第39話「戸惑い」
新しいゲーム機を買った、その日の夜のこと。
茜の話の流れで、生霊のアイちゃんの話を聞いた君野は、ベッドに寝そべり、少し厚くなった布団へ身を隠していた。
アイちゃんは80歳で、この窓を覗くらしい。
「君野くん、まだ怖い?」
少しやりすぎたと感じた茜は、ベッドで眠る君野の足元に腰を下ろし、足を伸ばしたまま見守っている。
まるで本物の人形のように壁にもたれかかる彼女へ、カーテンの隙間から月明かりが差し込んだ。
暗がりに陰影ができ、小麦色の肌が浮かび上がる。
君野は寝たまま、顔が毛布から出ないようにもぞもぞと体を動かした。
「子守唄してあげよっか?」
「え?」
君野が布団からちらりと茜を見る。
すると彼女は人差し指を立て、それを顔の横でワイパーのように揺らした。
「パーリパリパリパーリナイッ!こたつのみかんもたべちゃって~耳から果汁を吹き飛ばすヘイッ!」
「あはは!何その変な歌」
「一緒に歌う?」
「うん!」
「じゃあ私に続いてえ。……そのままお手玉しちゃってえ~」
「そのままお手玉しちゃってえ~」
「冬までこたつでパーティーナイッ!」
「冬までこたつでパーティーナイッ!」
「よくできましたあ~」
ギャル茜が手を叩いて笑う。
「でも、ずっとお手玉してるの?冬まで?」
「みかんはあ、夏から冬にかけても美味しいからあ、それくらいパーティーが楽しいって意味だよお」
「なるほどね!確かにそのイメージある!」
その後も、深夜の時間帯が許す範囲で他愛もない会話を続けていると、君野もだんだんとうとうとしてきた。
やがて寝息が聞こえ始め、茜はほっと胸を撫で下ろす。
笑い声が消えたあと、部屋は静寂に包まれた。
「このまま、何もないといいなあ~」
静かな夜。
茜もマットへぱたんと横になる。
すると、足を伸ばし、両手を放り出した君野が派手に寝返りを打ち、枕が茜の方へ転がり落ちた。
彼女は床へ落ちた枕へ一瞬だけ目を向ける。
すぐ前へ視線を戻した、その時だった。
「君野くん!」
らしくない悲鳴が部屋に響く。
さっきまでベッドで眠っていたはずの君野が、いつの間にか窓際へ立ち、窓ガラスへそっと唇を押し当てていた。
月明かりが、彼の横顔を青白く照らす。
静かな部屋に、彼の唇から乾いた音が小さく響いた気がした。
その表情は、わずかに安らいでいた。
ガラスには、うっすらと丸い曇りが広がる。
そこへ淡い唇の跡だけが残る。
窓の外には、何もいない。
……はずだった。
一瞬、人影のような濃淡が揺らいだ。
アイちゃんではない。
けれど、それは確かに、こちらを見ている"高さ"だった。
「君野くん……なにしてんの……?」
霊体であるはずの茜の背筋に、ぞわりと寒気が走る。
君野は目を閉じたまま、冷えたガラスへ額を寄せた。
ガラス越しの闇が、月明かりの中でわずかに歪む。
そして彼は、ゆっくりと両腕を広げた。
茜はその不気味な光景に、腰を抜かしたように動けない。
やがて雲が流れ、きれいな満月が再び部屋を照らした。
まるで月に狙い撃ちされているかのように、君野は無我夢中で両腕を広げるポーズを取り続ける。
「君野くん!もうねんねしよ?お願いっ!また一緒に楽しい歌を歌おうよ!」
「……うん……お爺ちゃんのために……頑張るよ……ちゃんとやる……」
君野はそう呟いた瞬間、ドサッとその場へ倒れ込んだ。
体の重りが外れたように、茜は慌てて彼のもとへ駆け寄る。
「きゃ!君野くん!!しっかり!」
その口元を見ると、すやすやと寝息を立てている。
霊体の茜には、肌へ触れても彼の温もりを感じることはできない。
「お爺ちゃん!君野くんはまだまだこれから身長も大きくなって、イケメンのポテンシャルを上げていくの!だから連れて行こうとしないで!」
彼女が叫んでも、もうそこには何の気配もない。
夜の静けさも、鈴虫の声も、何事もなかったように続いている。
それがひどく冷たく感じられ、胸が締めつけられた。
倒れた君野をベッドへ戻すこともできず、茜はただ彼のそばに寄り添い続けた。
翌日。
「そうか……ついにそこまで……」
朝の教室。
自分の席へ座る堀田は、茜から昨夜の君野の様子を深刻な面持ちで聞いていた。
君野は寝不足のせいか、登校して早々、自分の席ですやすやと眠っている。
堀田はその後頭部を、わしゃっと手のひらで揉み込んだ。
「どうしたらいい……?」
その手は、後頭部へ置いたまま動かない。
触れられるのに、今はなんでこんなにも遠いんだ。
「見てられないの。昨日の君野くん、すごくつらそうで……」
底抜けに明るい茜が見たこともないほど目を潤ませる。
その表情が歪むのを見て、堀田の胸も痛んだ。
「サボってんのか?」
体育の時間。
バドミントンの最中、堀田は体育館の端、ピアノの後ろへ隠れて壁にもたれ、足を伸ばしてサボっているきいろへ声をかけた。
きいろはやる気のない虚ろな目を前へ向けたまま、うんともすんとも言わない。
堀田はさりげなくその隣へ腰を下ろし、同じように壁へ背中を預けて足を伸ばした。
2人はすぐ目の前のコートで、一生懸命シャトルを追いかける君野を見守る。
すぐ隣の開いた両扉から、そよ風が流れ込む。
シャトルを打ち合う音と、キュッキュッという体育館特有のシューズの音だけが静かに響いていた。
堀田は、その何とも言えない空気の中で喉仏を動かし、口を開いた。
「なあ……なんで2番でいいなんて言った」
「……」
「お前は1番に君野を愛していたんじゃないのかよ。だから、グルーミングを解こうと必死だったんだろ?」
「何が言いたい」
「昨日も爺さんにちょっかい出されてたみたいだ。君野がつらそうにポーズを取っていたって……。お前、それを山小屋で見てたんじゃないのか?」
「だから何だ」
「お前しか助けられないんだ!頼むから教えてくれ!どうやったら、あの絵の呪縛から君野が解かれるのか。俺、何でもするから!」
感情があふれ、眉を下げる堀田とは対照的に、きいろは力の抜けたままだった。
目だけが稼働する人形のように、静かに瞬きを繰り返す。
「諦めるなよ!お前がそんな態度なら、君野は――」
「……俺は優しいんだよな」
「……あ?」
堀田は、その言葉に拍子抜けした。
優しい……。
たしか、以前もそんなことを言っていた気がする。
「今、それ聞くか?」
「どう優しい」
「……爺さんのグルーミングを解こうと、一途に動いていたところ。それを俺たちには言わず、悪者に見られても構わないって覚悟してたところ」
「どこがだ」
「自己犠牲なところ。俺にだってそうだろ。『お前には関係ない』って言ってたけど、本当は巻き込みたくなかったんだって伝わった」
「……ふん」
「なあ、君野を一緒に助けてくれるよな?」
「……俺は、今も2番でいい」
「俺の話聞けよ!」
「聞いてる」
きいろはそれだけ言い残すと、体育の終了を告げるホイッスルが鳴るのを聞き、何事もなかったように集合した生徒たちの輪へ混ざっていった。
「……はあ」
堀田は口を半開きにしたまま、その場に取り残される。
結局、きいろの言葉の意味は飲み込めない。
胸に残った歯痒さだけが、さらに大きくなっていった。




