第8話「意図せぬ束縛」
次の日。
朝、堀田は迎えに行った君野の様子がおかしいことに気づいた。
玄関先で、不思議そうな顔をしてこちらを見ている。
「……あの、どちら様でしょうか」
まるで家を間違えた人を見るような、警戒の眼差し。
昨日のキスが原因か?…でも……
堀田は混乱する頭を落ち着かせるために目を瞑り、一度息を止め、ゆっくりと吐き出した。
「……怖がらせて悪い、君野。俺はお前のそばにいる人間だ」
最初から恋人とは言わない。余計怖がらせてしまう。
慎重に距離を縮める。
それが、いつものやり方だった。
「俺が怖いか?」
「ううん……同じ学校の人だから……」
君野は眉を下げたまま答えた。
長年この付き合いをしていて、こんな事初めてだった。
俺がキスをしても、君野の記憶が消えずに次の日を迎えたこと。
あの日、何が違った?
……思い当たることは1つしかない。
君野はその日、白黒きいろにキスされていたのかもしれない。
――まさか。
あいつのキスが、俺のキスを打ち消したのか?
「堀田くん、おはよう!いってらっしゃーい!」
君野の母親が笑顔で送り出す。母親が顔見知りと知るやいなや、君野はすぐに安心したように表情を和らげた。
それを見た堀田は、早口で答えた。
「実はさ、俺たち、友達じゃない。本当は恋人同士なんだ」
「あ、そうなの?僕、恋人いたの知らなかった」
「……俺でいいよな?」
「うん!いてくれてよかった」
その言葉に救われる。
なのに頭の片隅では、俺の存在がなかった今朝の数時間、あいつのことを考えていたんじゃないかという不安が離れない。
……落ち着け。
そう言い聞かせても、口から出たのは焦りだけだった。
「俺以外に好きな人、いないよな」
「うん。いないよ。今、学校のこと思い出したけど、友達もいなかったし」
「……だ、だよな」
何を安心してるんだ、俺は。
堀田は自分の頬を軽く叩いた。
それでも、聞かずにはいられなかった。
「白黒きいろとは、どんな関係なんだ?」
「きいろくん?なんか、不思議な人なんだ」
「好き、とかじゃないよな?」
「うん。そういうんじゃないよ。でも、僕にイタズラしてくるというか……いきなりキスしてくるんだよね」
くそっ……!
「……っ」
好きじゃない。
それだけで十分だった。
すると、君野が首を傾げた。
「『2番でいい』って、どういう意味だと思う?」
「は?あいつ、そんなこと言ったのか?」
「うん……。やっぱり、ふざけてるのかなって」
「……」
2番でいい。
あいつは、呪いのキスを知っているのか……?
「今日、一歩も俺から離れるな」
「僕、堀田くんの恋人だもんね」
君野は、どこか嬉しそうに微笑んだ。
俺だけ忘れられていく。
本当なら、その首に名前でも刻んでしまいたいくらいだ。
二度と、俺を忘れないように。
駅へ向かう道中、堀田は一気にまくし立てた。
「トイレも俺がついていく。個室に入ったら、俺が開けるまで出るな。俺は入口にいる」
「う、うん……」
「白黒に話しかけられても全部切れ。何かあったら全部俺に言え」
「……うん」
「お前は俺を好きだって言ってくれただろ。分かってくれるよな?」
近くの公園では、セミがけたたましく鳴いている。
君野が返事をしたかどうか、もう耳に入っていなかった。
「君野!そこ違う!」
「あっ……ごめん」
学校へ着き、下駄箱を開けようとした君野は、一つ下にある白黒きいろの下駄箱へ手を伸ばしていた。
「……悪い。大声出して」
「ううん……大丈夫」
君野は小さく一歩下がり、そのまま俯いた。
その姿を見て、胸の奥が痛んだ。
守りたいだけなのに。
どうして、俺のそばでそんな顔をするんだ。
気まずい空気のまま、ホームルームが終わった。
君野は後ろのロッカーへ参考書を取りに向かう。
真ん中の段のロッカーの前でしゃがむと、すぐ隣で白黒きいろも同じようにしゃがんでいた。
「あ……」
一瞬だけ、目が合う。
君野はすぐに視線を落とした。
――3時間目。
僕はトイレへ向かおうとしたが、堀田くんの姿が見当たらなかった。
「藤井くん、堀田くんは?」
前の席の藤井が振り返る。
「ああ、さっき先生に呼ばれてたな」
「まだかかりそうかな……」
「どうだろうな。何かあった?」
「……ううん」
さすがに、「トイレについて来てほしい」とは言えない。
「……仕方ないもん」
1人でトイレを済ませ、急いで教室へ戻る。
まだ堀田は戻ってきていなかった。
ほっと胸をなで下ろし、自分の席へ座る。
怒られずに済んだ。
そう思ってから、胸の奥が少しだけ苦しくなった。
どうして僕は、恋人に怒られないことに安心してるんだろう。
僕はため息をついた。
しばらくして堀田が戻り、隣の席へ腰を下ろした。
「堀田くん、用事はなんだったの?」
「ああ、テキトーに書いた時事の俳句が良かったから、コンテストに出したいって。それだけ」
「え!すごいね!」
「別に嬉しくない。なんか、こういうところで変な能力発揮することあるよな」
「あるある!僕、ビンゴ大会で最後まで残ったことある!」
「それ、能力なのか?」
「でも、堀田くんにはきっと、すごい潜在能力があるんだよ!」
堀田くんが笑った。
それだけで、また少しほっとした。
――僕、ずっと堀田くんの機嫌をうかがってる。
そう気づいた途端、さっきより胸が苦しくなった。
――放課後。
君野は担当の掃除場所である、2階へ続く階段へ向かい、掃除用具入れに手をかけた。
「君野!どういうことだ?」
突然名前を呼ばれ、肩がびくりと跳ねた。
振り返ると、顔をしかめた堀田が一直線に歩いてくる。
「3時間目、1人でトイレに行ったんだってな」
「え?あ……いや、あれはだって……堀田くんがいなかったから……」
「行くのはいい。なんで俺に報告しなかった?」
「……ごめん」
「ごめんじゃない!俺、ちゃんと言ったよな?報告してくれって!」
「何もなかったよ……」
「それ、言い切れるのか!」
「ほ、本当だよ……」
「……何かあったから言えないんじゃないのか」
「ごめん……」
「謝るんじゃなくて、俺に分かるように説明しろよ……!」
もう、これ以上そんな怖い顔を見たくない。
君野の目に涙が浮かんだ。
それを見た堀田は、はっと表情を変えた。
「……悪い。泣かせるつもりじゃなかった」
「ううん……僕が悪いから」
「ッ……!」
堀田は床を思い切り蹴り飛ばした。
その音に、君野の肩がまた跳ねる。
「……悪い」
堀田は顔を伏せたまま、それ以上何も言わなかった。
「……」
彼は僕を守ろうとしてくれている。
それは分かっている。
なのに、どうしてこんなに苦しいんだろう。
2人は重たい空気のまま、ほうきを手に階段の掃き掃除を始めた。
堀田は下から。
君野は上から。
それぞれ掃き進め、君野が3階へたどり着いた、その時だった。
「!?」
突然、後ろから腕が回り、口を塞がれる。
手から離れたほうきだけが、カタン、カタンと音を立てて2階まで転がり落ちていった。
「君野!?」
階下から堀田の声が響く。
声を出そうとしても、口を塞がれていて何も言えない。
そのまま体を引かれ、廊下の奥へ連れていかれる。
連れて来られたのは、堀田とは反対方向にある見知らぬ教室だった。
3年生の教室らしい。
白黒きいろは何事もなかったように中へ入り、外へ出られないよう扉を閉める。
そのまま君野を床へ座らせ、自分もあぐらをかくと、後ろから腕を回した。
シートベルトのように、体を包み込まれる。
「どうしてこんなことするの?」
君野は不安になり、身をよじって抜け出そうとした。
耳元で、きいろが静かに言う。
「今はここにいろ」
「そんなこと言ってる場合じゃない……戻らないと……!」
「外で何が鳴いてる」
「……セミ」
「それでいい」
「でも――」
「黙ってろ」
短く言い切られた。
君野は抵抗をやめた。
どうせ、逃げられない。
肩から力が抜け、体が自然ときいろへもたれかかる。
前髪を揺らす風。
忙しなく鳴くセミ。
どこかの家から聞こえる風鈴。
遠くで流れるピアノの音。
――あれ。
こんなに、いろんな音があったんだ。
すると、腰に回された腕が少しだけ緩んだ。
「蚊を潰すまでと同じだ」
「それって、どういう意味?」
「今だけだ。潰したら終わる」
「……」
ぽたり、と涙が一粒こぼれ落ちた。
どうして泣いたのか、自分でも分からなかった。
ただ、背中から伝わる温もりに触れていると、朝からずっと張り詰めていたものが、少しずつほどけていく。
すぐ後ろの3年生の教室では、帰りの会が始まっていた。
しばらくは、ここから出られそうにない。
それなのに。
君野はもう抵抗することなく、そのままきいろへ身を預けた。
――もう、このまま離れたくなかった。




