57 帰宅
「イタッ」
ホッとした途端、口の中に痛みを感じた。
殴られた時に自分の歯が当たって口の中が切れたのだろう。
舌で恐る恐る切れたらしい箇所を探るとピリッとした痛みが走る。
「大丈夫か、雅樹? ちょっと見せてみろ」
紫苑が僕の顔を覗き込むが、流石に紫苑に口の中を見られるのは恥ずかしい。
そもそも痛くて大きく口を開けられそうにない。
「大丈夫、少し切れただけだよ。それより頬は赤くなってない?」
紫苑は僕の顔をまじまじと見つめたかと思うと、グッと拳を握った。
「ちょっと赤くなってる。もしかしたらこの後青痣になるかもな」
「うえっ! ヤバいな。学校ではマスクで顔を隠すにしても、これからウチの親に顔を見られるとなると誤魔化せないよね?」
僕は頬をそっと押さえたが、ほんの少し指が触れただけでも痛みが走る。
「両親には僕が殴った事にしてもいいよ。それよりこれから夕食なんて食べられるのか?」
紫苑が心配してくれているとおり、口の中が切れているので、食事をしたらきっと傷口に沁みるだろう。
そもそも頬の痛みで咀嚼が出来ないかもしれない。
だが、それよりも紫苑が僕を殴ったという設定には賛同出来ない。
「紫苑が殴った事にするのは駄目だよ。潤也の名前は出さなくていいから、僕が友人と喧嘩しているのを紫苑が止めた事にしてくれよ。な、いいだろ?」
そうお願いすると紫苑は軽く息を吐いた。
「仕方がないな。じゃ、家に帰るか」
紫苑が僕の手を引いてマンションのエントランスへと入って行く。
そういえば、どうして紫苑があの場にいたのだろうか?
「紫苑、どうしてあそこにいたんだ?」
「雅樹が夕食の時間になっても帰って来ないから、迎えに行こうと思ったんだ。あいつに雅樹の唇を奪われなくて良かったよ」
エレベーターに乗り込むと紫苑は僕の髪にそっとキスを落とす。
確かこのエレベーターには防犯カメラが設置してあったはずだけど、見られてないよね?
「雅樹の傷が治るまでキスはお預けだな」
しみじみと残念そうに言うけれど、それには僕も激しく同意する。
家に帰ると僕を見るなり母さんは大声をあげた。
「まあ! 雅樹、その顔どうしたの!?」
母さんがあんな声を上げるとは、どうやら思っていた以上に酷い顔をしているようだ。
「ちょっと友達と喧嘩しちゃってね。ちょっと殴り合いになったけど、紫苑が仲裁してくれたんだ。ちゃんと仲直りしたから大丈夫だよ」
そう説明すると母さんはあからさまにホッとしたような顔を見せた。
多分、僕と紫苑が喧嘩をしたのかと思ったのだろう。
お義父さんはまだ帰っていないらしく姿はなかった。
「仲直りしたのなら良かったけど……。早く着替えていらっしゃい。紫苑も喧嘩を止めてくれてありがとう」
「いえ。僕がもうちょっと早く迎えに行っていれば、殴り合いになっていなかったかもしれません」
紫苑の声には悔しさが滲んでいる。
そんな紫苑に母さんはパタパタと手を振った。
「そんなの気にしなくていいわよ。喧嘩をする方が悪いんだから」
やれやれ、随分と辛辣な言葉だな。
僕はヒョイと肩を竦めると、着替えのために自室に向かった。




