第6話「美術館へ行こう!」
その日の2時間目は美術の授業だった。
電車を2駅行った先に、大きなガラス張りのおしゃれな美術館が最近完成した。
その記念もあって、文化の発展のため地元の学生を見学に招いているという。
君野たちも美術館へと遠征していた。
堀田も君野と同じく、絵の具を持って悩ましい時間を過ごすくらいなら、絵を見ながら歩いたほうがマシ……。
そう、気を楽にできる……ハズだった。
「君野、今日絶対俺から離れるなよ」
「トイレも?」
「トイレもだ」
その鋭い目は、偉い人を警護するプロそのものだった。
君野は小さく頷く。
「うわあ~……すごいガラス……」
君野は美術館の建物を見上げ、感嘆の声を漏らした。
完全に、「都会」という施設だ。
ガラス張りのファサードは昼間の光を反射し、周囲のビル群や街並みを映し込んでいる。
広いガラスドアがゆっくりと開くと、空間に漂う静けさが街の騒音を遮るように感じられた。
「すげえなあ……」
堀田はぽつりと呟く。
「ここを雑巾で床拭きしたら、つるーんってどこまでも滑っちゃいそうだね」
君野の一言に、堀田は吹き出した。
価値観が一緒なことは、大事なことだ。
先生は生徒たちに、12時にエントランスの隅へ集合するよう呼びかけた。
その後はぞろぞろと館内へ入り、それぞれ思うままに絵を堪能することになった。
堀田は君野の左手をがっちりと恋人つなぎし、絶対に離さないと言わんばかりに連れ回す。
「すごいな、額縁が」
絵は、わからん。
教科書で見たものと現物を見比べても、心が躍ることはない。
それが、選ばれた人間ではない気がして、少し悔しかった。
すると君野は、絵を見上げてこう言った。
「……なんだっけこれ……僕、この絵買った」
「は!? どこで?」
「ゲームで! でもまさか、本当にあの絵が現実にもあるとは思わなかった!」
「おいおい」
なんでゲームが発祥だと思うのか。
だめだ。愛おしすぎてたまらない。
堀田はそのユニークな答えに、座布団一枚と言わんばかりに君野の髪をくしゃくしゃと撫でた。
その時、視界の端にあの男が入った。
堀田は周囲を何度も見回しながら、君野の手を強く引き、歩幅を早めて奥へ進んだ。
「……トイレに行きたくなってきた」
一通り見終え、誰もが知っている有名な絵画をざっと見て回ると、堀田がぽつりと呟いた。
「すごい人の数だったもんね……僕も疲れちゃった」
「一緒に中まで入ってきてくれ」
「え? トイレの中まで?」
君野は不思議そうな顔をしている。
やりすぎだ。
……だが、電車の中で君野が口にした言葉が、堀田の暴走を加速させる。
堀田は君野の手首を強く引いた。
個室へ向かおうとしたが、トイレの前で足が止まる。
「混んでるな……」
個室も小便器も全部埋まっていた。
堀田は仕方なく、君野に「動くな」と言い残し、入口付近に立たせる。
しかし、トイレを済ませて数分後。
「君野? ……あれ?」
いるはずの場所に、君野の姿はなかった。
「は!? 嘘だろ!」
男子トイレには、今もバスの団体で流れてきた人々が列を作り、その姿はもうどこにもない。
堀田は再び頭を抱え、地団駄を踏んだ。
「くそっ! こんな事なら、やっぱり個室に一緒に入るべきだった……!」
行く当てもなく、残り時間いっぱい君野を探す羽目になった。
一方――
「んんぅ!」
君野は、堀田が出て行ったトイレの個室の中で抵抗していた。
きいろに片手で口を塞がれたまま、どれくらい経ったのかわからない。
彼は先ほどのバスの集団に紛れ、君野の手を引いて何食わぬ顔で個室へ入り込んでいた。
「……行ったな」
きいろはそう言うと、ようやく君野の口から手を離した。
「きいろくん……なんでこんな事するの?」
「アイツとは十分回ったはずだ」
「でも、堀田くん、今頃僕を探してるよ……」
「……」
きいろは、不服そうに君野の頬を手のひらで撫でる。
しかし君野も負けじと首を横に振った。
「……駄目なものは駄目なんだよ……」
「なら、出さない」
きいろはドアに手をつき、逃げ道を塞いだ。
「そんなに僕と絵が観たいの?」
君野の言葉に、彼は一度だけ頷く。
「わかった。じゃあ……一緒に絵を観に行こう」
どうしてだろう。
……でも、嫌じゃない。
君野が観念したように微笑むと、きいろはその手を引いた。
個室から男2人が出てきたことに周囲はぎょっとしたが、きいろは気に留めることなく館内へ戻っていく。
「お前は、この絵に何を感じる?」
1枚の絵の前で、きいろはそう尋ねた。
「なにって……」
「うーん……なんだろう。日向ぼっこ?」
「お前には、そんな明るく見えるんだな」
「違うの? タイトルも『日向の男女』だよ」
「これはな、眠り病にかかった妹と、その兄を描いた絵だ。当時は色を作るだけでも命がけだった。だから、この青は特別なんだ」
「へえー! 一つ知るだけでも見方が変わるかも! 今だと簡単に何でも手に入るもんね……」
「それに、この絵はまだ抽象画が流行る前、写実的に描くことが良いとされていた時代のもので――」
その後も、看板には書かれていない話をすらすらと語る。
君野はその博識ぶりを、音声ガイドを聞くように聞き入っていた。
きいろくん、楽しそう。
その横顔を見ているだけで、それがちゃんと伝わってきた。
「きいろくんって、絵が好きなんだっけ」
「俺の爺さんが絵描きだからな」
「お爺さん?」
「……正確には父親だ」
「へえ! そうなの? それ、今まで教えてくれなかったよね」
「ああ。だいぶ前に自ら死んだ」
「……そ、そうなんだ。ごめん……。でもすごいね。絵を描くなんて」
「すごくない。キャンバスに線の連続を描くだけだ」
「そんなことないよ。すごく素敵だと思う……」
きいろは視線を動かし、遠くを見る。
「……素敵か」
「おい!!!!」
館内を回っていると、堀田の怒号が静かな館内に響いた。
その場にいた全員が、怒りを滲ませた堀田、そして立ち止まった君野ときいろへ視線を向ける。
「君野を返せ!!」
しかし、きいろは握った手を離そうとしなかった。
「三人で、絵を観ない?」
君野はきいろの手を握ったまま、堀田を見る。
だが、その声は届かない。
二人は今にも胸ぐらをつかみ合いそうな勢いで睨み合った。
「お前に絵が分かるのかよ!」
「堀田くん! きいろくん、すごく詳しいんだよ!」
「なに!?」
堀田はその言葉に引け目を感じた。
こんな頭の悪そうなアウトローが、絵に詳しいだと!?
なんだよ、そのギャップ……。
「堀田くんも一緒に聞こうよ! ねえ、きいろくん、もっと絵について教えて!」
「ああ。どの絵がいい」
「あれ!」
君野は中央の大きな絵を指差した。
誰もが見たことのある、有名な絵画だ。
どうせ看板を横目で見て知ったかをしているのだろうと高をくくったが、人だかりで看板はまったく見えない。
それでもきいろは、再びすらすらと絵の知識を語り始めた。
そんな……
2対1。
俺は今、無理に手を繋いでいる。
なのに、君野はもう、あいつの話を聞くために笑っている。
そこに、入る隙はなかった。
7月16日
※きいろが爺さんと呼ぶところを補強しました。
「きいろくんって、絵が好きなんだっけ」
「俺の爺さんが絵描きだからな」
「お爺さん?」
「……正確には父親だ」
ここの部分です




