第53話「淋しい吸血鬼」
君野がキャンバスに包丁を突き立て、何度も天使を刺している姿を見ていたのは、白黒や俺たちだけではなかった。
たまたま美術室前の廊下を歩いていた、君野と顔なじみの保健室の先生が、部屋の中を覗いていたのだ。
人の気配に、君野の力が抜ける。
錯乱した様子を先生に見られてしまったため、傷の手当てだけでなく、保健室で心を落ち着かせることになった。
「いいんです。僕が自主的にしたことなので……」
彼はそう言って俯き、簡単なメンタルチェックにも何度も首を横に振った。
「……はあ」
堀田は保健室を出ると、一つため息をつく。
そこには、先に帰ったと思っていたきいろが、ズボンのポケットに手を突っ込み、壁にもたれて待っていた。
「君野は?」
「1時間寝るってさ。親と連絡がついたら、そのまま帰されるだろうな」
「そうか」
魂の抜けたきいろに、もう怒りさえ湧かなかった。
これで、本当に終わったのか。
爺さんは、自分の作った脚本に満足できたのか。
目を描けば、すべて丸く収まる――そう思っていた。
あの時、止めてよかったのか。
「……」
堀田は何も言えないまま、静かに去っていくきいろの背中を見送った。
1時間後。
保健室のベッドで眠っていた君野は、教室へ戻ると荷物をまとめていた。
「夜はちゃんと布団かけて寝るんだぞ。何かあったらワンギリでも何でもいい。すぐにお前の声を聞く」
「うん。ありがとう。またね」
堀田は青いリュックを背負った君野を、下駄箱まで見送った。
3時間目。
先生が出席を取っていると、きいろの名前だけ呼ばれても返事がない。
「あれ?白黒くんは?」
白衣姿の理科教師が首を傾げる。
「まさか……!」
また命を投げ出そうとしていないか。
堀田の胸がざわつく。
「さっき、カバン持って教室出ていきました~」
「確か、君野くんと校舎を出ていったような……」
生徒たちの目撃情報が次々と飛ぶ。
「なに!?」
堀田は思わず立ち上がる。
あいつ……もう動けるのか。
クラスから茶化す声が聞こえたが、そんなものは耳に入らない。
俺だけ外された気がした。
胸の奥が重く沈む。
だが――アイツの命を救えるのは、君野しかいない。
「くっ……」
堀田は静かに席へ座った。
その頃。
母親の送迎の車にちゃっかり乗ってきたきいろを、君野は何度も横目で見ていた。
腕を組んで窓の外を眺める姿は、車内に流れるJ-POPとひどくミスマッチだった。
運転席の母親と話しながら、君野は会話の切れ目に、小さく切り出す。
「……家、来ない?」
その直後、きいろが静かに口を開いた。
「体調、もういいのか」
「うん……。きいろくんは?」
「なんともない」
「そっか。よかった」
それ以上、会話は続かなかった。
車は静かなまま、君野の家へ向かう。
家に着くと、母はパートの続きをすると言って、そのまま車で仕事へ向かってしまった。
2人は君野の部屋へ入る。
ゲームをした時とは違い、部屋にはゴミが散らかっていた。
「ゴミ箱に捨てない主義か」
「違うよ。僕はまとめて片付ける派なんだ。だから本当は綺麗好き」
「そうだな。お前はそういうやつだ」
きいろはそれ以上何も言わず、ゴミには手を付けずベッドへ腰掛けた。
「きいろくん、ゲームする?」
「しない」
「じゃあ、お弁当食べる?」
「そんな気分じゃない」
「じゃあ、そばにいてもいい?」
目の前に立った彼に、きいろは黒目だけで見上げる。
「僕がきいろくんの膝にいたら、お腹切るなんて思わないでしょ」
そう言って、自分の腹を指差した。
「お前、俺をとことん椅子にしたいのか」
「えへへ。僕の特等席だね」
遠慮なくそのまま膝に座る。
仕方なく体を後ろへ預けると、君野はその太ももの間へすっぽり収まった。
君野はきいろに体重を預け、笑顔を向ける。
しかし、いつものように絡みついてくることはない。
力のない両腕を、君野はシートベルトのように両手で包んだ。
「もう、ああいうのはやめて」
「もうしない」
「本当かな。きいろくんの言葉、信じられないもん」
「しないって言ってる」
きいろはそう言うと、君野を静かに引き寄せた。
一瞬、腹に鈍い痛みが走り、君野は小さく顔をしかめる。
だが、首筋へきいろの顔が近づくと、耳まで真っ赤になった。
きいろはその赤く染まった耳をじっと見つめ、そっと唇を触れさせる。
「こうしたら信じるか。もうナイフでもフォークでも持てやしない」
「……いや」
君野はそう言うと、不意にきいろの腕をほどいた。
そして彼の前へ立つ。
「ちょっと後ろに下がってくれる?」
「理由を言え」
「僕といるきいろくんの顔を、近くで見たいって思ったんだ。いつも顔が高い位置にあるから」
「……」
きいろは何も言わず、その要求を受け入れた。
ベッドの奥へ下がり、壁へ背中を預ける。
そこへ君野が足の間へ入り込み、絵画でも眺めるようにじっと見つめた。
「……何がしたい」
「知ってるようで、知らない人っていつも思うんだ。不思議な人だなって」
「……それで」
「今日、僕がここでお腹をずっと守ってる。だからトイレ以外、僕から離れないで」
「俺は妊婦じゃねえ」
そう言いながらも、油断すると顔が緩みそうになる。
君野の頬へ手を伸ばすと、その手へ甘えるように頬を乗せてきた。
まるで猫だ。
次は何をすれば、その柔らかな体温で、肉球で、丸いガラス玉のような瞳で、また俺を翻弄してくる?
親指でその唇をなぞる。
潤んだ猫のような瞳は、さらに色気を帯びていた。
殺したはずの感情が、内臓を静かに燃やす。
「俺を監禁してどうしたい」
「ずっと一緒にいたい」
「なら、見せてみろ」
「え……」
そんな無茶ぶりに、君野は少し考える。
保健室で貼ってもらった絆創膏を、人差し指から外した。
傷口のある指を口へ含み、赤ん坊のようにもごもごと舌を動かす。
そして指を抜くと、濡れた指先をきいろの目の前へ差し出した。
「見て。また血が出てる」
「それはどういう意味だ」
「漫画と同じだよ。鼻血ブーって。僕は指からだけど……」
「……」
意味がわからない。
だが、死ぬほど愛おしい。
きいろはその指を掴み、今度は自分の口へ含んだ。
傷口を舌先でゆっくりとなぞる。
君野はきょとんとしていたが、真っ直ぐ見つめてくるきいろの瞳に、だんだん危ない気持ちになってくる。
僕が知らないだけで、鼻血ブーを超える愛情表現なのかもしれない。
しかし君野は、そこで何かを思い出したように目を見開いた。
「……あ!きいろくん何型!?僕と違うと拒否反応起こすかもっ!」
「俺をドラキュラだと思ってんのか。……もしそうだったら、棺桶に入れてやる」
「それって、ずっと一緒ってこと?」
「いや、罰だ」
「罰?」
そう言うと、きいろは君野のネクタイを引っ張り、強引に引き寄せた。
挨拶をするように一瞬だけ唇を重ねる。
そして強く抱きしめると、改めてキスをした。
だが、昔のような、ほじくるような強引さはない。
愛おしいと思えば思うほど、それができなくなる。
すぐに離れようとした。
しかし君野は、もっとほしいと言うように、キスが終わっても、腕が離れても、まだくっついてくる。
捨て猫を拾ったのは俺だと思っていた。
だが、蓋を開けてみれば、寂しいのは俺だった。
それでも今は、その温もりがただ心地いい。
「ねえ、僕、明日……決着をつけようと思うの」
「……そうだな。もう、終わらせよう」
きいろは吐息のように言葉を漏らす。
そして、寂しいと決めつけていた猫の温もりに甘えるように、君野を強く抱きしめた。




