第11話「オレンジジュース」
その日の放課後。
きいろは1人、美術室にいた。
他の美術部員たちが静かに絵を描く中、彼だけはいつものように一人で行動している。
部員たちも、その光景を気に留める様子はない。
きいろはキャンバス棚から、学校机ほどの大きさのキャンバスを一枚取り出した。
そこには、他の作品とは一線を画す絵があった。
荘厳な天使を描いた油絵。
だが、その絵は黒く煤けたような色に覆われ、その黒が天使を下から飲み込もうとしていた。
そして何より異様なのは、天使の両目だった。
まるでくり抜かれたように下地のキャンバスがむき出しになり、そこだけが未完成のまま残されている。
きいろは床へしゃがみ込み、その絵をじっと見つめた。
「……」
そっと表面を指でなぞる。
何年も前の作品のはずなのに、指先は今も真っ黒に汚れた。
――落ちない。
まるで執念だけが、この絵に残っているようだった。
「その絵、そんなに大事なんですか?」
か細い少女の声に、きいろは振り返る。
そこには、おとなしそうな眼鏡の少女が立っていた。
風に揺れる柔らかな朱色の髪は肩まで伸び、控えめな雰囲気をまとっている。
きいろは一度だけ彼女へ視線を向けると、すぐに絵へ戻した。
「ああ」
短く、それだけ答える。
「誰が描いたんですか?」
少女が少し身を乗り出して覗き込む。
その距離に、きいろはわずかに眉を寄せた。
「時任さん!」
美術部長らしき真面目そうな女子生徒が彼女を呼ぶ。
「あっ、はい!」
時任は慌てて返事をすると、自分の席へ戻っていった。
再び静寂が戻る。
きいろはゆっくりとキャンバスを棚へ戻した。
ほんの一瞬だけ、未完成の"目"へ視線を止める。
――まだ、終わっていない。
真っ黒に染まった指先を見つめながら、きいろは静かに美術室を後にした。
不思議なキスの3角関係が生まれてから、5日が過ぎた。
堀田は電車の中で深く息を吐く。
君野の記憶は、白黒のキスによって維持されていた。
だが、白黒が君野へキスをしても、白黒自身が忘れられることはない。
つまり、君野はまだ俺を好きでいてくれている。
それだけが、今の救いだった。
「おっ」
突然、体が右へ大きく傾く。
乗っていた電車が急停止したのだ。
――その頃。
「堀田くん、もう間に合わないかな……」
君野は学校の最寄り駅にいた。
堀田から「電車が止まったから先に学校へ行っていてほしい」と連絡を受けたのだ。
それでも、もう少し待てば降りてくるかもしれない。
「もう七時になっちゃう……」
駅前のベンチへ腰掛け、リュックを抱き寄せながら目を閉じる。
――カチ、カチ、カチ……
すぐ近くで、無機質な音が時を刻むように響いた。
「ん?」
君野が顔を上げる。
視線の先には、駅前広場の中央に建つからくり時計。
長針と短針は、ちょうど朝7時を指していた。
「あれ? この時間は鳴らないよね……」
その瞬間だった。
時計の扉が、ゆっくりと開き始める。
奥から古びた音楽が流れ出し、羽の生えた妖精たちがぎこちなく動き始めた。
カラン、カラン――
小さな鐘の音が、静かな駅前へ響き渡る。
「すごい……」
君野は思わず息を呑んだ。
駅の人たちがどうしているのかも気にならない。
目の前で広がるメルヘンな世界に、ただ見入ってしまう。
今、この景色を見ているのは――僕だけ。
そんな錯覚さえ覚えた。
――本当に、そう思ってしまった。
「おはよう!」
15分後。
駅から出てきた堀田が、君野の肩を軽く叩く。
「あっ、おはよう! ねえ、このからくり時計、さっき鳴ってたんだけど、今日って何か記念日かな?」
「いや、記念日でも朝七時には鳴らないだろ。俺、中学の頃からこの駅使ってるけど、朝に動いたのなんて一度も見たことないぞ」
「でも……ちゃんと動いたんだよ。音もして、妖精たちも出てきたんだ」
君野は不思議そうに首を傾げる。
すると堀田が自然に肩へ腕を回し、そのまま二人は学校へ向かって歩き出した。




