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第50話「キャッチボール」




 次の日。


 案の定、君野(きみの)堀田(ほった)を忘れていた。


 それでも、目のない天使に目を描かなければならないという使命感だけは消えていない。


 山小屋での出来事だけが、綺麗に記憶から抜け落ちていた。


 堀田と君野はいつも通り、2人で朝の通学路を歩く。


「君野。ちょっと止まってくれ」


「ん?」


 11月半ば。


 木々から落ちた枯れ葉が、彼のリュックと背中の間に挟まっていた。


 堀田はそれを取ってやると、寝不足気味の君野の眠たそうな顔を見つめた。


「大丈夫か?」


「うん……ありがとう」


 君野は静かに答える。


 彼の母親とも仲良くなり、あのネコの写真まで見せてもらった。


 それなのに、俺にはまるで効果がない。


「……白黒か?」


「あ、きいろくん!?いや……うん……」


 君野が正直に頷く。


 顔を紅潮させるその姿に、昨日のトイレで何かあったに違いない――。


 その嫉妬がメラメラと燃え上がった。


「今日、顔合わせるの……なんか恥ずかしくて」


「そうか」


 俺、さっきお前の恋人だって言ったけどな……


 握った拳に限界まで力が入り、爪が手のひらへ食い込んだ。


 しかし、単細胞みたいに怒り狂っている場合じゃない。


 その激情が押し寄せるたび、決まってもっと大きな波が返ってくる。


 じゃあ俺は、一体何のために。


 爺さんに抗えたところで……


「だああああああ!!!」


 堀田の絶叫と、自分へのビンタに君野がビクッと肩をすくめた。


 ……楽しめ。今しかない。


 冷静に見ろ。


 全部、観察しろ。


 俺は研究者だ。


 実験は感情で失敗する。


「堀田くん、大丈夫?」


「ああ。なあ、手を繋いでいいか」


「うん。いいよ」


 君野が手を開いてくれる。


 堀田は彼の手を握ると、一度だけ大きく息を吐いた。


 冷静に周囲を見渡す。


 すると、君野のリュックにつけた時任茜のへそピアスが、一瞬だけ光った気がした。


 俺は1人じゃない。


 見えなくても、見えないものが俺達を守ってくれている。


 俺はそう信じてる。


 無言で居直ると、君野へ「行こう」とだけ伝えた。



 2人は学校の最寄り駅へ到着した。


 通学時間帯の人波が駅から一気に流れ出る。


 その駅前のからくり時計の下で、君野は小さく声を上げ、堀田の後ろへ隠れた。


 うげ……白黒(しろくろ)だ。


 堀田の目つきが一瞬鋭くなる。


 だが、すぐ胸へ手を当て、一息ついた。


 そして少し前にいた彼へ、そのまま歩み寄る。


「おはよう!!」


「ああ」


 相変わらず、堀田には眉ひとつ動かさない。


 君野は堀田の後ろへ隠れ、その腕を掴んだままモジモジと俯いている。


 3人はそのまま学校へ向かって歩き出した。


「……」


「……」


「……」


 3人とも考えていることが違う。


 そんな空気だけが、重く漂っている。


 そして堀田は、いつもの直情を必死に押し殺しているうちに、ふと気づいた。


 ……俺、邪魔か?


 俺がいるから、2人とも本音を飲み込んでるのか?


 出来事1つひとつに騒いで反応していては、真実には辿り着けない。


 わかっていたのに、行動が伴っていない気がした。


「……」


 あいつは俺に一晩、君野を任せてくれた。


 飴だって溶けていなかった。


 冷静に……


 俺もそんな戦術で経過を見るべきだ。


 そう思った瞬間、堀田は首をぐうっと伸ばした。


 ひん剥いた目を元へ戻すと、次の瞬間には口が動いていた。


「……白黒。任せる」


「あ!!堀田くん!!?」


 堀田はそのまま走り出し、1人で学校へ向かってしまった。


「え……あ……え?」


 突然2人きりにされ、君野はたじろぐ。


 一方きいろは、遠ざかっていく堀田の背中を無表情のまま見つめていた。


「ど、どうしたんだろうね……」


 君野があわあわとしていると、きいろはリュックのバックルを握る君野の手を掴み、そのまま逃がさないように指を絡めた。


「!」


 あまりにも自然な恋人繋ぎに、返す言葉が見つからない。


 2人はそのまま学校へ向かって歩き始めた。


「あ、あの……きいろくん」


 繋がれた手は貝殻みたいに固く絡み合った恋人繋ぎ。


 思わずその手をじっと見つめてしまう。


「僕、その……こんなことされたら、その……好きになっちゃう……」


「そんなものはない」


「どういうこと?この関係は遊びってこと?」


「お前が俺を好きなのは前提だ」


「え!?それずるい!僕はロボットじゃない!感情ちゃんとあるよ!」


「……やめた」


「え?」


 突然その場で足を止める。


 前へ進もうとした君野は後ろへ引っ張られ、学校とは反対の方向へ連れていかれた。


「え?え?どこ行くの?学校は?」


「やめたと言った」


 マイペースなきいろに、社交ダンスのように体を振り回される。


 真面目な君野は、学校をサボることに強い抵抗があった。


 掴まれた手へ少しだけ力を込め、歩みを止めようとする。


 しかし、固く閉じた貝殻はさらに強く閉じ、逃がしてくれない。


「きいろくん!学校行かなきゃ!」


「お前はさっき、俺を好きになってもいいと言ったはずだ」


「でも、先生がお母さんに電話しちゃうよ!心配しちゃう!」


「俺が悪い人だと言えばいい」


「嫌だ!だって悪い人じゃないもん!」


 その言葉に、きいろの足が止まる。


「きいろくんは悪い人じゃないよ。でも、ちょっと強引なだけ……」


「なら嫌じゃないだろ」


「え?う、うーん……」


「それが答えだ」


 試されるような返事になってしまい、再び手を引かれる。


 反射で嘘をつけなかった君野は、そのままずるずると、とある公園まで連れて行かれた。


 学校から少し離れた広い公園。


 遊歩道があり、池もある。


 森に囲まれたその場所では、この通学時間になると、高齢者がゲートボールや体操を楽しんでいた。


 君野はその様子を眺めながら、どんどん人気の少ない場所へ向かっていることに、不安を覚える。


 やがてたどり着いたのは、1つのベンチだった。


 きいろは黒いスクールバッグをどさっと置き、そのまま腰を下ろす。


「リュック置け」


 命令されるまま、君野も観念したようにリュックをベンチへ置いた。


 後ろを向き、荷物を下ろした瞬間――


「うわっ!?」


 背後から一気に抱き寄せられる。


 この人は、どうしてこうも強引なんだろう。


 でも、悔しいくらい嫌じゃない。


 学校へ行かなきゃという気持ちは、その背中の温もりと、回された腕の力強さに少しずつ溶けていく。


 からっ風が吹くたび、2人の密着した体温だけが頼りだった。


 首筋へ唇が触れ、鼻先をかすめる生ぬるい息がくすぐったい。


 それでも君野は、その気持ちを押し殺し、言うことを聞かない犬をしつけるように毅然と答えた。


「ドキドキしないよ」


「普通を、やってみたかった」


「普通?」


 きいろの腕に、少しだけ力が入る。


「お前を山小屋へ連れていった異常さが、自分のおかしさを際立たせる」


「山小屋?何それ?」


「……」


 その時だった。


 目の前の池を、1つのバスケットボールがぷかぷかと流れてくる。


 きいろはそれを見つけると、突然立ち上がって池の縁へ向かった。


 手の届くところまで流れてきたボールを引き上げ、水を切るように何度か振る。


 そして君野を見て、小さく言った。


「……キャッチボール」


「え?うん。いいよ」


 君野は穏やかな笑みを浮かべ、ベンチを離れてきいろの正面に立った。


 ある程度距離が開いたところで、上手投げでボールを放る。


「落とすな。落とすと汚れる」


 半乾きのバスケットボールが君野へ飛んでいく。


 君野が受け止めた瞬間、空気入れの穴から水が勢いよく噴き出した。


「ぎゃっ!」


 顔面に直撃。


 緑のブレザーはびしょ濡れだ。


 池の水も、決して綺麗ではない。


 もうこうなったらヤケだ。


 首をブルブルと横に振った君野は、すっかり吹っ切れたように笑う。


「いくよー!!絶対取ってね!!」


 勢いよく投げ返されたボールを、きいろはなんとか受け止める。


 その拍子に少しだけ体勢を崩した彼を見て、君野は思わず吹き出した。


「あはは!」


 それをきっかけに、笑いが止まらなくなる。


 こうやって何も考えず外で遊ぶなんて、いつ以来だろう。


 子どもの頃みたいな無邪気な高揚感が胸いっぱいに広がっていく。


 再びボールが返ってくる。


「あっ!!」


 しかし、雲の隙間から太陽が顔を出した瞬間、逆光でボールが見えなくなった。


 次の瞬間。


 硬いバスケットボールが君野の顔面へ直撃した。


 鼻を押さえてしゃがみ込む君野を見たきいろは、すぐに駆け寄る。


「大丈夫……じゃないな」


 鼻から血が流れている。


 だが、あいにくタオルもティッシュも持っていない。


 きいろは迷うことなく制服の下からタンクトップの裾を引き出し、一気に引き裂いた。


 あまりの潔さに君野は目を丸くする。


 その切れ端が、そっと鼻へ当てられた。


「ごめんね。服、破かせちゃって」


「変な提案して悪かった」


「ううん。変じゃないよ。普通のこと、したかったんだよね」


 穏やかに笑う君野を見て、きいろは静かに唾を飲み込み、何かを受け入れるように目を閉じた。


「……もし、普通に生きていられたら」


「うん……」


「……お前と普通の環境で出会えていたら。そんなふうに思う」


 そう言って、きいろは君野の頬へそっと触れた。


 鼻血で赤くなった鼻先を、力の入らない手の甲で優しくなでる。


「だが、お前はどうやっても、俺を好きになるしか術がない」


 きいろはニヤリと笑い、君野の顎へ手を添えた。


 唇が近づく。


「待って」


 その一言で、きいろの動きが止まる。


「……僕も、好きだよ」


 君野は震えながら1歩近づいた。


「だから逃げない」


 そう言うと、自分からきいろへキスをした。


 2人の間を、からっ風が吹き抜ける。


 濡れたバスケットボールはゆっくりと転がり、再び池の水面を漂い始めた。




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