第4話「さよなら未来」
音楽室には、リコーダーの音だけが響いていた。
先生がリコーダーのテストを行い、生徒たちは一人ずつ黒板の前で演奏していく。
すでに演奏を終えた堀田は、目の前に立つ君野の肩へそっと手を置いた。
「君野、もうすぐだな」
「うん……緊張してきた……」
楽譜なしでの暗譜演奏。
君野の唇が小さく震える。
「君野、おまじないしようぜ」
「うん」
今朝と同じ、牡羊座のおまじないが始まる。
君野はさっきから、不思議な気持ちに包まれていた。
手のひらへ唇が触れるたび、さっきの感触がよみがえる。
背中が、ざわつく。
――さっき、きいろくんとキスしたんだ。
「ほら、お前も」
何も気づかないまま、堀田はいつものように笑った。
君野は小さく息をのみ、そっと堀田の手のひらへ口づける。
「よし! 行け!」
いつもの儀式を終えると、堀田は満足そうに笑い、君野の背中を軽く押した。
「よかったじゃないか。ちゃんと音も出てたし」
発表を終えると、堀田が明るく声をかける。
「ごめんね。音符に音階まで振ってくれたのに……」
「いや、ちゃんと届いてた。おまじないのおかげだな!」
「そうだね……」
……おまじないなのか。
キスなのか。
君野は、自分の演奏を見守っていた堀田の優しい視線を思い返す。
その奥に重なるように、きいろの視線が浮かんだ。
――放課後。
堀田は1年の廊下で、他クラスの友人に呼び止められて楽しそうに話していた。
君野は少し離れた場所で、その様子を眺めている。
「……」
僕には、堀田くんしかいない。
友達も、恋人も。
でも堀田くんは違う。
明るくて面倒見もよく、男女問わず人気者だ。
少し寂しい。
でも、それ以上に誇らしかった。
「どうやって僕たち、こんな関係になったんだろう……」
気づけば隣にいて、気づけば恋人になっていた。
でも今は、それだけ。
好きなのに、分からない。
君野はリュックのショルダーベルトをぎゅっと握り締めた。
「あ、そうだ」
話はまだ続きそうだ。
飲み物でも買ってこよう。
堀田の好きな飲み物がある自販機は、少し離れた向かいの校舎にある。
手渡せば、きっと喜んでくれる。
そう思うと、少しだけ気持ちが軽くなった。
君野は足早に中庭の自販機へ向かう。
「あ、あった。これこれ」
この自販機にしか売っていないエナジードリンク。
君野は二本買い、満足そうに笑った。
「よし!」
堀田くん、喜んでくれるかな。
缶を大事そうに抱え、来た道を引き返そうとした、その時だった――。
「うわあっ!」
振り返ると、きいろがすぐ後ろに立っていた。
悪童のような笑みを浮かべている。
君野は反射的に駆け出した。
「ひっ!?」
後ろから足音が追ってくる。
唇に残る、あの感触がよぎる。
君野は必死に人混みをかき分けながら走った。
――そうだ!
堀田くん。
元いた廊下へ飛び込むと、友人と別れたばかりの堀田が、こちらを探すように辺りを見回していた。
「堀田くん!!!」
「あ、おい! どこにいたんだ……」
堀田が片手を上げて笑う。
あと少し――
今なら。
今なら、本当にキスしてくれるかもしれない。
君野は缶を握りしめたまま、一気に駆け出した。
しかし――
「わっ!?」
次の瞬間、君野は後ろへ倒れていた。
リュックのチャックが開いていたのか、中身が廊下へ散らばる。
手から離れたエナジードリンクが、カラン、と音を立てて転がった。
追いついてきたきいろが、その横へしゃがみ込む。
「……チャックが開いてるって言いたかったんだ」
静かにそう言うと、散らばった荷物を拾い、開いたチャックを閉める。
「き、君野……ち、違うんだ……」
堀田は消え入りそうな声を漏らした。
二人はその場で固まったまま動けない。
きいろは何事もなかったようにエナジードリンクを君野へ渡し、くしゃりと髪を撫でる。
そしてポケットへ手を突っ込んだまま、静かに廊下の向こうへ歩き去っていった。
廊下には、君野と堀田だけが残された。
「……いいんだ」
君野の唇が、小さく動いた。
「え?」
「いいんだよ……僕にまで優しくしなくても……もう、一人で大丈夫だから……」
「違うんだ……!! そういうわけじゃない!」
堀田は慌てて首を振る。
「わざわざ俺の好きなもの、買ってきてくれたんだろ? 俺に喜んでほしくて……」
「でも、もう飲めないよ……だから、もういいよ……」
君野がそう言うと、堀田はそっとその手から缶を受け取った。
「ありがとう。すごく嬉しい。だから、ごめんな。本当に……!」
堀田は一歩近づき、君野の両手を取ろうとする。
しかし、君野はその手を振り払い、何度も首を横に振った。
「もう、おまじないなんてしたくない……!!」
「君野……」
「もう意味ないよ……」
「ごめん……お前の気持ち、蔑ろにしてた」
君野の目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
堀田はそっと頬に触れ、親指で何度も涙を拭った。
「忘れられてもいい」
堀田は静かに言った。
「離れるな。だから――キスしよう」
「え……? でも、できないんじゃないの?」
「できなくても、する」
「堀田くん……」
廊下の真ん中で、堀田は君野を引き寄せ、そっと唇を重ねた。
「好きだ。俺には、お前だけでいい」
もう一度優しく髪を撫でると、そのまま強く抱きしめる。
……嬉しい。
だから、消えると思っていた。
――なのに。
あの感覚は、消えなかった。




