第51話「画商とルネ爺」
「お」
堀田は君野ときいろと別れたあと、ブレザーの中でスマホがぶるぶると震えるのを感じた。
まだ8時。この時間はアラームか? と思いながら画面を見ると、なんと、あのルネ爺の絵を紹介していたアカウントからフォロー承認が届いていた。
堀田は今がチャンスだと、すぐにDMを送る。
まずは『はじめまして』とだけ送った。
まだスマホを手に持っているらしい。
すぐに既読がついた。
しかし返事はない。
警戒しているのかもしれない。
堀田は立ち止まり、自己紹介を送ったあと、改めてメッセージを打つ。
『あなたの動画で紹介されていたルネ・デュバルの絵について、いくつかお聞きしたいことがあって連絡しました。
文面でのやり取りでも構いませんので、お話を伺えないでしょうか』
すると、またすぐに既読がつく。
しばらく「入力中」の表示が現れ、やがて返信が届いた。
同じ趣味の人だと思ってくれたのだろうか。
期待しながら画面を見る。
『そんなに好きなのであれば、今からでも来ていいですよ』
「え?今から?」
住所が送られてきた。
話があまりにも早すぎる。
一瞬警戒したが、こんな機会は二度とないかもしれない。
「よし……」
堀田は踵を返し、駅へ向かった。
その途中、大きなからくり時計を睨みつける。
俺の運命は、アンタに操られるもんじゃない。
止まって死ぬくらいなら、走って死ぬ。
あいつらが今、2人きりでデートしていようが、俺はそういう覚悟だ……。
「……」
堀田は眉間に皺を寄せながら、スマホで住所までの行き方を検索した。
学校には適当な理由を伝え、遅延証明書を取ることにする。
「うわ、すげえ……」
電車に揺られること30分。
堀田は駅近くの閑静な住宅街へやって来た。
高級住宅街だ。
送られてきた住所は個人ギャラリーも兼ねているらしく、一般公開されていた。
駅前から漂う空気が違う。
洋画に出てきそうな白く大きな家々が並んでいる。
その中に、真っ白な塀で囲まれた、一際大きな邸宅があった。
「こんな家に住む人が、本当に……」
恐る恐る黒い門の横にあるインターホンを押す。
「すみません。先ほど連絡した堀田です」
数秒後。
ガシャガシャという音とともに、大きな門が開いた。
中から現れたのは、白髪の老人だった。
姿勢が良く、朝からきちんと身なりを整えている。
優しそうに垂れた目を細め、穏やかな笑顔で迎え入れてくれた。
「DMありがとう。谷尾です」
柔らかな声だった。
「若い人がルネの絵を見たいなんて言ってくれる日が来るとは思わなかった。本当にSNSを始めてよかったですよ」
「ルネ爺さんをご存じなんですか?」
「ああ。昔ね。私は画商をしていたんだ。今は引退して、このギャラリーと都心を行き来しながら暮らしている」
歩きながら谷尾は穏やかに話す。
「若い人にもアナログ絵画の魅力を知ってほしくてね。SNSはその趣味みたいなものなんだ」
「そうだったんですね」
「あの人ということは、知り合いだったんですか?」
「ああ。でも偏屈な画家でね……」
そう話しながら奥へ進む。
堀田は目を閉じ、谷尾が保管庫の暗証番号を入力するのを待った。
扉が開く。
天井高3メートルほどの真っ白な空間。
壁一面に絵画が飾られていた。
「……他の絵の解説は不要かな?」
「え、あ……はい」
まるで、自分がルネの絵にしか興味がないことを見透かされているようだった。
さらに奥へ進く。
白い廊下にも絵が並んでいる。
あまりにも優雅な空気に包まれ、堀田は劣等感すら憧れへ変わるほど圧倒されていた。
谷尾は4枚の絵の前で足を止める。
キャンバスの大きさはどれも、2つ折りのノートパソコンを開いたくらいだった。
「あ……これ、ルネ爺さんっぽい」
目のない天使の絵を思い出す。
ここに並ぶ作品も、全体的に黒く重い。
宗教画や物語の一場面を切り取ったような、不思議な圧迫感がある。
しかし、描かれているのはフランスの田舎町、女性の肖像、果物の静物画。
目のない天使と直接つながる作品は見当たらなかった。
「ちょっと、裏返してもいいですか?」
堀田が食い入るように絵を見ていると、谷尾は嬉しそうに目を細めた。
「キャンバスの裏が見たいのかい?」
「はい。タイトルとか、サインがないかなって」
「構わないよ」
谷尾はわざわざ額縁を外し、絵を取り出してくれた。
堀田は慎重にキャンバスを受け取り、裏側を確認する。
「絵って、裏にタイトルが書いてあったりしますよね? 作者のサインとかも」
「ああ。もっとも、画家によってはどちらも入れないことがある」
「ルネ爺さんも、そうだったんですか?」
「そうだね。では、なぜ入れなかったと思う?」
「なぜ……?」
堀田は首を傾げた。
「タイトルをつけると、見る人の解釈が固定されることがある。ルネは、自分の説明よりも、見た人が何を感じるかを大切にしていたんだろう」
「へえ……そういう考え方もあるんですね」
「ただ、名前まで入れないとなると話は別だ」
元画商の血が騒いだのか、谷尾の声に少し熱がこもる。
「真贋を証明できなければ、どれだけ本物でも流通価値はほとんどなくなる。誰の作品かわからない絵に、資産としての価値はつきにくいからね」
「じゃあ、売る気がなかったってことですか?」
「少なくとも、売るために描いてはいなかったんだろうね」
谷尾が額縁を外している間に、堀田は4枚すべての裏側を確認した。
だが、どこにも文字らしいものは見当たらない。
「全部、何もないですね……」
堀田は小さく息を吐いた。
「じゃあ、あの目のない天使には、やっぱりタイトルが……?」
「あのルネが、自分の絵に題をつけていたのかい?」
「たぶんです。サインみたいなものが残っていて。ただ、山火事で見つかった絵なので、描かれた天使も真っ黒に煤けてるんです。裏の木板も、文字があったように見えるだけで……」
「山火事……」
谷尾の表情がわずかに曇った。
堀田は、この人なら何か知っているかもしれないと思い、ルネについて知っていることを教えてほしいと頼んだ。
その後、2人は白を基調とした広いリビングへ移動した。
大理石のテーブルには、紅茶とクッキーが用意されている。
堀田は自分でも信じてもらえるとは思わないまま、からくり時計のことや、最近起きている不可解な出来事を話した。
「変な話なのはわかってます。俺の創作だと思ってくれてもいいです」
谷尾は遮ることなく、静かに聞いている。
「谷尾さんは、あの4枚の絵にどうしてそこまで惚れ込んだんですか? 市場価値もほとんどないんですよね?」
「私がルネと出会ったのは、あの山火事が起きる2年前だ」
谷尾は紅茶をひと口飲み、遠い記憶をたどるように目を細めた。
「確かに、山小屋には小さな子どももいたよ」
きいろだ。
堀田はすぐに理解した。
「君の話を聞いていると、不思議には思うね。なぜ私がルネと出会い、なぜあれほど絵に惹かれたのか。からくり時計が未来を導いていたという考えも、物語としては面白い」
谷尾はそう言いながら、クッキーをひとつ口へ運ぶ。
「そうだ。あの頃、大切にしていた犬がいなくなってね」
「犬?」
「見かけたという情報が入ったのが、あの山だった。行ったこともない、100キロほど離れた山中まで探しに行ったんだ」
温かい紅茶を飲み、クッキーを口へ押し込む。
「はは。こんな食べ方、外ではしないよ」
堀田が愛想笑いを返すと、谷尾はゆっくり咀嚼してから話を続けた。
「山の中を歩いていると、山小屋の外へ運び出され、今にも捨てられそうになっている絵を見つけた。なぜか、どうしても欲しくなってしまってね」
「不思議な出会いですね……」
「だが、ルネは偏屈だったよ。捨てる絵だからこそ売らない。売るための絵など1枚も描いていない。そう言って、私は追い返された」
「じゃあ、どうやってあの4枚を?」
「その後も山小屋へ通ったんだ。まるで妻と出会った時のように、ルネの絵に惚れ込んでいた」
「2年間ずっと?」
「ああ。画商をしていた時でさえ、あれほど欲しいと思った絵はない。通い続けて、ようやく譲ってもらえたのが、あの4枚だ」
「……それは、谷尾さん自身の意思だったんですかね」
からくり時計に導かれていたのか。
それとも、本当にルネの絵を愛しただけなのか。
堀田自身にも、どちらなのかわからなかった。
「運命だろうね」
谷尾は深い皺を作って笑った。
この話をしたのは、少し不躾だったかもしれない。
谷尾は心からルネの絵を愛している。
それさえも、からくり時計に動かされた結果なのではないかと疑うなんて。
「でも、時計職人だったルネが、どうして絵を描くようになったんでしょう」
堀田が何気なく尋ねると、谷尾は少し考えてから答えた。
「時計は、精緻でなければならない。わずかな狂いも許されず、完成品として動かなければ価値を持たない」
谷尾は、先ほど見た4枚の絵を思い浮かべるように目を伏せた。
「だが絵は違う。完成の形を、描いた本人が決められる。線が歪んでいても、色が足りなくても、それを表現だと言える」
その何気ない言葉が、堀田の思考に火をつけた。
「そうか……!」
白黒が生まれていた頃には、もう、からくり時計は完成していた。
つまり、未来を代償にして何かを完成させることは、もうできない。
完璧でなければ意味をなさない時計は、もう作れない。
「だから、絵描きになったのか!」
思わず大声を上げてしまい、堀田は驚いた谷尾に慌てて頭を下げた。
「す、すみません!」
「はは、大丈夫だよ」
だが、堀田の思考は止まらない。
君野のせいで絵の才能を失ったんじゃない。
からくり時計を完成させた代償で、もう何一つ完成させられなくなった。
その事実を隠すためについた嘘だったんじゃないか。
なら、やっぱり――
未来の息子を生かすため、自分の未来を差し出した、不器用な父親だった。
すべてが繋がる。
「1%に、賭けたのか……」
胸の奥が熱くなる。
全身から汗が噴き出した。
「あの……画家って、絵が描けなくなると苦しいものなんですか?」
帰り際、玄関で堀田は最後の質問を投げかけた。
「ああ」
谷尾は静かに頷く。
「苦しいよ。不治の病みたいなものだからね」
少し空を見上げてから続けた。
「それなのに、完成しないとわかっていながら描き続けるなんて……私には耐えられない」
その言葉が、堀田の胸へ静かに沈んでいく。
「なら……ルネ爺さんは、ずっと息子のために……」
喉の奥が詰まる。
そう信じたかった。
そうであってほしかった。
だが、その答えはあまりにも切なくて、視界が滲んだ。
何度も目を見開く。
歩道のタイル模様が、涙で歪んで見えた。
「ん?」
その時、緑のブレザーのポケットが震えた。
スマホだ。
画面には、親友・藤井の名前が表示されている。
着信が1件。
だが、今は数学の授業中のはずだった。
「藤井?どうした?」
胸騒ぎがする。
堀田は通話ボタンを押しながら、急いで学校へ向かった。




