実験と声を掛ければ、興味を持つ学徒もいるだろう。
ついでに浄水を目的にした魔法円の〈純粋浄化〉の施設建造に一役買わせれば、研究資金として出資させることも可能だ。
建設費が安くつくなら、沼が近くにある小都市を運営する伯爵たちも首を縦に振りやすい。
いや待て。
各地の領主はなんと言っていた?
執務机に山と積まれた書状の愚痴には、領民の不衛生を嘆いていた。
城塞都市に住む民が健康で衛生的だと羨んでいた。
交流の場ともなる風呂は、住民の鬱憤を晴らす娯楽としても有効だと市長らも話していたな。
水炊き祭りに公共の風呂施設。
これはすべて解決じゃないだろうか?
確かにまだ発案の段階で、小規模なものから少しずつ実験を繰り返してみなくてはならない。
だがもしこれがうまくいけば。
治水などという長期的で膨大な予算を要する計画は見送れる。
実験失敗というリスクは伴うがそれは治水も同じであるし、祭りと施設建造の一部を負担する補助金とでは比べ物にならない。
しかも施設建造後の魔法円の動力源――魔鉱石の販売先を開拓することになる。
地下自然迷宮を領地に持つ伯爵は、この計画に賛成するだろう。
そこへ潜る冒険者にとっても魔鉱石の高騰は歓迎であろうし、疲れを落とす風呂施設は魅力的に映るはずだ。
魔力を含んでいる金属や宝石は加工されて武具に使われるが、それ以外は価値がかなり落ちる。
それでも魔法円を描く塗料の材料や設置型魔法円のエネルギー源としてそこそこの値段はするのだが……。
急激に高騰すると現行の施設への供給に支障や不満が出る。
施設は3つに留め、実験的に長時間の営業をさせてみるか。
最初は浄水施設が不要な、水質の良い川か湖が近くにある小都市がいいだろう。
こんなに心躍る計画は初めてだ。
ソーネストかジーンあたりを巻き込んでみたい。
きっと興味を持つはずだ。
一頻り計画を夢想したせいか、我に返ることが出来た。
そして目の前で満足げに微笑む幼子に気付いた。
私は彼女を知ってしまった。
知ってしまった以上、この娘を守らねばならん。
ルットジャーとサラーサが生んだ至宝。
今ならば父上の言葉の意味がわかる。
この娘は歴史に名を残す神の子だ。
英雄となるために生まれた真の英雄だ。
幼女期の方が賢く見える不思議!




