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第38話「∞」


 あの文化祭以来、美術室へ行かなくても、君野(きみの)は鏡や窓の中に目のない天使がいると言い出した。


 爺さんの絵を見つけてキスをすれば、それだけで俺と白黒(しろくろ)の記憶は消える。


 何度説明しても、君野は爺さんを悪い人だとは思わない。


 いや、思えないのかもしれない。


 爺さんの描いた物語が、毒のように君野の中へ浸透していくのを感じた。


 10月。


 すっかり秋も深まった休日、堀田は君野と買い物を終え、彼の家へ向かっていた。


 玄関先で新型ゲーム機を買いに行く約束をしていたと伝えると、君野はすぐに食いついた。


 同じ服装でペアルックだと言っても、手元の大きな袋に夢中で、まるで興味を示さない。


 またリセットされた。


 静かに悔しさが込み上げる。


「……なあ君野。これ知ってるか?」


 堀田は、行列に並んでいる間に撮ったポスターの画像を見せた。


「なにこれ?」


「もうすぐ学校近くの商店街で歩行者天国がある。その時、撤去前のからくり時計を全部動かすらしい」


「ええ~! 行きたい!」


「だろ? 一緒に行こうな」


「うん!」


 ……もう何回、この約束をしただろう。


「君野くんが好きな焼きそばもあるかなあ? 食べ比べしよ~」


 少し後ろを歩く茜が、子どものように跳ねる。


 最近では、君野も彼女の姿を認識できるようになっていた。


「時任さん、霊体なのに食べられるの?」


「やだあ! 文化祭で一緒に焼きそば食べたでしょお?」


「そうだったっけ。でも食べられるなら、一緒に楽しめるね」


 3人は君野の部屋へ入り、堀田はリュックから(あかね)人形を取り出してベッドの縁へ座らせた。


 髪を直してほしいと言われ、手ぐしで整えてやる。


 その横で、君野はゲーム機を無邪気に開封していた。


「じゃじゃーん!」


 優勝トロフィーでも掲げるように、本体を両手で持ち上げる。


 3時間並んだ苦労も、その笑顔を見れば報われた。


「見て堀田くん! かっこいい!」


「おお、いいな」


「ずっと一緒だよ~!」


 君野はゲーム機に何度もキスをして、嬉しそうに足をばたつかせる。


 その姿に、堀田の胸の奥で嫉妬が燃えた。


 新型ゲーム機なんて、どうでもいい。


「君野~」


 堀田は背後から抱きつき、腹へ腕を回した。


「ねえ、これすごくない?」


「別にすごくねえ」


 俺は生身の人間だぞ。


 少しは俺も大事にしろ。


「前より色もかっこよくなったんだよ! 一緒にやろ!」


 君野の肩へ顎を乗せたまま、堀田は呟く。


「俺が勝ったら、お前にキスしていいよな」


「え? どういう意味で?」


「嫌か?」


「嫌じゃないけど……」


「罰ゲームじゃなくて、ご褒美だ」


「堀田くん、顔真っ赤」


「言うな」


「あはは! ドンマイ!」


 茜が他人事のように笑った。


 2人は、8の字のコースを3周するカーレースを始めた。


「なんでイカ投げるの! 優しくするって言ったじゃん!」


「勝負だから仕方ねえだろ」


 どうしても勝ってキスしたい。


 堀田は1度も手加減せずにゴールした。


「ずるい! 僕――」


 文句を言い終える前に、その唇へキスをする。


「はっ……!」


 茜の興奮した声は無視した。


 君野は顔を真っ赤にして黙り込み、確かめるように自分の唇をなぞる。


「……次、どのコースやる」


 平静を装いながら、堀田は唾を飲んだ。


 刻みつけたい。


 白黒にも負けたくない。


「僕も本気でやる。今度は僕が勝ってキスする!」


「あのな……」


 それは俺にとって巨大なターボだ。


「また同じステージ選んじゃった」


「いいだろ。ハンデいるか?」


「いらない! 10秒待ってから出発して!」


 君野の負けず嫌いな姿に、堀田は口元を緩めた。


 レースが始まった。


 1周目を終え、堀田は6位。君野は1位を独走していた。


「あれ?」


 画面の端を、君野のキャラクターが反対方向へ通り過ぎる。


 逆走していた。


「君野……?」


 君野は無我夢中で画面を見つめ、コントローラーを操作し続けている。


「君野!!」


 堀田はコントローラーを床へ放り投げ、ベッドにいる君野を横倒しにした。


「もういい! やめろ! どこにも連れて行くな!」


「痛いよ堀田くん……そんな妨害ひどいよ」


 君野は普段と変わらない顔をしていた。


「なんで逆走してたんだ?」


「近道できるかと思っただけ」


「そ、そうなのか……」


 堀田は君野の表情をしばらく見つめる。


 いつもの君野だ。


 少なくとも今は、どこかへ連れて行かれそうな様子はない。


「心配しすぎだよ。休憩してお菓子食べよう?」


「……そうだな」


 俺が過剰になっているだけかもしれない。


 君野は気に入った菓子を食べ始め、すぐに機嫌を直した。


「トイレ借りるぞ」


「うん。いってらっしゃい」


 堀田が1階で手を洗っていると、茜の絶叫が響いた。


『君野くん!! だめだよ!!』


「なんだ!?」


 急いで2階へ戻る。


 ドアを開けた瞬間、全身に鳥肌が立った。


 君野がベッドの上へ立ち、ボールペンで白い壁を何度もなぞっている。


「君野! 何してるんだ!」


 堀田は後ろから羽交い締めにした。


「離して!! ここ、つながってるから……!」


 壁へ書かれていたのは、大きな「∞」。


 さっきまで走っていた8の字コースと同じ形だった。


「なんで……」


 君野は人差し指を舌で濡らし、「∞」の交差部分を無理やり消そうとする。


「やめろ!」


 堀田はボールペンを奪い、そのまま君野をベッドへ押し倒す。


 そして身体全体で包み込んだ。


 あの絵のせいだ。


「もうやめてくれ……俺から君野を奪わないでくれ……」


「苦しいよ。離れて……」


「嫌だ! どこにも行かないって言うまで離さない!」


 君野は困ったような顔で堀田を見つめた。


 もう正気へ戻ったのか。


 それとも――。


 張り詰めた空気を、茜の甲高い声が破った。


「きゃ~! 次は茜ちゃん杯するよ~!」


 2人が同時に振り返る。


「勝ったらあ、堀田くんの家にいるアイちゃんが、大事にしてるものを3つ教えてあげる!」


「アイちゃん? 誰だよ!」


「80歳のおばあちゃんの生霊!」


「俺の家に生霊がいるのか!?」


 堀田のひっくり返った声に、茜は楽しそうに笑った。


「悪霊じゃないから大丈夫! ほら、続きをやろ~!」


 あまりに場違いな明るさに、張り詰めていた空気が少しだけほどける。


 堀田と君野は顔を見合わせ、小さく息をついた。


 そして、ぎこちないままゲームを再開した。





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