最終話「1%の奇跡」
翌日の朝。
堀田は、さらに仲を深めたらしい2人を見て、言葉にできない虚しさを感じていた。
君野と白黒は、ほとんど同時に教室へ入ってきた。
君野はカバンを雑に自分の席へ放ると、そのまま真っ直ぐきいろの席へ向かってしまう。
爺さんの魔法――創作の呪いのせいか、また君野から俺の記憶が完全に消えているようだった。
堀田は意識を集中させ、騒がしい教室の中から君野の声だけを拾う。
「……ね! お母さんのおにぎり、おいしかったでしょ!? 僕ね、明太マヨと唐揚げのおにぎり、大好きなんだよ~!」
君野の弾んだ声が聞こえる。
「……はっ!?」
アイツ、家に上がって飯まで食ったのか!?
「スペアの下着、返さなくていいからね。それとも、これからお泊まり用に何枚か置いておく?」
「お泊まり!?」
あいつら、一夜を共にしたってことか!?
は? それが1%の奇跡ってか!?
堀田は絶句した。
俺を忘れて、白黒だけを真っ直ぐ見ていると、ああなってしまうのか……。
何とも言えない感情が、胸の中へ重く沈んだ。
ホームルームが始まる直前、君野がようやく自分の席へ戻ってくる。
目がランランと輝いていた。
「おはよう」
堀田が声をかけると、君野はそこで初めて存在に気づいたように振り返り、笑顔を見せた。
「おはよう! えっと……誰だっけ」
「……いや」
今は耐えろ。
喉の奥からこみ上げる叫びが、歯の隙間から漏れないように強く食いしばった。
1時間目の体育。
生徒たちが跳び箱や柔軟体操に励む中、きいろはいつものように授業をサボり、体育館の隅にあるグランドピアノの陰へ腰を下ろしていた。
壁へ背中を預け、足を伸ばして目を閉じる。
すると、正面のピアノの下から、ガサガサと何かが這ってくる音がした。
現れたのは、4つん這いの堀田だった。
火のついた暴走機関車は、そのままきいろの目の前まで突進する。
目を閉じたままのきいろの鼻先へ、鼻と鼻が触れそうな距離まで顔を近づけて停止した。
血走った目。
荒い息遣い。
悲しい鬼のような顔が迫っているというのに、きいろは目すら開けない。
その舐めきった態度へ、堀田の尋問が飛んだ。
「プラトニック……プラトニックだよな?」
「うるせえな」
「なあ!! 昨日、プラトニックに過ごしたんだろ!? ベッドは別だったんだろ!?」
「一緒に寝た。あいつが俺の腹を守りたいって」
「それから!?」
「……あ? オカズにすんのか」
「真面目に答えろ!! 1%って、そういうことかよ!? なあ!!」
その言葉に、きいろは笑いを堪えきれず肩を揺らした。
わざとらしく咳払いし、いつものポーカーフェイスへ戻ろうとする。
それでも、唇の端は緩んだままだった。
「頭が幸せだな」
きいろは滝行を終えた仙人のように、妙に落ち着き払っている。
「何!?やっぱなんかあったのか!?」
「何もない。……あいつ、今日、目を描くらしい。それで全部終わる」
「いつ?」
「さあな。だがその1筆に、俺達の運命が握られてるってことだ」
「……何色で描くんだろうな」
「そんなもの、君野にしかわからない。何色で描こうが、俺達は膝をついて見守るしかない」
「そうだよな……」
2人は、遠くで1人マット運動をしている君野を見つめた。
不思議だ。
奇跡を起こす人間というのは、聖剣に選ばれるような、もっと特別な人物だと思っていた。
だが実際に運命を握っているのは、マットの上で前転に失敗し、無様に転がる君野だった。
3時間目。
全学年が避難訓練のため体育館へ移動している最中、最初に異変へ気づいたのは堀田だった。
「あれ? 君野は? 白黒、知らないか?」
「……美術室」
壁の時計は10時50分。
もうすぐ11時になる。
2人は顔を見合わせると、体育館へ向かう生徒たちの流れに逆らって走り出した。
今、この瞬間に何かが起こる。
時計は戻るのか。
それとも、12時を越えるのか。
2人は馬にでも乗って草原を駆けるような勢いで、美術室へ向かった。
もう、これですべてが終わる。
そんな直感が、足をさらに速めた。
美術室。
扉は開いていた。
案の定、君野が机の上へ目のない天使の絵を置き、壁に立てかけている。
2人は入口で足を止めた。
関わるべきか。
それとも、見守るべきか。
きいろだけが、静かに教室へ入っていく。
「白黒……!」
堀田は呼びかけたものの、中へは入らなかった。
それが正しい気がした。
朝に抱いていた悔しさは、もうどこにもない。
今ここで君野の隣に立つのは、自分ではない。
そう感じたからだ。
堀田は入口に立ったまま、きいろが君野の背中を抱きしめる姿を見つめた。
ここへ入る資格は、自分にはない気がした。
2人の前には、目のない天使。
昨日、君野が包丁を突き立てた傷が、そのまま残っている。
きいろは、もう癒えることのない傷跡を痛ましそうに撫でた。
「昨日ね、きいろくんのお爺ちゃんが夢に出てきたんだ」
「……何て言った」
「君の色で描けって、囁いてきたの」
「描くんだろ」
「うん!」
「……俺のための未完成だった。お前はそう思うか」
「そうだと思うよ。僕、お爺ちゃんの気持ちを受け取ったから」
「俺達の愛も、出会いも、全部あいつの創作の駒だったとは思わないのか」
「思わないよ」
君野は迷いなく答えた。
「だって、きいろくんは素敵な人だもん。だから、お爺ちゃんもきっと素敵な人だったんだって思えたんだ」
君野が笑う。
しかし、きいろの中にあるものは、そんな魔法のように簡単な感情ではなかった。
「俺はそうは思えない。……奇跡なんて、起きなくたっていい」
そう言って、絵の具を準備する君野を強く抱きしめる。
「……もう全部終わってもいい。このまま」
「ううん。目を描くの」
ガラスのように真っ直ぐな瞳だった。
もう何を言っても、その決意は覆らない。
「……わかった。手伝う」
きいろが手に取ったのは、古びた木製のパレットだった。
山小屋でも、爺さんが使っていたものだ。
「ん? 壊れてる?」
入口から2人を見守っていた堀田は、美術室の時計がおかしいことに気づいた。
君野たちが準備を始めてから、すでに10分ほど経っている。
それなのに、黒板の上にあるアナログ時計は11時を指したままだ。
秒針だけが動き続けている。
長針も短針も、11時から先へ進まない。
何かと接続されている。
あの駅前のからくり時計と――。
堀田の額から、静かに汗が流れる。
緊張で痛み始めた腹を、制服の上から押さえた。
「黄色……」
君野は思うまま、チューブから黄色の絵の具を出した。
右手に握った細い筆が震えている。
きいろは、その震えごと後ろから抱きしめた。
鮮やかな黄色が、目のない天使の両目へ塗られていく。
ぐちゃぐちゃな丸。
子どもの落書きのような目。
それでも、きいろには、なぜか最初からその色だったように思えた。
愛おしそうに君野の耳元へ口を寄せる。
「……上出来だ」
「お爺ちゃん、喜んでるかな?」
「なんで黄色にした」
「お爺ちゃんが、僕の色でって言ったから!」
君野は自分の髪を指差した。
「僕、髪の毛が黄色でしょ? だから黄色がいいかなって!」
「……」
予想もしなかった答えに、きいろは君野の頭の中を読み解くように黙り込む。
「……ああ、なるほどな。“君の色”って、君野の“色”か」
「あれ? 違うの? もしかして間違えちゃった?」
「いいんじゃないか。お前らしくて」
「でもさあ、今そう言われて思ったんだ」
君野は嬉しそうに振り返る。
「『君の色で描け』っていうお爺ちゃんの言葉にはね、僕ときいろくんの名前が入ってるんだよ」
「……何?」
「きみのいろ」
君野は1文字ずつ確かめるように口にした。
「君野と、きいろ。ね! お爺ちゃん、すごくうまいよね!」
きいろは、ようやくその意味に気づいた。
そして初めて、胸の奥へ何かが落ちた。
「心を込めて作ってる時に、僕達の名前をつけたんだよ。そう思わない?」
君野が無垢に笑う。
その言葉が、なぜか胸の中へ優しく入ってきた。
天使の言葉だからではない。
君野が言ったからだ。
「……そうだな。馬鹿だよな、本当に。最後まで狂ったクソジジイだった」
「そんなことない。きいろくんは、お爺ちゃんの大切な子どもだったんだよ」
「なら、なんで最後まで、俺の前には1度も姿を見せなかった」
きいろの声が低くなる。
「お前の夢にばかり出てきて、俺には声しか聞かせなかった」
「……夢の中のお爺ちゃんね」
君野は静かに呟いた。
少しだけ喉を詰まらせながら、言葉を続ける。
「実は、からくり時計だったんだ」
「……」
「だから、なんかね……ずっと、どこにもいなかったんだって思って。朝、泣いちゃった」
「……いなかったのか。最初から」
「うん。おじいちゃん本人じゃなかった」
「……」
「でも、あの気持ちだけは、本物だった気がしたの」
君野は胸へ手を当てる。
「もう終わったんだって思ったら、ここが広がったんだ」
「……そうか」
きいろは目を閉じ、小さく息を吐いた。
その言葉に、初めて目頭が熱くなるのを感じた。
俺には絵の才能がなかった。
未完成の爺さんの絵にすら、太刀打ちできなかった。
認められたかった。
だから、絵の才能を失ったことを君野のせいにした。
そうすれば、あいつのように愛してくれるかもしれない。
どこかで、そんなことを考えていたのかもしれない。
「……ありがとな」
「うん。これからも恋人――」
言い終える前に、君野はきいろに唇を奪われた。
時間が止まったような、長いキス。
「はっ……」
唇が離れたあと、君野が見たのは、きいろの穏やかな笑顔だった。
「越えた……?」
堀田は、もう1度美術室の壁時計を見上げる。
止まっていた長針が、ゆっくりと動いていた。
時計は、12時を越えている。
1%の奇跡は、目の前の光景がすべてを示しているように思えた。
翌日――。
「おはよう」
教室へ入ってきた堀田は、すでに席についていた君野へ声をかけた。
「あ、堀田くん、おはよう!」
「……うん? あれ、覚えてる?」
その返事に、堀田は耳を疑う。
そしてすぐに、駅前で見た光景を思い出した。
「なあ、見たか? 今日、からくり時計にブルーシート張ってあったな」
「うん。昨日の夜0時ぴったりで止まっちゃったみたい。まだ撤去まで時間あるのにね」
「そうだな……」
表向きは残念そうに返した。
だが胸の奥には、ようやく終わったという安堵だけが広がっていた。
「お、白黒だ」
教室へ入ってきたきいろを見つけ、堀田は思わず呼び止める。
「ん?しろくろ?ろくろ?」
君野は首を傾げた。
その一言に、堀田は椅子ごと後ろへ下がる。
「は!?お前、白黒のこと忘れちまったのか!?」
第2章でも始まったのか――。
そんな不安が胸を覆う。
冗談かとも思った。
だが何を聞いても、君野の中から昨日までのきいろへの情熱だけが、きれいに消えていた。
1時間目が終わる。
自販機へ向かうきいろを、堀田は追いかけた。
「おい! 白黒! 君野、お前のこと忘れてるぞ! 爺さんのことも全部覚えてない! これってまた何か始まったのか?」
「俺がそう願ったからだ」
「……なに?」
「最後のキスに、その願いを込めた」
「なんでだよ! また1人で抱え込む気か!」
「違う」
ガコン、と缶コーヒーが落ちる。
きいろはそれを取り出し、そのまま堀田の横を通り過ぎた。
「もう死なない。だからそうした」
「は? 意味が……」
「ふん、勘違いすんなよ」
「何が!?」
プルタブを開け、一口飲む。
そして、ニヒルに笑った。
「今はな。……お前らの関係なんて、いつでもぶっ壊せる」
そう言い残し、教室へ戻っていく。
「なんだよ……」
堀田は苦笑した。
いつでも来いと思う自分と、
来るなと思う自分がいる。
その両方が本音だった。
だが――
「……よかった」
命は守られた。
ブルーシートを被せられたからくり時計は、この物語の終焉そのものだった。
堀田はふと、美術室の方角を見る。
そういや……
あの絵はどうなった?
気づけば走り出していた。
美術室へ入ると、いつものカビ臭い空気が鼻につく。
朝1番に来たのは、自分らしい。
キャンバス置き場を端から探す。
学生たちの作品は並んでいる。
だが、目のない天使だけが見当たらない。
「白黒が持って帰ったか……?」
もう1度、最初から探し直す。
すると、真っ白なキャンバスが1枚だけ混じっていた。
「……?」
手に取る。
木枠だけが、不自然に黒ずんでいる。
あの絵と同じだった。
堀田は静かに裏返した。
「あっ……やっぱり!」
そこには、煤で隠れて見えなかった筆記体のサイン。
位置も、大きさも同じ。
――À peine un miracle
堀田はスマホを取り出し、翻訳する。
表示された日本語を見た瞬間、全身に鳥肌が立った。
「……わずかな奇跡」
その言葉を口にした瞬間、
胸の奥から、抑え切れない感情が込み上げる。
気づけば涙がこぼれ、
スマホの画面へぽたぽたと落ちていた。
「……そうか」
未来を捨ててまで、目的を果たした爺さん。
最後まで動いていたのは、
爺さんじゃない。
あの、からくり時計だった。
「アンタの息子は、ちゃんと生きる。安心してくれ。俺達がいる」
堀田は真っ白になったキャンバスを、大事そうに胸へ抱き寄せた。
**END**
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