お風呂 1
ウルールは館の脱衣所で頭を悩ませていた。
原因は目の前でぼんやりと立っているシューだ。
たった14年で積み上げた常識とは言えど、すでにボコボコになって見る影もない。
家族のイメージまで壊されるとは思わなかった。
その一人はメネデール。
尊敬すべき師であり、情に厚く、気高いエルフの英雄たる彼女は、離れていた時間を少しでも埋めるように、シューにべったりだった。
シューを愛でるというより、甘えているように見えた。
しばらくしてシューの旅の疲れを落とすよう命じられたのだが、名残惜しさを隠しもせずに外套から手を離さなかった。
自分で命じておいて、とウルールはその手を引っぺがすのに少しの時間を要した。
「そんなにくっついて居たいのなら、メネデール様がご自分でお風呂の供をしてはいかがですか?」
そう言うとようやく外套を握る手を緩めておとなしくなった。
こんなメネデールは初めて見る。
「ウルール。尊敬すべき師をそんな目で見るのはよしなさい」
「ではせめて、弟子の前では威厳を保ってください」
これが280年以上生きるエルフの英雄の姿とは、到底思えなかった。
頼りになる姉にすがる、幼い妹も同然だ。
ちょっとかわいい。
トーガの言うかわいらしいという表現が、ウルールにも少しだけわかった気がした。
もう一人――一匹はラファナス。
シューをお風呂場へ案内する途中で、姉のヘレナが荷物持ちのラファナスを伴って帰宅した。
シューはそれに呼応するように庭へ出て一人と一匹を迎えたのだが、誰もが考えない事態が起こった。
小さな客人に気付いたヘレナが挨拶をしようと膝を折ると、ラファナスが突然転がってお腹を見せたのである。
完璧な服従のポーズだった。
しかもラファナスは切なそうに鼻を鳴らして身体を揺すり、甘えていた。
ヘレナとウルールが唖然とするのも無理はなかった。
ラファナスはあのメネデールが怒りを露わにしても、震えた声で服従を示した伏せをするくらいで、滅多にお腹は見せない。
シューが何者か知らないヘレナには衝撃の光景だったに違いない。
実のところ、ルットジャー氏族では長年疑問視されていることがあった。
それは、ラファナスの英雄譚での活躍だ。
英雄譚では勇猛果敢な大活躍をする神獣として描かれている。
確かにその体躯は目にする者に本能的な恐怖を呼び起こす成獣なれど、精神が幼児と評しても過言でないのが一番の理由だ。
場の空気は読めず、命令を理解できないこともしばしばあり、泥遊びを好んで毛繕いを軽んじる。
動物の毛繕いは皮膚病の予防であり、瑞々しい毛皮は天然の鎧だ。
魔獣ともなれば白刃のみならず、垂直に放たれた弓矢をも弾くと言われている。
ラファナスはまだ戦士ではなく、子供なのだと言うのがルットジャー氏族全体の見解だった。
物語に見合うよう美化されているのだろうと思うのは仕方のないことだ。
それが誤解なのだと、今日証明された。
英雄譚では”氷と狩猟の女神よりヒーネに下賜された”となっていたが、真の主人はシューだったのだろう。
ラファナスはシューの命令にはなんでも喜んで従った。
お手をし、伏せて、転がり、飛び跳ねて、くるりと回って一吠えした。
淀みもなく迅速。
熟練の兵士のように、命令以外の動作ではブレもしなかった。
久方ぶりの主人からの命令で、一吠えが咆哮になったのはご愛敬だろう。
下手をすると外壁の向こう側にも影響を与えているかもしれない。
未だにウルールの耳の奥が痺れていた。
しかしウルールにとってそれは、些細なことのように思われた。
今はさらなる問題を抱えていたからである。
シューの正体について――だ。
メネデールは彼女をヒト種族であることに確信を持っている。
そして”時間が止まったかのように成長しない”こと。
伝承記や英雄譚にも似たような症例を目にした記憶があった。
なによりシューは、あの完璧な血抜きを行った可能性がある。
トーガが一撃で仕留めた大イノシシ――粉砕する刻印猪に物怖じせず、何かやっていたのは唯一彼女だけだ。
ハッキリと見たのは牙を掴んだり、毛深い鼻を持ちあげているところだが、なにやらごそごそやっている背中は記憶にある。
血の海を作らず、血抜きをする。
英雄の”幼い導き手”シューは、吸血鬼かもしれない。
だとしたらお風呂はまずい。
不死者は、流水を苦手とする。
水が清らかであればあるほど、肌を焼く脅威は高まってしまう。
エルフは過度な香り付けを嫌うため、アロマオイルは常備していない。
何の準備も確認もなく彼女を湯船に入れるのは、危険である気がした。
「あの、シューちゃん」
ウルールの呼び掛けにシューは顔を上げた。
「シューちゃんはお水……大丈夫?」
こくりと頷いた。
正直、ウルールの聞きたいことが伝わっているか怪しかった。
「えっとその。シューちゃんはキレイな水で火傷とかしたりは……したことない?」
「……ない」
「そうだよね。お湯じゃなくてお水で火傷なんてしないよね」
不死者ではないのだろうか?
不安は残りつつも、シューの外套や服を脱がすと、傷一つない肌に子供特有のぽっこりお腹が現れた。
ここには今、ドーナツが3つも入っているのだから当然だ。
軽くさすってみると、シューが不思議そうにその行為を見つめていた。
温かく、やわらかかった。
手のひらから伝わるものすべてが、生者であることを訴えている。
不死者であれば体温はなく、夏場と言えどひんやりと感じたことだろう。
ウルールの知識では違っていそうだが、今日という日は例外の山だった。
油断できない。
ふと、飲食店の出来事を思い出した。
洗濯籠に入れた脱ぎたての服に目を落とす。
やはり、汚れは一つも見つけられない。
長旅で汗や垢が染みついてもおかしくないはずなのに、一払いするとわずかな砂埃が落ちて新品同様になった。
普通の服ではない。
その確信にぶわっと汗が出て、額から流れおちた。
魔法の服だ。
ウルールは氏族当主が身につけている”静寂のローブ”も魔法の服であることを思い出していた。
汚れず、破れても元に戻り、着る者に合わせてサイズも変わるという魔法の服。
間違いない。
これは”遺物”だ。
ウルールの手が震えた。
今 手に持っているのは、売れば七代は遊んで暮らせる大金になるものだ。
脱衣所に無造作に置いていい代物ではない。
「……ど、どうしよう。こんなすごいものここに置いて大丈夫かな?」
「……だいじょぶ」
シューはウルールの不安に、肩を叩いて応えた。
すごく心強かった。
まぶたを下ろして深呼吸を数度繰り返す。
冷静に考えてみれば、このメネデール邸でなにかを盗もうなどという輩が侵入できるはずがない。
庭には守護魔獣ラファナスに、屈強な森妖精の隣人たちがおり、木の精霊が館の内外に控えている。
ウルールは深呼吸をしながらの状況の把握により、平常心を取り戻した。
不安が残るのは、シューが体温があるタイプの吸血鬼や不死者という未知の存在である懸念だけだ。




