第52話「狼狽」
堀田は、学校の最寄り駅へ戻る電車の中で、ずっと考えていた。
「……1%の奇跡」
爺さんが君野に、目を描かせたいという願い……。
ただ描いてほしいわけじゃない。
君野の"予測できなさ"が、1%だとしたら――
それで、からくり時計の物語は終わるのか?
「……結末ごと、君野に託したのか」
あの「目」を描いた瞬間に、未完成の物語は完成する。
君野がその時に描く色、その感情、そのすべてに、きいろの運命が委ねられるのか。
「君野だけが、起こせる奇跡……」
電車が駅へ着く頃には、1時間目の休み時間になっていた。
どれだけ腹痛が長いのか、救急車で運ばれたのかと心配した藤井から、再び電話が入る。
堀田は「無事だ」とだけメッセージを返した。
「ん? 11時?」
駅前へ着く。
ふと、からくり時計を見上げると、時計は11時を指していた。
思わず足を止める。
そんなはずはない。
スマホを取り出す。
画面には『9:30』。
「え……?」
もう一度、時計を見上げる。
今度は確かに、9時半を指していた。
あれ?
さっきの11時は……。
見間違いじゃない。
だが、その一瞬のズレに胸の奥がざわつく。
「……もう来てるのか」
鳴らない12時まで、もうすぐということか。
胸騒ぎを抱えたまま、堀田は学校へ駆け出した。
「……ある!」
下駄箱へ入ると、真っ先に君野ときいろの靴を探す。
よかった。
ちゃんと学校へ来ている。
あとは、どうアイツへ説明するか……。
「きっとこの話を聞けば、爺さんへの誤解も解けるはず……」
そう考えていた、その時だった。
――きゃあああああっ!!!
「!」
女子の悲鳴が響いた。
反射的に振り返る。
だが、誰もいない。
耳元で聞こえたはずなのに。
「なんだったんだ……?」
その瞬間だった。
下駄箱脇の階段を、誰かが駆け上がっていく足音だけが響く。
「あの人……?」
堀田は迷わず追いかけた。
2階へ上がる。
見えた人影は、一瞬だけ。
女子だったのか。
男子だったのか。
それすら判別できない。
だが中央廊下へ出た瞬間、その先を歩く見覚えのある大きな背中が目に入った。
「白黒……!」
さっきの人影とは違う。
しかし、2時間目が始まるというのに、きいろは夢遊病のようにふらふらと歩いている。
そのまま、美術室のある廊下の奥へ曲がっていった。
静かだった。
雪が降り積もった朝のように。
音だけが、不自然なほど沈んでいる。
まるで世界から切り離された空間。
寒気を覚えながら、堀田は足音を殺して、その背中を追った。
「ん?」
追いついた頃には、美術室の扉が閉まっていた。
次は美術の授業じゃない。
嫌な予感がして小窓を覗く。
中には、きいろが1人だけいた。
奥の倉庫から、ぐるぐる巻きに封じたはずの『目のない天使』を運び出してくる。
堀田は慌てて引き戸を揺する。
ガチャガチャ。
その音できいろはこちらを一瞬だけ見た。
だが、それだけだった。
背中のボタンを切り替えられた機械のように、動きを止める様子はない。
教室中央の柱の出っ張りへ机を1つ運ぶ。
その上へ、目のない天使を立て掛けた。
その顔はいつもの仏頂面。
だが、生意気さだけが、どこか消えていた。
「おい……!!何してんだよ!」
悪寒が全身を駆け抜ける。
今、止めなければ。
そんな使命感が胸を締めつける。
これもまた、物語の一部だというのか。
その嫌悪感に、背中へじわりと汗が滲んだ。
すると、小窓の向こうで突然、きいろが緑のブレザーを脱ぎ捨て、床へ放り投げた。
白いシャツ姿になると、今度は制服のボタンを下から1つずつ外していく。
露わになった腹部。
「おい……!!!」
次の瞬間、腰元にあった右手が顔の高さまで上がる。
その手には、料理包丁が握られていた。
「やめろ!!!!おい!!白黒!!」
喧騒など耳に入らない。
きいろは柄を両手で握り締め、その刃先を静かに自分の腹へ向けた。
「何考えてんだっっ!全部背負うなよ!!」
自分が死ねば、爺さんの狂気は終わる。
からくり時計も止まる。
そう思ったのか……?
「堀田くん?」
振り返ると、君野が何かに導かれるように歩いてきた。
彼もまた、あの人影を追ってここへ来たのか。
その瞬間、堀田の胸を何かが貫く。
これが……
1%の奇跡?
「君野!!頼む!!アイツを止めてくれ!!」
君野の手を掴み、小窓へ引き寄せる。
中を見た君野は、口元を押さえた。
「きいろくん!!!どうして……!!」
今にも包丁を突き立てようとする姿に、言葉を失う。
「お願い!!やめて!!!きいろくん……!!!」
「爺さん……!!アンタが助けたい命、君野が助けられるんだろ!?だったらこの扉を開けてくれ!!」
しかし――
ドアは動かない。
堀田は、開くと思っていた。
魔法みたいに。
ここで開くために、この物語は進んできたんじゃないのか。
「どういうことだ……」
ガチャガチャと何度も引き戸を揺する。
「おい!! このまま愛する息子が死んでもいいのかよ!!」
返事はない。
鍵も開かない。
その瞬間だった。
きいろは静かに覚悟を決める。
そして、自分の腹へ包丁を振り下ろした。
「うわあああああ!!!!!!」
君野が絶叫する。
目を固く閉じ、その場へ崩れ落ちた。
堀田もまた、凄惨な光景を想像し、目を開けられない。
だが――
カツン。
何かが内側から扉へ当たる、小さな音。
続いて、
ガチャン。
鍵が外れる音がした。
「開いた……!?」
堀田は勢いよく引き戸を開け、きいろへ駆け寄る。
「どういうことだ……?」
床へ崩れたきいろ。
腹には血がない。
包丁だけが、少し離れた床へ転がっていた。
「え……?」
その時、入口付近を見る。
床に、小さく光るものが落ちていた。
拾い上げた瞬間、全身へ鳥肌が走る。
「……へそピ」
時任先輩のへそピアスだった。
中央の大きな宝石だけが砕け、なくなっている。
包丁を受け止めたのか。
そうだ。
君野のリュックにつけていたはずの――。
「……守ってくれたんだ…」
堀田の目に涙が滲む。
時任茜の笑顔が、胸の奥からじんわりと溢れてきた。
「うわああああん……!!」
君野は魂が抜けたように、きいろへ崩れ落ちるように抱きついた。
「どうして……こんなことしたの……っ!! どうしてっ……!!僕のこと愛してるんでしょ!?そう言ってくれたのに……!!」
「……お前を、爺さんから守りたかった」
きいろは放心したまま、消え入りそうな声で答えた。
いつもなら獣のように抱き返すはずの腕は、力なく垂れ下がったまま。
「俺が消えれば、止まる。俺が欠けた、未完成のまま……」
「違うよ……!僕、そんなこと望んでない……!!きいろくんと、ずっと一緒にいたいよ……!!」
「お前が欠けて未完成だなんて間違ってる!!時任先輩がここまでして守ってくれた命、次にまた投げ捨てようもんなら絶対に許さないからな……!!!」
画商の家で知ったことを、今ここで話す意味はない。
堀田はただ呆然と、その光景を見つめるしかなかった。
頭がじんじんと痛む。
こめかみが脈打ち、目眩が押し寄せる。
「酷い!!酷いよ、お爺ちゃん!!!」
君野は突然、床へ落ちた包丁を拾い上げた。
崩れそうな2本の足で立ち上がり、夢遊病者のようによろめきながら絵へ近づく。
「君野!!」
次の瞬間だった。
君野は、目のない天使へ包丁を突き立てた。
ガンッ!!
鈍い音が美術室へ響く。
「うわあああ……!!!お願い!!きいろくんを連れていかないで……!!僕が……僕が代わりに夜の話し相手になるから……!!!」
何度も。
何度も。
包丁を突き立てる。
鬼気迫るその姿に、堀田もきいろも体が動かなかった。
板へ包丁が突き刺さる音だけが、美術室へ響き続ける。
堀田は、自分がその場に立っている感覚さえ薄れていく。
まるで、自分の背中越しにこの光景を見ているようだった。
「はあ……はあ……」
やがて包丁が、君野の手から静かに落ちる。
荒い呼吸を繰り返しながら机へ左手をついた。
その時だった。
右手の人差し指から血が流れていることに気づく。
いつ切れたのかも分からない。
じんじんと熱を帯びた赤を、君野はぼんやり見つめる。
「赤……」
涙が止まらない。
過呼吸になりそうな呼吸のまま、ゆっくりとその赤い指を、天使の目へ伸ばした。
「駄目だ!!!やめろ!!!!」
堀田は間一髪で君野の腰を抱え上げ、キャンバスから引き剥がす。
暴れる足を、きいろも無言で押さえた。
「駄目だ!!そんな気持ちで目を描いたら……!!」
堀田は泣きじゃくる君野を胸へ抱き寄せる。
君野は過呼吸になりそうなほど、えぐえぐと泣き続けていた。
堀田は背中を優しくさすりながら、強く抱き締める。
そして床へ座り込むきいろを睨みつけた。
「お前の望んだ光景がこれか?死が美徳?馬鹿じゃねえの」
「……そうだな」
反論はなかった。
その一言だけが返ってくる。
それが、余計に堀田の胸を締めつけた。
「今回でよく分かった……爺さんが、こんな奇妙なルートを辿った理由が」
傷ついたへそピアスを、きいろへ突き出す。
彼の手のひらへ、宝石を失ったピアスが静かに乗った。
「……どうだかな」
きいろは力なく笑う。
その笑みには、諦めも、自嘲も、何もかもが混ざっていた。
本当に、これで終わったのか。
本当に、奇跡は起きたのか。
まだ何かが終わっていない。
そんな不安だけが、美術室に重く残っていた。




