第9話「キス締結条約」
ホームルームが終わっても、きいろと君野はしばらく3年生のベランダにいた。
きいろは君野の頭を掴むと、そのまま押さえつけるようにゆっくり撫でる。
君野は髪を梳くようなその手つきに、なんとも言えない表情を浮かべたままだった。
「きいろくんは僕を好きじゃないんでしょ……。これもイタズラの一つとしか思ってないんでしょ」
「俺がそんな暇に見えるか」
「困ってる顔が見たいだけでしょ」
「お前がいい」
「……思ってもないくせに」
嘘ばっかり。
こんなふうによく言い合いをしているのに、僕はまだ彼のことを何も知らない。
でも、どうしようもないほど天邪鬼な人だ。
その顔をしたら、次に何をされるのかくらい、もうわかっている。
胸の上へ手が添えられる。
次に、彼の鼻先が真っ赤になった耳をかすめた。
風なんて入ってこない。
見なくてもわかる。
――笑っている。
静かに顎を掴まれる。
逃げる間もなく、唇が重なった。
わかっていた……ことなのに。
空気が、一瞬止まる。
2人の間を優しい夏の風が通り抜け、ガラスの風鈴が涼やかに鳴った。
「いじわるだよ……」
「2番にしてるのは、お前だ」
「僕が?」
どう考えても主導権はきいろくんにある。
僕は振り回されているだけなのに。
「全部、俺のせいにしていい」
「俺のせいっていうか、きいろくんのせいだよ」
「そうだな」
きいろはそう言って、逃げられないよう頭を優しく撫で続けた。
ようやく解放された頃には、この教室のホームルームもとっくに終わっていた。
さっきの言葉を思い出すたび、唇に残る感触が心臓を速くする。
「……だめだよ」
泣きそうな声で小さくつぶやく。
冷たい廊下の空気が、熱を帯びた体を少しだけ冷ましてくれた。
「君野!」
教室へ戻ると、真っ先に気づいた堀田が駆け寄ってきた。
怒られる――。
反射的に肩をすくめた君野の頭へ、そっと穏やかな手が乗る。
「何された」
「なにも……」
堀田は君野の顔をじっと覗き込んだ。
「……したな。白黒と」
「……」
君野は一度だけ目を逸らし、小さく頷く。
「俺、気づいたんだ。お前がそうやって何も言えなくなってるの、俺のせいだって」
「そんなことないよ……」
「……呪いのキスの関係に甘んじてたのは俺だ」
「呪いのキスって何?」
「あ……」
そうか。消えてるのか。
堀田はすぐに表情を戻した。
「……なんでもない」
少し間を置いて、静かに口を開く。
「……もう、お前を縛らない」
「……ほんとに?」
「ああ。悪かった」
「ううん!……僕、ちょこっとだけど、堀田くんが少し怖かったから……」
その一言だけで十分だった。
堀田の目に、ようやく光が戻る。
「じゃあ、仲直りのキスしよう。僕は堀田くんの恋人だから」
君野が少し照れながら甘えてくる。
堀田はそっと抱き寄せ、離れてしまった距離を埋めるように唇を重ねた。
その次の日の出来事だった。
「おはよう、堀田くん」
「はあ!!?」
君野家の朝、堀田の間抜けな声が響く。
「……待てよ」
その瞬間、一つの可能性が頭をよぎった。
白黒が君野にキスした日に、俺もキスをすると――君野の記憶が維持されている?
「……なんだ、それ」
だが、白黒の記憶は君野の中から消えていない。
ということは――
「俺の記憶を保つには、白黒のキスが必要ってことか……?」
なんだよ、それ……!
なんで俺たちが恋人でいるために、あいつのキスを媒介にしなきゃいけないんだ……!!
堀田は隣を歩く君野を見つめた。
「どうしたの?」
「……いや」
壊すしかない。
あの白黒きいろの存在を、どうにかしなければ。
きっとこのままじゃ、俺はまた君野を無意識に泣かせてしまう。
堀田は胸を一度だけ強く叩いた。
その音に君野は驚き、目をぱちぱちと瞬かせる。
何度忘れられても、俺の愛は勝つ。
――たとえ、それがどれだけ無様でも。
そして朝、教室へ着くなり、堀田はある人物のもとへ向かった。
「白黒。俺について来い」
君野を教室に残し、そのまま声をかける。
二人が向かったのは、一階の階段裏。
使っていない机や掃除用具入れが並ぶ、人目につかない場所だった。
「なんだよ」
使われていない机に偉そうに腰掛けたきいろが、堀田へ冷たい視線を向ける。
「頼みたいことがある」
「あ?」
「……俺の前で、君野にキスしてくれ」
堀田は勢いよく頭を下げた。
「その……」
しまった。
呪いのキスをどう説明すればいい……!
「あの……つまりな!そういう趣味があるわけじゃないんだ!」
「そういう趣味にしか見えないが。俺にそれをするメリットはない」
「君野を幸せにしたいんだ!」
その一言で、ニヤついていたきいろの表情がすっと消えた。
「このまま苦しい思いをさせるくらいなら、俺はどんな目に遭ってもいい! お前にだって、こんな狂ったことを頼める!」
「ほお……いい覚悟だ」
きいろは口角を吊り上げる。
まるで獲物を見つけたマフィアのボスのような笑みだった。
「じゃあ俺が奪っても文句ないな」
「君野を幸せにするって前提だって言ってるだろ。お前の意見を聞いてるわけじゃない」
「ふん……呪いのキス、誰が考えたんだろうな」
「お前、知ってるのか!?」
「お前も俺の目の前で君野にキスしろ。それができるなら、使ってやる」
「……ああ」
もう、選んでいる余裕なんてなかった。
"俺の目の前で"――その条件に一瞬ためらう。
自分から頼んだことなのに、いざ突きつけられると覚悟が揺らぐ。
「今決めろ。いつだ?」
きいろの言葉に、堀田の喉仏がごくりと上下した。
……確証が必要だ。
だから、今日にでも試さなければならない。
「わかった……今日の放課後、君野にキスする」
拳を強く握り締める。
「だから、お前もキスしてくれ……明日の結果次第だ」
きいろは口元だけで笑った。
「いいだろう」
こうして二人は、それぞれの目的のために奇妙な約束を交わした。




