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第5話「煩悩破壊天使」

 その日の帰り道。堀田(ほった)は複雑な気持ちで君野と一緒に帰宅していた。


 明日、君野(きみの)が俺を忘れていたら、その隙に白黒(しろくろ)きいろに奪われてしまうんじゃ……。


 あいつ、背も高いし、顔もいい……。

 女子人気もそこそこあるし……!


「くう……!!」


 とにかく歯ぎしりが止まらない。


「くん……堀田くん……」


「あ、なんだ?」


「僕の家、過ぎてるよ」


「ああ! 悪かった!」


 堀田は、いつの間にか君野と5メートルほど離れて歩いていたことに気づき、慌てて引き返した。


「もう、そそっかしいね」


 君野がくすくすと笑う。


 コイツにそそっかしいなんて言われるなんて、俺、だいぶ混乱しすぎだ。


「ああ、じゃあな……」


「あのね……堀田くん……」


「!」


 嫌な予感と、期待が同時に走った。


 足の付け根で揃えた両手に、ぐっと力が入る。


 君野はそんな堀田の袖をきゅっと掴み、その瞳を覗き込んだ。


「あのね、これからはこうやって、沢山チューしたい……。ちゃんと覚えていられるうちに……だめ?」


「ハッッ……」


 呪いのキスがなければ、俺たちは理想の未来に辿り着けるんだ。


 ……違う。お前を否定したいわけじゃない。


「またねってキスしたい……」


 こっちの気も知らないで、君野は次の矢をと言わんばかりに甘えてくる。


 たまらねえ……!!


 奥歯が、きしんだ。


「……分かった。またな」


「うん。またね」


 どうせ……


 そう思いながらも、


 堀田はこの一度に、全部を押し込んだ。


 次の日の早朝6時前……


 夜通し降り続いた雨は、ようやく止んでいた。


 堀田は、いても立ってもいられず、君野家の玄関前で待ちぼうけをしていた。


 すると、彼の家の窓のカーテンが揺れた。


 彼の母親だ。

 こちらに気づくと、レバー式の窓を開けてくれた。


「あら、堀田くん。おはよう! 早いわね。家でコーヒーでも飲んで待ってて! 吉郎、まだ寝てるの」


「お言葉に甘えて。お邪魔します」


 わざわざ始発で来たのは無論、君野に恋人と認知してもらうため。


 母親と一緒にいれば、その話は早く進むものだ。


 リビングで温かいコーヒーをもらっていると、彼の母親はエプロンをつけて、息子のご飯の用意をしていた。


「ねえ聞いて! あの子ったら洗濯機の音が波の音に聞こえたみたいで! その場で寝たまま平泳ぎしてたのよ! うふふ!」


「はは! アイツらしいですね」


 そう答えた時だった。


「お母さん! どうしてそんなこと言うの!?」


 トイレに起きて来た君野が、パジャマ姿で顔をプクッとさせて怒っている。


 頭上の髪の毛には、たくさんの稲妻が落ちていた。


「おいおい、そんな怒んなくてもいいだろ?」


 すると、君野は堀田を見るなり、恥ずかしそうに目を伏せた。


「あ……堀田くん……おはよ……」


「は!?」


 なんだと……!!?


 思わず立ち上がった堀田に、君野親子は不思議そうな顔でこちらを見つめている。


「……恥ずかしい……顔、洗ってくる……」


 その反応は、俺が体験したことのない、次の未来の反応だった。


 待て……待て待て待て!!


 一気に青ざめた。


 呪いのキスが効いていれば、君野は俺を今日忘れているハズ。


 一番好きな人しか忘れないハズだ……!


 思わず口が先に動いた。


「白黒きいろは覚えてるか!?」


「あ、きいろくんね。不思議な人だよね……」


「そいつは、覚えてるのか!?」


「え? う、うん……」


「俺のこと、一番に好きなんだよな!?」


「好きだよ。昨日のキス、嬉しかったし……」


 よかった……。


「そう、だよな……」


 堀田は自分に言い聞かせるように、何度もその言葉に頷き、深く飲み込んだ。



「いってらっしゃい!」


 君野の母親に見送られ、2人は通学路を歩く。


 そういやこの君野は、俺とキスした記憶、残ってるんだよな……


「なに?」


「いや……」


 昨日、俺が必死すぎて、あまりに大胆な行動をしていたのを思い出した。


「うわあ……」


 恥ずかしい。みんなのいる廊下で、めっちゃキスしてた……!!!


「堀田くん……できなかったね」


「ん? なにが?」


「さっき、お母さんがいたから……行ってきますって」


「行ってきます?」


「……チューだってば」


 その上目遣いが、堀田の心を撃ち抜いた。


 あ、これ死ぬかもしれない。


「あ、あとでな……今、人がいっぱいいるし……」


 堀田の汗は、学校が近づくたびに手のひらにまで広がっていった。


 電車に乗ると、いつもの人の雪崩に襲われ、堀田は君野をドア横の隙間に入れて守った。


 すると君野は、堀田の瞳をガラスのような目で見つめた。


「堀田くんは、僕のどこが好きなの? ずっと知りたかったんだ。あとね、僕たちってどうやって知り合ったのかなって……」


「そのことまで忘れちまったのか?」


「ごめんね。大切な思い出だったら……。でも、僕も覚えておきたいなって思ったんだ」


「覚えてないのか……」


「うん」


「じゃあ最初から話す」


「……ちょうどその時も六月だった。俺達は中学の同級生で、一人ぼっちになっていたお前を、いじめから助けたのが始まりだ」


「え! そうなの? どうしてそんな大事なこと、忘れちゃったんだろ……」


「ほら……お前、中学の時、事故で頭を打って、過去の記憶ないだろ。それで曖昧なんだよ」


「ああ、そっか……。後遺症なのかな……」


 君野はそう言うと、その大きな目を逃げられない堀田に向け続ける。


「あまり見るなよ……」


「ふふ。僕って、本当に幸せものだね。今もこうやって守ってもらえて。だから、今のこの瞬間を、ちゃんと覚えときたいなって思ったんだ」


 電車のアナウンスが、「この先、揺れにご注意ください」と告げる。


 人の波が右に揺れる。


 君野はその揺れに身を任せて、堀田の唇に口づけをした。


 そのたった一瞬で、堀田の手すりを持つ手が汗ですべりかけ、思わず後ろの人に体重をかけてしまった。


「すいません……!」


 気を取られている間に、胸の中へ君野が飛び込んできた。


「あ、おい……!」


 なんだ、このあざとさ……!


 俺……これ、戻れるのか?


 それとも、もう戻らなくていいのか?


「だったら……俺だって」


 堀田は、ごくりと唾を飲み込んだ。


「ねえ……堀田くん……」


「な、なんだ?」


「僕……言わなきゃいけないことがあるの……。ずっと言えなかったけど……」


 君野はそう言って、堀田の体に強く抱きつく。


 その胸元に口をつけ、目だけを向けた。


 その大きな目に涙の膜が張って潤む。


 それに夢中な堀田に、君野は眉をひそめて答えた。


「きいろくんにね、ずっとキスされてた……」


「は?」


 ――もう、遅かった。



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