お風呂 2
緊急の氏族会議を終えて館を出たホーリィは、ため息をついた。
バカな妹の命の恩人をメネデール邸に泊める報告だけのはずだったのに、という思いを一杯に込めたため息だ。
陽はとうに傾いて王都を橙色に染めている。
実にアホらしい時間を過ごした。
魔法か刺突剣の自主訓練をする方が、よっぽど有意義だったろう。
なんだったら英雄譚に関係する資料を読みあさってもよかったかもしれない。
語り部や演劇用のものでなく、大規模戦闘の記録や魔法の行使を目撃した情報を集めた資料には、高度な魔法の様子が描かれている。
魔法にとってイメージというのはとても重要だった。
ホーリィの得意な中級の火属性魔法は、油の海に火種を投げ込むイメージで放つ。
すると不思議なことに、放った〈火炎球〉は小さくとも、目標に着弾すると同時に爆発的に燃え広がる。
これも英雄譚の資料に描かれていた魔法のイメージを模倣した。
ホーリィの目標は、血統の祖であるヒーネの氷結魔法の習得だった。
沸騰する海水ごと溶岩を凍りつかせた、氏族歴代最高の魔法詠唱者のヒーネ・ルットジャー。
火属性の魔法は水属性と正反対であるからこそ、原理を知りたくて手を出した。
思いの外相性がよく、今では火属性魔法の方が得意となっている。
「過ぎた時間を取り戻そうとしても無駄よね」
気持ちを切り替えるためにことさら大きなため息をつくと、視界の左右で束ねられた暗い金髪が揺れた。
正直邪魔くさい髪型だ。
剣を振る時も魔法を使うときもチラチラ視界に割り込んでくるし、近接戦闘においては掴まれやすいので弱点と言える。
15を迎えてなおこの髪型にこだわるのは、丸くて形のいい頭が映えることと、寝癖が簡単にごまかせること。
あとはバカな妹が気に入っていることくらいだ。
亡き母がかわいらしいと褒めてくれたこの髪型は、幼いウルールのお気に入りでもあった。
出会って間もないころは、この二房の髪に触っていればいつだってご機嫌になった。
そのおかげでもうクセになって、寝ぼけているうちにこの髪型にしてしまっている。
「お客人とやらも気になるし、さっさと帰らないとね」
ホーリィはそうひとりごちて歩きだした。
ウルールは14にもなっても一切の魔法を使えず、まともに使えるのはナイフと弓くらいだ。
そんな間抜けな妹の命の恩人は凄腕らしいが、この目で確かめねばわからない。
氏族会議での指令は、トーガ・ヴェルフラトの素性と実力を探ること。
その理由は――バカらしくなるが、ウルールと長く関わる可能性のある相手だ。
調べておいて損はないだろう。
大叔父のゼシオンが居ればもう少し違った内容に――はならない。
ゼシオンもルットジャー氏族の男だ。
”ルットジャーの男は例外なく、メネデールに心酔する”
これは何代も前のルットジャーの当主の言葉だ。
少々気取ってはいるものの、的を射ている。
6歳という自我が芽生え始めたころにあの、美貌のエルフが魔法の教授をするのだ。
しかもメネデールはエルフに珍しく、胸が大きかった。
ルットジャー氏族の女の間では、メネデールが豊穣の女神の加護で胸が豊かになったのだと実しやかに囁かれている。
その影響たるや凄まじく、ルットジャー氏族の男の好みは、面食い・金髪・巨乳の三拍子がそろっていた。
そこへメネデール邸の食客として、ウルールの命の恩人トーガ・ヴェルフラトを迎えると言うのだから、父たちは取り乱した。
あれが一流の実力を持つ魔法詠唱者たちだと言うのだから苦笑いだ。
さすがに当主のサイオンは落ち着いていたが、難色を示していた理由がそうでないことを祈る。
ふと、ホーリィは自分の凹凸の乏しい部分に目をやると悲しい気分になった。
血統で言えばもうそろそろ膨らんでもいいはずだ。
ルットジャーに嫁入り、もしくは婿入りする者は、なにかしらメネデールに似ている部分を持つため、生まれてくるのは男女ともに容姿は抜群にいい。
ところがホーリィの膨らみは、性格と反比例するように慎ましかった。
ウルールのように”エルフ”であるから、という諦める理由がないのでつい期待してしまう。
なにせすぐそばにいる姉のヘレナがすごいのだ。
湯船に浮くのだから。
そのヘレナに悩みを打ち明けて教わった、毎晩の寝る前のおまじないの文言は、「豊穣の女神の加護あれ、チチシリフトモモ。メネデールの恩恵あれ」だ。
効果はまだ出ていないが、おまじないを始めてたった912日だ。
ホーリィは、ふいに滲み出る涙を拭った。
目尻の涙は、思い描く未来のまぶしさのためだ。
きっとそうだとホーリィは頷いてから、橙色の空を眺めた。
「おや? お姫さんじゃないスか!」
「ホントだ! ホーリィのお姫様だ!」
「こんばんは。今からお帰りですか?」
横手の道から掛けられた声に、ホーリィはしまったと眉を下げて視界を半分遮った。
見たくないものを隠すように、自らの手をさらに重ねた。
「そんな”あっちゃー”みたいなリアクション取らんでくださいヨ」
「アタシたちも仕事ですからね。ね。ホーリィのお姫様。ほら。こう、いつものキラキラーって感じの愛らしい笑顔を見せてくださいよー」
「巡回組の決まりなので、送らせてくださると助かります」
軽口を叩くのは、小剣を腰にショートボウを背負った皮鎧の軽薄な男チャラック。
口数の多い杖を手にするローブの女は、魔法詠唱者マグリ。
礼儀正しいのは、立派な剣を携える軽装鎧の男トマス。
愛想たっぷりのこの3人組は、組合連合の主催する王都巡回警備の第二区画担当だ。
普段はD級冒険者として活躍するそこそこ名前の売れた中堅で、マグリも水属性のみであるが立派な元素魔術師だ。
「アンタたちにそんな顔向けたことなんて一度もないわよ」
横柄に吐きつけると、3人はうれしそうに歩み寄ってきた。
いつものやり取りなので、挨拶代わりだ。
「お姫さんになにかあったら”こと”スからね」
ホーリィが邪魔くさく感じているのを理解している彼らは、自分たちの都合に付き合ってもらおうとおっかなびっくり話していた。
理由は知っている。
原因も――目撃した。
しかし、姫と呼ばれるのは未だに慣れない。
水の王国の6大貴族に数えられるルットジャーの娘を”姫”と呼ぶのはごくごく当たり前の慣習だ。
正確にホーリィを下級層の者が呼び掛けるのなら、”姫君”。
上流階級同士であれば”レディ・ホーリィ・ルットジャー”となる。
堅苦しい呼ばれ方を嫌うルットジャー氏族の女子は、親しみを込めてお姫さん、お姫様などと称される。
彼らなりに随分譲歩したようだが、ホーリィにとってあまり好きな呼ばれ方ではなかった。
「なにか起こる前に”毛玉”が来るわ」
なんの役に立つのかわからないけどねという小さなつぶやきは届かなかったようだが、”毛玉”という言葉に冒険者たちは凍りついた。
彼らもラファナスの姿と警戒の空気に当てられた経験があった。
守護魔獣の殺気を浴びたことのないルットジャー氏族ではピンと来ないが、巡回警備冒険者は洗礼のごとく”警戒”の一睨みを経験する。
そんな彼らに言わせればまさに”蛇に睨まれた蛙”の心境だとか。
ホーリィも駆け出し冒険者の何人かが床を濡らしたのを見てきていた。
けれど実際にラファナスが活躍するところを若い氏族は見たことがない。
勘が鋭いのか、守るべき対象の危険を察知するとすぐに側へ現れ、害意や敵意を持つ者は姿を消してしまう。
そのため役に立ったっているのか、気まぐれでやってきたのかの判断が若いころには出来ないのだ。
ホーリィもその一人だった。
「アンタたちが嫌々ながらうちの人間を優先的に護衛するのは知ってる。だからうるさいことはいわないわ」
組合連合誕生の顛末を知っているホーリィにとって、彼らの活動を否定することはできない。
7年前にきっかけを作ったのはメネデールだ。
しかも国王はその働きに感謝の意を示して、主催者を名誉商人と評した。
建前は、組合が集まって自主的に王都の巡回をしていることになっているからだ。
「アイツに感謝しろと言われたら、前歯10本貰うけどね」
「お姫さん……スゲー言いにくいんスけど、人間に10本も前歯はないッス」
「知ってるわよ。魔法で治癒して10本分貰うのよ」
「うわー。お姫様カゲキー。憧れちゃう」
口元を隠すチャラックとは逆に、マグリは瞳をキラキラさせていた。
マグリはおべんちゃらでなく、本気でホーリィに憧れている節がある。
マグリから見てホーリィはずっと年下の少女であるが、気軽に話しかけてくれる大貴族のお姫様で、魔法の腕はすでに自分より上だからだ。
時折水の魔法をねだって見せてもらうこともあった。
ホーリィはまだ魔導師の称号を持っていないために教えることは許されていないが、手本に見せてやるくらいなら出来る。
同じ詠唱の同じ魔法でも使い手によって効果の違いを大きく実感出来るゆえ、マグリはホーリィの魔法の素晴らしさに酔いしれていた。
「そんなにやたら滅多ら褒めたってなにも出ないわよ」
「時々魔法が出るじゃないですかー」
「今日は見せないわよ」
「今日はなんかあるんですか?」
「メネデールさまにお客さまが来てるのよ」
たぶんね、と小さく付け加えた。
おやつの時間時に毛玉のバカでかい遠吠えが聞こえた。
なにがあってそうなったのかは分からないが、喜色ばんだものだから悪い事態ではないのだろう。
それに客人が関係してる可能性は高い。
客前でメネデールに褒められた、という可能性だ。
「相手はご貴族さまですか?」
「知らないわよ」
ホーリィの知る情報はウルールの口から出たものだけだ。
バカでかいイノシシを一撃で仕留めた凄腕の拳闘士。
経済に興味があって、ウルールに王都の案内を頼んだ謎の男。
「それって凄腕の拳闘士でしょうか?」
珍しくトマスが話題に首を突っ込んできた。
「なに、アンタ知ってんの?」
「冒険者組合でちょっと話題になってまして」
「あーオレも聞いたッスよ。なんか大陸史上最大のイノシシで、オークションを開くんだってハブッチのダンナが喜んでたアレッスよね?」
「あー! アレね。アタシも知ってるわー。イノシシよね、うん。知ってる。大きいんだよねー」
マグリはどうやら知らないようだが、王都で話題になっているのはホーリィにもわかった。
商業組合の職員が派手に宣伝しているのもあるのだろう。
「一撃で仕留めたと聞いたんですが、本当ですか?」
「あー、それオレも気になってた。過剰表現ッスよね? あんなアホみたいなでかい毛皮の怪物を拳で一撃とか人間やめてるッスよ」
「ええー!? あんなおっきなアレをですかー?」
「ウルールが言ってたからホントのはずよ。あのコはウソ下手だから」
「マージッスか!? そんなすっげえ拳闘士とかもう英雄級じゃないんスか?」
「チャラックはすぐ英雄級にしたがるよねー。でっかいって言ってもイノシシよ」
「……すごいですね。イノシシは不意の事故で亡くなる中堅冒険者も少なくはないですし」
猪突猛進という言葉の通り、イノシシは目標を見つけると誰かれ構わず突進する。
突き飛ばした対象に即座に食らいつき、場所によっては即死もあり得た。
駆け出し冒険者殺しとも呼ばれ、別の目標に気を取られた中堅冒険者がやられてしまうケースも少なくない。
そしてイノシシは牙と突進を武器にする動物で、頭蓋骨は頑丈だ。
ウルールの話によると、躱すと同時に仕留めていて、目立った外傷はなかったらしいが、どうやって倒したのかさえ見当がつかない。
可能性は脳震盪だが……どんな大男なのか見物だ。