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9 引っ越し蕎麦

 紫苑の部屋の扉の開閉音が聞こえて、僕はようやく息を吐き出した。

 今のは一体何だったんだ!?

 まるで紫苑が僕の頬にキスしたみたいじゃないか。

 いや、ただ単に僕をからかっただけだ。

 きっとそうに違いない。

 そうは思っていても僕の頬が熱を帯びたように熱くなっているのを感じていた。

 そこへ扉のノックと共に「雅樹、ご飯よ」という母さんの声が聞こえた。

「わかった」

 そう返事をすると今度は「紫苑君、ご飯よ」と紫苑に声がけしているのが微かに聞こえた。

 ヤバい!

 このままじゃ人前になんて出られないぞ!

 僕はパタパタと手で仰いで頬の熱を覚ます。

 紫苑が部屋を出て行ったのを確認してから、少し遅れて僕もリビングに向かった。


 リビングに入ると奥のダイニングテーブルには既に三人が腰掛けている。

 お義父さんと母さんが並んで座っているから、紫苑の隣の席は当然僕が座る事になる。

 紫苑と向かい合って座らずにすむのは有難いが、かと言って隣に座るのもなかなかハードルが高い。

 しかし、隣といってもテーブルが大きいから紫苑と僕の間には余裕でもう一人くらい座れそうだ。

 LDKではあるが、かなりの広さがある。

 したがってこのダイニングテーブルも余裕で8人くらい座れるくらいの大きさだ。

 真正面から紫苑を見ずにすむ事に安堵しつつ、僕は椅子を引いて座った。

 テーブルの上には各自ざる蕎麦が用意してあった。

「今日は引っ越しだったからな。引っ越し蕎麦を用意したんだ」

「足りなければご飯も炊いてあるから遠慮なく言ってね」

 母さんが僕と紫苑に向かって告げる。

 蕎麦だけならともかく、一緒に天ぷらも添えてあるし、蕎麦も一人前よりは少し量が多いように見える。

 いただきます、と手を合わせてから蕎麦をつゆに浸けてすする。

 そんなにグルメな方じゃないはずだが、何故かいつも食べている蕎麦よりは香りが芳醇な気がした。


 食事を終えると各自自分の食器をキッチンの方へと運ぶ。

 そのままリビングの方に移動しようかと思った時だった。

「宿題があるので部屋に行きますね」

 紫苑はそう告げるとさっさと自室へと向かった。

 僕も新婚の二人の邪魔はしたくないから、紫苑にならって自室に行く事にする。

「僕も宿題をすませるね」

 そう言ってそそくさとリビングを後にする。

 実際、夏休みの宿題があるんだから、あながち嘘ではない。

 リビングを出て自室の扉を開ける際、チラリと隣の紫苑の部屋の扉を見つめた。

 紫苑は食事の間、僕の方を見る事はなかったような気がする。

 僕はといえば、先ほどの紫苑の唇が僕の頬をかすめた事が気になって紫苑の顔を見られずにいたのだが……。

 やはりさっきのは紫苑が僕をからかっただけだ。

 紫苑が僕の事を好きかも…なんて、そんなバカな話があるわけない。

 ブルブルと頭を振ってバカな考えを追い払うと、扉を開けて自室へと入った。


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