第46話「天然回帰」
翌朝。
あのギャルがいなくなった日常が、何事もなかったように始まっていた。
堀田は元カノの美咲に、もう一度しつこく聞いてみたが、眉間にシワを寄せられるだけだった。
「そんな女の子ばっかり聞いて、浮気はだめよ!!」
「そういうことじゃねえよ…!」
彼女はいつもの調子で、ゾロゾロと仲間たちを引き連れ、黄色い声を上げながら去っていく。
堀田は生気が抜かれたように、その背中を見つめていた。
もうずっと、生きた心地がしない。
あれから、からくり時計は何事もなかったかのように日常へ溶け込み、撤去の日まで黙々と動き続けている。
まだ俺たちが消えてしまうかもしれないというのに、平然と平和の象徴のように鐘を鳴らし、そこへ佇んでいる。
それが恐ろしくて、最近は耳を塞ぎながら駅前を通り抜けている。
「……はあ」
白黒は歩行者天国で絶叫したあと、あの爺さんから聞こえたことを全部、俺たちへ話してくれた。
息子を愛していると言ったというが……どう見ても愛しているのは、自分自身と君野だ。
「どうした?」
教室へ戻ると、隣の君野がキョロキョロとしていた。
いつも通り、俺たちの記憶が消えた朝を迎えている。
「え、う、うん。なんでもないよ」
「なんでも話してみろ。笑ったりしないから」
「……なんか、いつも幽霊みたいな女の子がいた気がしたんだけど。気配だけがなくて」
「……きっと、楽しくやってると思うぞ。好きな人とさ」
「え? 知ってる? わかるの?」
「あんな底抜けに明るいんだぞ? 楽しくやってないわけないだろ」
「……もう会えないの?」
「……」
堀田は、何も知らない子どものように聞いてくる様子に、曖昧に頷くしかなかった。
「本人も、元いた場所へ戻るだけって言ってたし……」
きっと、ロナウドと幸せにやってるさ…
1時間目の授業が始まり、静かに英語教師の声だけが教室へ響いた。
「おい……君野……!」
ようやく君野の異変に気づいた。
さっきからノートへ、ひたすら何かを一心不乱に描いている。
アルファベットでも書いているのかと思いきや、8の字を横にした「∞」を何度も書いていた。
声をかけようとした、その次の瞬間。
今度は、その2つの輪の中へ真っ黒な点をぐりぐりと塗り潰し始める。
右手は、その動きを延々と繰り返していた。
「君野!」
堀田は思わずその右手を遮るように掴み、自分の方へ引き寄せて抱きしめた。
君野は嫌がることもなく、ただじっとこちらを見つめている。
「やるな、そんなこと……頼むから……」
堀田は君野の右手を静かに握り、自分の太ももの上へ乗せた。
その神妙すぎる表情を見て、君野は途端に笑顔になる。
「……うん。わかったよ」
その人懐っこい笑顔に、堀田は何も言わず彼の頭をぽんぽんと撫でた。
胃の奥がキリキリと痛む。
何か打開策はないのか。
堀田は授業そっちのけで、考え続けていた。
その放課後のことだった。
「あ、堀田くん忘れてきた」
学校最寄りの駅前、君野はからくり時計の下に着いたところで、堀田を置いて帰ってきてしまったことに気づいた。
「うーん……戻ろうかな」
そう迷っていた時だった。
「うぃ〜す!」
日本酒のカップを片手に、ほろ酔いのおじさんがこちらへ歩いてきた。
茶色いボロボロの上着を羽織り、穴の空いた軍手を両手にはめている。
迷うことなく君野へ近づくと、なれなれしく肩を組んだ。
酒臭すぎる息が鼻へダイレクトに直撃する。
「よぉ〜元気でやってるかぁ! 天然ぼっちゃん!!」
「こんにちは!今日もお酒臭いですね!」
君野が悪気なく笑顔で答えると、おじさんは嬉しそうにガハハ!と笑いながら、肩を組んだまま彼を左右へ揺らした。
「おう!こんな風になったらいかんぞ!今から酒の耐性つけておくのが大事と思わんか?思うよなあ?」
「思わんです」
君野が首を横へ振ると、おじさんは持っていた日本酒のカップを口元へ近づける。
「一口飲んでみぃ!な!」
「僕、未成年なのでお酒は飲めません!」
君野が強く答えると、おじさんは何を思ったのか、日本酒のカップへ人差し指を突っ込み、それを差し出した。
「舌出してみぃ!ほい!」
薄汚れた指先が君野の唇へ触れようとした、その時だった。
「アンタァ!何しとるか!この子嫌がってるじゃないの!!」
「あ、ベビーカーのおばあちゃん!」
君野が振り向くと、今度は80代くらいの白髪を後ろで束ねた、ボロボロのベビーカーを押すおばあさんがやってきた。
ちなみに、どちらもこの街では有名な名物おじさんと名物おばあさんだ。
ベビーカーには子ども向け玩具の少女人形が、首だけ数体並べられている。
――ペコちゃん、お腹ぺこぺこ!
ガサついた機械音声が、ベビーカーから延々と流れ続ける。
その古ぼけた音声がリピートされているせいで、周囲には結界でも張られたように人が寄りつかない。
「おばあさんこんにちは!」
君野がぺこりと頭を下げると、おばあさんは入れ歯をふがふがと動かしながら、にこやかに笑った。
「キミね、今日はね、川魚の干物あるんよぉ。キンコちゃんとカンコちゃんと君野くんで食べるかい?」
「緑茶ハイパーティはどうだ? ギャハハハ!」
「キキキキキキ!!」
2人の奇妙な笑い声につられ、君野も一緒になって笑う。
そこへ3人目の男まで近づいてきた、その瞬間――
君野の手が勢いよく引かれた。
「うわっ!!」
そのまま誰かに担ぎ上げられ、名物おじさんたちがどんどん遠ざかっていく。
横では堀田くんが並走している。
……じゃあ、今僕を担いでるのは……?
駅から少し離れたファミレスへ入る。
担がれたまま柔らかい長ソファへ降ろされると、目の前には堀田くん、その隣には背の高い同級生が座っていた。
確か、名前は白黒きいろくん。
いかつくて怖いと思っていたけど……堀田くんと仲良し?
君野がマイペースに状況を整理していると、堀田のムスッとした顔が眼前まで迫ってきた。
「お前、なんで1人で帰った?」
「ごめん。考え事してて忘れちゃって」
「なんの?」
「なんの?そういえば僕、何考えてたんだろう……」
君野が首を傾げると、堀田は深いため息をつく。
だが次の瞬間には、テーブルのメニューを開き、パフェやデザートが並ぶページを君野へ向けた。
「好きなの食え。お前の金銭事情は知ってるから、気にすんな」
「え、いいの!? 2人は何食べるの?」
その言葉に、堀田ときいろは友達とは思えないほどぎこちなく、一瞬だけ目を合わせた。
「……コーヒー」
2人の返事はぴったり重なった。
「え? それだけ? 僕1人で食べるの?」
「いいんだよ。気にすんな」
「えー!一緒に食べようよ!じゃないと僕もカフェオレにする!」
君野が指差したのは、カフェオレにソフトクリームが乗ったフロート。
つまり、デザートに加えてフロートまで頼むつもりらしい。
「『じゃないと』ってなんだよ」
堀田は吹き出しそうになり、きいろの口元もわずかに緩んだ。
「わかった。じゃあ、でっかいの頼んで3人で食べるか」
「うん!それがいい!」
君野が満面の笑みで頷く。
堀田は店員を呼び、パフェとコーヒー、それにソフトクリーム付きのドリンクを注文した。
メニューを抱えたまま、季節限定パフェをキラキラした目で眺めている君野。
その姿を見て、堀田ときいろは束の間、張り詰めていた糸がほどけるように肩の力を抜いた。
君野を守り切る。
それが、あのからくり時計への反抗だった。
2人の認識は、それで固まっていた。
「ねえ堀田くん。このパンはセットなのかな。単品では頼めないのかな」
「え?ああ、パンは食事を頼まないとついてこないぞ」
「そっかあ」
君野は残念そうに肩を落とした。
「食べたかったのか?」
「だって、アイスをパンに挟んで食べたかったから」
君野はそう言って口を尖らせる。
そのぽわぽわした一言が、堀田の胸に溜まっていたモヤモヤを、扇風機で吹き飛ばすように軽くしてくれる。
こんな何気ない発言の一つひとつが、爺さんの手のひらから逸脱しているようで救いになる。
「わかった。俺と白黒でステーキ頼むから、お前はそのパン食え」
「え!いいの?やった!」
「俺も食うのか」
きいろが思わず呟く。
「お前、昼間なんも食ってなかっただろ。だからここで飯食えよ」
「えへへ、いっぱいきちゃうね!」
まるでパーティーでも始まるかのように、テーブルへ料理が並ぶ光景を想像して、君野の顔がふにゃっと緩む。
堀田は容赦なくステーキを2人前注文した。
すると、机へ突っ伏した君野が堀田の方へ顔を向け、甘えるように言う。
「ねえ堀田くん……お肉ちょっとちょうだい」
「ああ。それ込みででかいの頼んでる」
「え?僕のため?やった!堀田くん大好き!」
その一言だけで、堀田の口元はとろけた。
ニヤニヤが止まらない。
くそっ!可愛いなッッ!!!
とことん食えッ……!
君野は、やっぱりいつも通りだ。
抱えていた不安も恐れも、その笑顔一つで吹き飛んでいく。
こんな天然が、爺さんに作れるわけがない。
それは、目の前の白黒も同じことを思っているのだろう。
「君野」
きいろは素早く一切れの肉を切り分け、ふーふーと息を吹きかけて熱を逃がすと、フォークの先を君野へ向けた。
君野は嬉しそうに口を開け、お肉を頬張る。
「……あつうまぁ〜!」
まだ熱さに悶絶しながらも、今度はアイスを挟んだパンへかぶりついた。
「俺のも!食うよな?」
堀田も負けじと同じように肉を差し出す。
君野は満面の笑みのまま、交互に差し出される肉をぱくぱくと食べ続けた。
まるで、お腹いっぱいという概念がないかのように。
その様子を見て、堀田ときいろは顔を見合わせる。
さっきまで張り詰めていた空気が嘘みたいだった。
こんな時間が、ずっと続けばいい。
2人は同じことを思いながら、また君野へ肉を差し出した。




