魔法の真髄 1
気がつくと真っ白な世界にいた。
振り返っても景色は何一つ変わらず、ただただ白い。
どこまでも果てがないような空間は、手を伸ばせば壁に触れるかもしれないような錯覚を与える。
下手に意識すると平衡感覚を失って倒れてしまいかねない、酔いそうな場所だった。
「あれ? ……どこだろここ」
ウルールは記憶を探るが、来た覚えがない。
場所も知らなければ、ここに至る経緯もわからない。
一番最近の記憶はなんだっただろう。
「……千年祭」
そう建国千年祭だ。
千年祭を楽しむための軍資金を作ろうと、その準備に参加していた。
メネデールの授業の合間に兎猟や漁猟をしていた。
順調に集まっていた資金は――。
「……イノシシ」
そう、大イノシシに目をつけられて、中央地中海に消えた。
どうあがいても絶望の未来しか浮かばないところを、子連れの武道家に助けられた。
だんだんと思いだしてきた。
武道家の名前はトーガ・ヴェルフラトで、同行する子供はシュー。
トーガは歴史学者で、英雄譚の研究者で、遺跡の碑文を解読して回る錬金術師。
シューは師であるメネデールの戦友で、記憶喪失で、ラファナスの本当の主人。
命の恩人の二人を食客として迎えて――。
「……魔法」
そう、魔法だ。
生まれて初めて魔法を成功させた。
「使い道のよくわからない魔法!」
ホーリィの指摘で実感を得た、へんてこな魔法だった。
それでもうれしさは込み上げる。
喜びが胸の中心からじわりじわりと広がって、うずく体が踊りだせと言わんばかりだった。
トーガとの世間話が詠唱というわけのわからない経緯で誕生した〈魔法の川魚〉。
その後にトーガから魔法について色々と説明をされたが、どれも右から左、左から右と通り抜けてしまっていた。
初めて発動した魔法への歓喜で、脳が感情を吐きだすことに夢中だった。
どちらかというと、メネデールやホーリィの方が真剣に聞いていた。
魔法は魔力によってなんとか。
魔力は生命力がなんとか。
あとは”まにゅるあマジック”のやり方かなにか話していた気がする。
そして歓喜の感情に振りまわされたまま、自分の寝床に着いた。
そう、寝たのだ。
不慣れな魔法の発動で、大量の魔力を消費した影響で一気に眠りに着いた。
つまり今は夢の中か、家族ぐるみの悪戯によって放り込まれた白い部屋かのどちらかだ。
たぶん前者だろう。
後者だとして、こんな何もない真っ白な空間なんていう大仕掛けを用意してまでやる家族ではない。
ついでに言えば、魔法で生み出した空間という可能性もないだろう。
魔法も万能ではない。
空間に関する魔法の話は聞かない。
覚えがあるとしても英雄譚に登場する”大地ごと削り取った”と表現された英雄マースの魔法くらいだ。
異空間に呑まれた――というふうに語られているが、どう作用したものかは解明されていない。
特に英雄マースは魔法について語ることなく、非難の声に追われるように姿を消したとされている。
600年前の出来事ともなると、エルフィンでは2世代か3世代ほど前のことではあるが、当時のことを語る者は少ない。
恥じているのだ。
「うーん。これが夢だとして、一体どうやって目を覚ますことが出来るんだろう」
なにもない真っ白な世界では、暇をつぶすものがない。
寝間着姿でなく、普段着のサリーをまとってサンダルまで履いている。
サンダルの底で地面を叩けば硬質な音がして、寝転がるには痛そうだった。
今出来ることとなると、あてもなく歩き回るか、〈魔法の川魚〉の練習か、詠唱の短縮化を目指した文言とイメージの結びつけ作業か。
かろうじて覚えているのはトーガのその話だけだ。
トーガによると〈魔法の川魚〉は、〈魔法の矢〉の形状が違うものという解釈でいいらしい。
随分と自由な動作をする矢だな、などと夢見心地で聞いていた。
まにゅるあマジックの説明で、その原理について話していたはずだが、なんだったろう?
そんなことを考えていると、遥か遠くの方からなにやら騒がしい音が迫ってきた。
音の主に目を向けるが、比べる対象や距離感が掴めないために、宙に浮いているのか大きいのかとんと見当がつかない。
「ぱからぱからぱからぱからぱからぱから」
ようやく音がなんであるかがわかる頃には、その奇怪さに目を丸くする以外何も出来なくなっていた。
白いモコモコの毛玉から四足らしきものが生えているが、一般的な動物らしさは感じられなかった。
なにせその毛玉が、馬の蹄の音らしきものを口真似ているのだから。
「ぱからぱからぱからぱからぱからぱから」
ようやく大きさがわかる距離にまで近づくと、中空を駆けているのがわかった。
小脇に抱えられるほどの羊っぽいぬいぐるみのような形をした生物で、頭には立派な巻き角がある。
羊の角は種類によって、オスもメスも生えているので判断できない。
そもそもあんなものが、ウルールの常識の通じる生き物でないのは一目瞭然だ。
羊は、ウルールを中心に大きくくるくると旋回しながら地上へ降りてきた。
目の高さに迫ると、背中に小さな黒い羽のようなものがパタパタと申し訳程度に動いているのが見えた。
あの翼では、浮力が絶対的に足りない。
どういう原理で飛んでいるのかさっぱりわからないが、所詮夢の世界の出来事だ。
気にすることもないだろうとウルールは切り捨てた。
夢から覚めるまでの暇つぶしがやってきたという認識だった。
「どうどうどう!」
騎手が駆けた馬の興奮を鎮めるセリフを真似ているが、走っているのは羊本人だ。
意味があるとは思えなかった。
「ぱおーん!」
「馬じゃないんだ……」
「だれがおうまさんじゃ! どうみてもひつじさんじゃろが!」
「……しゃべった」
馬の蹄の音を口真似ていると感じたときに予想はしたが、少しズレていた。
パオーンと鳴くのはなんだったろうか。
確か獣人王国が崇める主神がそんな鳴き声を上げる動物だった気がする。
「なんじゃおまえ!」
「えっと……」
同じ疑問を返したい気持ちを堪えて、手探りながら情報を乞うてみることにする。
変に刺激して話相手を逃すこともないという気持ちもあったが、どちらかというと興味があった。
目が覚めればまぼろしのように忘れてしまうかもしれないが、せっかくおもしろそうな素材が目の前に現れたのだ。
楽しんでも罰は当たるまい。
「はじめまして。
ウルール・サラーサ・エルフィンです」
「うん、知ってるよ?」
「あれ? 今 身元を尋ねられたんじゃ?」
「挨拶は大事じゃろう? 妾が一方的に知っていても初対面じゃし」
「あー、確かにそうですね。挨拶は大事です」
「わかればええんじゃ」
一人――一匹納得して、コンパクトな羊らしき物体は二足歩行の体勢で前足を腕のように組み、ガハハと豪快に笑った。
どうやってるんだろう。
四足歩行動物の骨格と筋肉の付き方から、そのような動作は出来ないはずだ。
自分の夢が生み出したにしては、なかなかにユニークだった。
一人称を聞く限りだとメスのようだし、二、三言交わした程度での感想は、我が道を行くタイプ。
この手合いは自分の思う通りに進まないとへそを曲げるか、気にせず突き進むかの二通りだ。
わざわざ口数を減らす愚を犯すこともない。
しかも挨拶が大事だと言うのだから、名前を聞く権利を得たも同然だ。
「名前をお伺いしても構いませんか?」
「おう! よう聞いてくれた。妾の名はな。メル――」
「メル?」
「メェー……」
「メルメエさん?」
「ちゃうよ。今のは鳴き声やよ」
ぷるぷる顔を振って眉を八の字にした羊っぽいなにかは、それだけ言うと視線を反らした。
怒ったり、居丈高になったり、弱ったりと忙しい。
羊の望むまま話に乗ったはずだが、なにか不都合があるようだ。
自慢げな名乗りをとっさに鳴き声へ切り替えるのだから、よほどの理由があるのだろう。
正体に関係する質問も嫌がりそうだ。
この話題を引っ張る意味はあまりない。
夢の中の登場動物にこんな推測を立てること自体が無意味かもしれないが――。
「メーちゃんでいいですか?」
「うん、まあええじゃろ」
「メーちゃんはどうして私のことを知ってるんですか?」
「うん?」
ごくごく当たり前の質問を投げかけると、首をかしげてから、両前足でポンと叩いた。
蹄なのになぜ硬質な音がしないのだろう。
「ああそうか。そうじゃった。えっとな。おまえと縁が出来てしもうたんじゃ」
「縁ですか?」
「おまえ魔法覚えたんじゃろ?」
「ええ、まあ」
「そいでせっかくじゃから、妾が魔法の真髄を授けてやろうと思うてな」
「うん? 縁の話はどこに?」
「だからおまえが魔法を覚えたから妾と縁が出来たんじゃ!」
両前足を振り上げて、後ろ足で白い床をカツカツと叩いた。
後ろ足では硬質な音がするらしい。
ちょっと触ってみたい。
「なんじゃ? 妾の艶美な四肢に見惚れおって。おまえそっちのケがあるのか?」
メーの指摘にウルールはブルンブルンと派手に首を振って見せる。
「まあ妾ほどの美貌を持つと、同性も発情するのは無理からぬことよ。恥じることはないぞ。よきにはからえ」
丸い毛玉は短い四足それぞれをしなやかに動かした。
ウルールは不覚にも、それに艶めかしさを感じてしまった。
同性趣味はともかくとして、獣に誘惑されてしまうとは、ホントにそっちに目覚めたらどうしよう。
獣人族の婿取りになるんだろうか?
いや、最近これよりももっと惹かれた人物がいる。
「なにせ妾は絶世の美女の血統たるメサ――」
「メサ?」
「メェー……」
言い淀む彼女に促してみるが、サッと視線をそらされた。
よほど自慢したい名なのだろう。
メルで始まる名前やメサで始まる家名に覚えがない。
あれ? 本当に覚えはなかっただろうか?
何度首をひねろうとも答えは出てこない。
しかし、自慢したい家名という点に少しだけ共感がある。
ウルールにとってつい最近まで、ルットジャーの血統であることを知られるのは恥かしいことだった。
トーガたちを案内する際も、話題から避けるように入り口の石像を足早に抜けた。
魔法が使えない大魔法詠唱者の血統というのは肩身が狭いからだ。
伯父のジョーバートはそんなウルールの数少ない理解者だったが、魔法を使えるようになった今はほんの少しだけうれしく思える。
それにはこれからもっとすごい魔法を覚えられるという希望的観測も含まれていた。
とはいえ、まだ自慢したいとまでは思えない。
実力が見合わない名は、少し重い。
メーは家名に恥じない実力か、強靭な精神を持ち合わせているのだろう。
「なんの話じゃったかな?」
「メーちゃんの名前はメサなんとか?」
自分の家名に気を取られたままに応答してしまい、しまったと思った時には遅かった。
避けるべき話題を引っ張ってしまっていた。
予想は正しかったのか、巻き角の生えた毛玉がひっくり返って左右に転がって見せた。
「きいいい!」
四足をめちゃくちゃに振り乱して、見方によっては起き上がれなくてもがいているようだった。
「夢じゃと思ってテキトーに応答しおってからに!」
「あれ、そっち?」
「妾はテキトーに扱われるのが嫌いなのじゃあ!」
「あー」
駄々をこねる子供だったらしい。
自分で振った話を忘れたのに相手には覚えていて欲しいとは、まさに絵に描いたような我がままだ。
気難しい頑固親父タイプかと思っていたが、小さい形の通りに幼いようだ。
しかし、ウルールは彼女の言葉の一つに意識が向いた。
「あれ? メーちゃんはここが夢の中という自覚があるんですか?」
「うん? 当たり前じゃろが。これはおまえの精神に直接語りかけとるんじゃから」
「精神に語りかける?」
「それも知らんのか。そっちはえらい平和ボケしとるんじゃのう」
「そっち?」
「まあそれはええんじゃ」
ピシャリと話題を打ち切られた。
異議を認めぬ空気をまとっていた。
仰向けに転がっている丸い毛玉でなければ、背筋を伸ばしていたかもしれない。
先ほどの駄々っ子は演技だったのだろうか。
いや、もっと根本的な問題として、これは本当に夢なんだろうか?