第10話「魔法のキス」
その日。
堀田と君野は窓際の席に並んで座り、持参した弁当を広げていた。
明るい日差しが差し込み、教室には昼休みらしい穏やかな賑わいが流れている。
「なあ、君野……」
堀田が箸を止めて口を開いた。
いつもの調子とは違う。どこか考え込んだような表情のまま、ウインナーを挟んだ箸が止まっている。
今朝、白黒きいろと交わしてしまった、とんでもない約束。
そのことを、君野へ打ち明けた。
「僕が今日、堀田くんの前できいろくんとキスするの?」
「……気にするな。スタンプだ」
「スタンプ?」
「朝、何も考えず靴下を履くだろ。それと同じだ。感情なんか生まれない」
「それってさ……」
ソーセージを飲み込んだ君野が、おずおずと口を開く。
「なんだ?」
「エヌティーアールっていうのかな」
「なんだそれ? エヌティーアール?」
「ね、寝取られ……」
「だあああああああああああああ!!!」
堀田は頭を抱え、そのまま教室中に響く声を上げた。
一斉に視線が集まる。
弁当を食べていた生徒たちが箸を止め、何事かとこちらを見つめていた。
「お前、そんな言葉どこで覚えたんだ!!?」
「なんか、動画でたまたま出てきて……」
「駄目だ駄目だ!! そんなの絶対……!!」
「ごめん! 本当に深い意味はなくて……ただ、たまたま紐づいただけだから」
「はああああっ……!」
スタンプだと言ったはずなのに。
君野は、白黒にキスされることを"寝取られ"だと思っている。
つまりそれって――
あいつを意識してるってことだよな!?
「っぐあああ!!」
堀田は顔を覆い、そのまま机へ額を押しつけた。
「ごめんね、堀田くん……。ほんとに、深い意味はなくて……」
「ああ……わかってる。わかってるさ……」
力なく答える。
結局、堀田の弁当はほとんど手つかずのまま風呂敷へ戻された。
君野も食べ切ることはできず、一番減ったのは、申し訳なさで何度も口に運んだペットボトルの水だった。
「聞いて、堀田くん」
「なんだ?」
「きいろくんは僕のこと、本気で好きじゃないと思う。たとえ僕が本気で好きになっても、それを叶えるつもりはない気がする……」
「なんでそう言える?」
「だって、『2番でいい』って言うし……ああやってイタズラしてくるのも、僕に復讐したいからなんじゃないかなって」
「復讐? なんのだ。映画の見すぎじゃないか?」
「……そうなのかな」
「……過去、何もないって言い切れるか?」
「事故に遭って、過去の記憶ないから……」
「……辿るなら、そこしかないよな」
あいつにも、理由があるのか。
君野の変質する呪いのキスには、まだ知らない秘密がある気がした。
束縛がなくなったことで、君野は一人で自由にトイレへ行き、そのまま教室へ戻ってきた。
「なんか、甘いの飲みたいな」
昼休みも残りわずか。
冷たいココアが飲みたくなり、一階の自販機へ向かう。
財布を取り出し、足取り軽く自販機コーナーへ向かった。
「あった!」
少し値段の高いこのココアは人気商品だ。
まだ売り切れていないことに、思わず目を輝かせる。
その時だった。
肩を掴まれ、動きを止められる。
「なあ、俺たちにも飲み物買ってくれよ」
「この自販機じゃなくて、向こうのがいいんだ。財布貸してくんね?」
絡んではいけないタイプの男子生徒二人が、馴れ馴れしく肩を組んできた。
腕まで押さえられ、逃げられない。
断ったら何をされるかわからない。
君野は唇を噛み、財布を渡そうとした、その瞬間――
「君野」
「うわっ!」
「何すんだよ!」
名前を呼ぶ声と同時に、二人の腕が強引に引き剥がされる。
勢いよく弾き飛ばされた二人は、そのまま床へ尻もちをついた。
目の前には、180センチを超えるマンバンヘアの男が立っていた。
「なんだよ、お前……」
「お、おい! 行こうぜ!」
二人はきいろの圧倒的な存在感に気圧され、尻尾を巻くように逃げていく。
「ありがとう、きいろくん……」
「全部俺のせいにしていいって言っただろ」
「え?」
「放課後、奪われるのを楽しむのも、お前の勝手だ」
「!!」
きいろは悪戯っぽく笑う。
その笑みに、君野の顔は一気に赤くなった。
「き、聞いてたの……?」
返事の代わりに、頭を少し乱暴にくしゃくしゃと撫でる。
満足したように、そのまま歩き去っていった。
君野は甘いココアを飲みながら廊下を歩く。
一口飲むたび、甘さが喉へ落ちていく。
「……さっきのきいろくん、かっこよかったな」
甘いココアを飲むほどに、彼の言葉も、温もりも、あの天邪鬼な性格も鮮明になっていく。
今でもこんなに振り回されているのに。
僕、これから先……持つのかな。
君野はストローを軽く噛んだ。
放課後、教室にはもう誰もいなかった。
窓際の席に残った君野は、机に手を置いたまま俯いている。
カーテンが風に揺れ、頬を撫でる空気はひんやりとしていた。
それなのに、胸の奥だけが熱い。
これから始まる"儀式"のような時間を、どう受け止めればいいのかわからなかった。
逃げ場なんて、どこにもない。
廊下から聞こえていた部活動へ向かう足音や笑い声も、少しずつ遠ざかっていく。
「君野」
びくり、と肩が跳ねた。
顔を上げると、黒板の前で話していたきいろと堀田が、こちらへ目を向けている。
その声だけで心臓が跳ねる。
恥ずかしい。
できることなら天井のネズミになって、そのまま体育館まで逃げてしまいたかった。
教卓には、きいろがだらしなく腰掛けている。
その横で、腕を組んだ堀田が立っていた。
鋭い目は君野ではなく、宙を睨みつけている。
「俺が後にする。先にしてくれ」
堀田はそう言って、二人に背を向けた。
「見なくていいのか? 俺たちのキス」
教卓の上から、きいろが面白そうに声をかける。
「お前が止めなきゃ止めるやついないんじゃないか?」
「うるせえ! いいから! 唇は一秒以内!」
振り返った堀田の目には、怒りとも焦りともつかない色が宿っていた。
迷いも、覚悟も、その瞳に全部混ざっている。
「部屋のスイッチを入れて電気がつくくらい、シンプルなやつにしてくれ!」
「俺は部屋の電気つけないんだ」
「知るか!」
「み、見るの?」
沈黙に耐えきれず、君野が震える声で口を挟む。
堀田は一度だけ目を閉じ、小さく息を吐いた。
それから君野を見て、覚悟を決める。
「……わかった。見る」
教室の空気が張り詰めた。
君野は喉を鳴らし、無意識に胸元を押さえる。
どうして自分は、こんなところにいるんだろう。
嫌だ。
帰りたい。
心は拒んでいるのに、体の奥だけが落ち着かない。
動けない。
きいろは教卓から降りると、無造作に君野の前へ立った。
顎をそっと掴まれる。
その瞬間、空気がひときわ冷たく感じた。
そして、ためらいもなく唇が重なる。
触れるだけ。
それだけで離れた。
――軽い。
あれ……。
思っていたより――
「!」
目が合う。
きいろはまた笑っていた。
君野の顔を舐めるように見つめると、そのまま何事もなかったように教室を後にした。
「けっ……なんだよ、あいつ」
堀田は小さく悪態をつき、大きく息を吐いた。
張り詰めていた肩の力が少しだけ抜ける。
教室には再び、いつもの二人だけの空気が戻っていた。
「……なあ、君野」
堀田が不器用に口を開く。
君野は目を伏せたまま、小さく頷いた。
「……よくやった」
「うん……ちょっと、恥ずかしかったけど」
君野がゆっくり顔を上げる。
夕日に照らされた瞳が、まっすぐ堀田を映した。
「……俺のは、本物だから」
堀田は少しだけ言葉を詰まらせる。
「ちゃんと……覚えててくれよ」
「……うん。わかってる」
その返事だけで十分だった。
堀田はそっと君野の頬へ手を添える。
少し震えるその手は、それでも温かい。
「じゃあ……いくぞ」
掠れた声とともに、二人の距離がゆっくり縮まる。
君野は目を閉じた。
堀田は彼を静かに引き寄せ、そのまま唇を重ねる。
重いキスだった。
さっきまで胸の奥で渦巻いていた嫉妬も、不安も、全部押し込めるように。
失いたくない。
忘れられたくない。
そんな想いが、その一瞬にすべて込められていた。
同じキスのはずなのに。
さっきとは、まるで違う。
胸の奥へ、ゆっくりと熱が落ちてくる。
温かい。
苦しくない。
この人のキスは、ちゃんと気持ちが伝わってくる。
君野はそっと目を開けた。
目の前には、どこか照れくさそうに笑う堀田がいた。
思わず、小さく笑みがこぼれる。
――同じキスなのに。
違う。




