第47話「爺さんの念」
「君野!!」
その日の静かな国語の時間、堀田は少し大きな声を出してしまう。
先生の視線だけがこちらを向いたが、隣の眠たそうな生徒を起こしていると思ったのか、注意はしなかった。
そのノートには、例の謎の「∞」マーク。
その2つの輪の中に、黒い点がそれぞれ1つずつ描かれている。
せっかく板書を写したのに、その上から書き殴られ、台無しになってしまっていた。
堀田は君野の右手からシャーペンを強引に取り上げ、彼を起こした。
「君野……おい!」
「はっ……あれ」
寝ぼけ眼の彼に、堀田は無言でノートを指差す。
それでようやく、奇妙な落書きに驚いた。
「わ!なんだこれ」
「……ん?これ……」
堀田は敏感になっているからか、それが何なのかを直感的に理解した。
「あ……!!目だ!!目のない天使の目!」
「堀田くん。静かにしてください」
先生に注意された堀田は、頭だけ軽く下げて平謝りする。
しかし重要なのはそこではない。
何故、今まで気づかなかったのだろう。
∞じゃない。
2つの輪郭と、その中の黒い点。
目だ。
そうだ、これ全部、あの目の部分……
そう理解した瞬間、全身に鳥肌が立った。
「うん……なんでこんなの描いちゃったんだろ」
君野は首を傾げながら、消しゴムで丁寧に消していく。
どうやら本人は、何を描いているのかまでは意識していないようだ。
「……」
頭がぐらつくほどの悪寒が走る。
足が震える。
このままでは本当に……。
「……君野……今日、絶対に1人で美術室には行くなよ」
「え?うん……」
君野は小首を傾げながら、消しゴムを一生懸命かけている。
「待て。まだそのままにしておいてくれ。それを見せたいやつがいる」
「見せる?誰に?」
「馬鹿言うな。殺すぞ」
きいろは低く吐き捨てたあと、舌打ちするように続ける。
「愛してるなら、なんで俺の前に一度も現れねぇ」
「それは……」
「君野には姿を見せて、夢まで見せてるくせに…。俺には声だけだ。信じられるか」
相当イライラしているのか、とてもひどい罵声を浴びせられた。
堀田はこれ以上、彼の気持ちを逆なでしてはいけないと黙り込む。
そして静かに自分の席へ戻ると、あどけない天使はまだ居眠りをしていた。
「おい。なんで寝てるー?」
堀田は甘えた声で、先ほどの暴言を癒やすように、君野の鼻先を人差し指でちょんちょんと突き、つまんでみたりもする。
左腕を枕にしてこちらへ顔を向けて眠っている姿が、愛おしい。
「あーあ……これはもう、どうしようもないな……」
よだれの洪水。
堀田はポケットから、君野にもらったお気に入りのパンツ色のハンカチを取り出した。
あの歩行者天国のからくり時計以来、それはお守りのような存在になっている。
指先で布を確かめるように撫で、無意識に鼻元へ寄せた。
その時――
カラン。
「ん?」
ハンカチから何かが落ちた。
机の脚の近くに落ちたそれは、金属のような音を立てて転がる。
拾い上げるまで、一瞬何かわからなかった。
「……へそピ」
それは、へそピアスだった。
ハンカチを買ったあの日、時任先輩が買ってほしいと言ったもの。
そして、消える当日も身につけていたものだ。
堀田の喉仏が静かに上下する。
鼻がわさびを食べたようにツンとして、目頭が熱くなった。
「駄目だ……」
幸せだった頃に戻りたいなんて……そんな弱気なこと、思っちゃ駄目だ。
だって、これからも幸せは続くんだ。
俺が弱気なら、この運命は変えられない。
きっとあのギャルなら、今の俺の涙を「ギャハハ」と笑いながら、
『ヤダ~!泣き顔ダサ~い!』
なんて笑い飛ばしてくるだろう。
「時任先輩。君野を守ってやってください……。オレンジジュース用意しておくんで……」
堀田は君野のキーホルダーについている小さな輪を少し広げ、へそピアスが外れないように取り付けた。
「あれ?」
君野は、いつの間にか美術室の真ん中に立っていた。
今この教室にいるのは、自分だけ。
その奇妙な状況に考えを巡らせるが、ここへ自分で来た覚えがない。
「堀田くんに怒られちゃう……」
そうだ。
美術室へ行くなと言われた気がする。
出入口のドアに手をかけた。
「あれ……開かない」
何度引いても、ドアはびくともしない。
あれ?
引き戸じゃなくなった?
……建て付けが悪いのかな?
「どうしよ……」
困って頭を掻いていると、後ろに人の気配がした。
「わ!」
さっきまで何もなかった場所に、いつも夢の中で絵を描いているお爺さんが立っていた。
「まただ……」
神出鬼没のお爺さんだ。
人間ではないことも、もう察している。
ドアが開かない理由も、このお爺さんなのだとすぐにわかった。
やけに静かだ。
廊下の音も、風の音も、何も聞こえない。
それなのに、やっぱり怖くない。
爺さんは木箱に腰掛けたまま、その背中を見せている。
僕はその後ろ姿に、不思議と目を奪われた。
「おいで」
お爺さんはこちらを向き、筆を持つ手で優しく招いた。
その手は、ほんの少しだけ震えていた。
そっと近づく。
木箱から少し腰を浮かせ、君野にそこへ座るよう促す。
腰を下ろすと、お爺さん独特の匂いがした。
懐かしくて、温かくて、一瞬涙があふれそうになるような、不思議なざわめきが胸を満たす。
目の前には、いつの間にかイーゼルに立てかけられた、あの目のない天使の絵。
僕は後ろから右手を掴まれ、そのまま天使の目の部分へ押しつけられた。
何かを察し、君野は握っていた右手から人差し指だけを伸ばす。
そして、目のない天使の目の部分を、ゆっくりとなぞった。
「お爺さん、どうしてもこの絵を完成させたいの?」
「……」
何も答えてくれない。
それでも、不思議とこんな人だった気がしてしまう。
「……きいろ……」
「きいろくんが大事なの?でも、どうしてきいろくんじゃなくて僕なの?」
「……」
やはり何も答えてくれない。
「君の……で……目を……く……」
渋く、弱々しい声。
そこには強い未練だけが残っていた。
喉の奥が締めつけられるような悲しみが込み上げ、君野は思わず息を詰まらせる。
「君野!!!!!」
その瞬間、君野の意識が戻る。
気づくと堀田ときいろが、彼の体が浮く勢いで絵から引き剥がしていた。
あれ?
これは夢じゃない?
ようやく鼻が機能する。
独特なカビ臭さ。
……やっぱり美術室だ。
目の前には机に立てかけられた目のない天使。
僕はどうやら、ずっと1人で人差し指を使って、その目の部分をなぞり続けていたらしい。
「くそ……!!本当に……」
堀田が歯をむき出しにし、やるせなさを床へ吐き捨てる。
僕はそこでようやく、夢の中で呼ばれていた「きいろ」が、目の前のきいろくんのことだったのだと知った。
「きいろくん。お爺さん、何か言いたげだったよ」
「もう耳に入れるな」
きいろは短く言い切る。
君野は1度、絵と自分の指先を見比べた。
「……あのね」
2人が同時に君野を見る。
「僕、この天使に目を描こうと思うんだ」
その言葉に、美術室の空気が凍りついた。




