第37話「まわる」
「あ~!お箸!」
君野は再び焼きそばの露店へ戻っていく。
家政婦服と三角巾が、その慌てぶりを余計に目立たせていた。
小さな段差につまずきそうになった君野を見て、堀田ときいろは同時に体を乗り出しかける。
しかし、互いに目が合うと、何事もなかったように静かに椅子の背もたれへ身を預けた。
きいろは4つの学校机を繋げたテーブルに肘をつき、走っていく君野の後ろ姿を見つめる。
「食べよっ!」
戻ってきた君野は、堀田ときいろへ焼きそばと割り箸を渡した。
さらに4人目の席にも、焼きそばと割り箸を並べて置く。
「君野、焼きそば代出す」
「食べるのが先!いただきます!」
君野は勢いよく手を合わせ、紅生姜の載った熱々の焼きそばを頬張った。
その味に、顔をくしゃっと綻ばせる。
「あ~!やっぱり鉄板で作った焼きそばって美味しい!」
「いっぱいマヨピロしたあい!」
ギャル茜が、長い爪をイソギンチャクのようにうねうねと動かす。
「マヨピロ?マヨネーズかけたいの?」
君野は口をもぐもぐさせながら、茜の声が聞こえる方へ顔を向けた。
「そうそう!マヨネーズって何にでも合うでしょ? あと~堀田くん、あたしい、焼きそばはあ、あま~い炭酸で流し込むタイプなのお!」
「……買ってこいってことか?」
「君野くんも焼きそば運んで、いっぱい汗かいたよねえ~!いってらっしゃーい!レモンシュガールね! そこの売店で売ってるよ!」
「……仕方ねえな。君野もそれでいいか?」
「え? いいの!ありがとう!」
「……お前も飲むだろ、レモンシュガール」
堀田はぶっきらぼうに、きいろへも尋ねた。
「きいろくん、僕と同じの飲むよね!」
君野は、うんともすんとも言わないきいろの太ももへ手を置く。
堀田は返事を待たず、その場を立ち上がった。
まだまだ盛り上がりを見せる人混みをかき分け、フードコートを出る。
向かった先は、生徒たちが手作りした飲み物を売っている露店だった。
「よかった。まだあった」
堀田が注文しようとした、その時――。
「きゃーーーー!!!!」
「水!水!!」
3軒先の露店から、生徒たちの悲鳴が上がった。
「うわっ!?」
堀田もつられるように声を上げる。
火柱が上がり、そのまま露店の屋根へ燃え移った。
熱気が一気に押し寄せる。
エプロンと三角巾を身につけた生徒たちは一瞬パニックに陥ったが、幸い誰かの服へ火が燃え移ることはなかった。
消火に駆けつけた生徒たちの動きが止まり、辺りが一瞬だけ静まり返る。
「あぶな……」
堀田が呆然と口を開けていると、背後のフードコートから椅子のひっくり返る音が響いた。
直後、茜の甲高い声が耳へ飛び込んでくる。
「大変!大変だよお!!」
「うるさっ……!」
堀田は苦悶の表情で耳を押さえた。
次に顔を上げた時には、何か言いたげな茜が目の前へ立ちはだかっていた。
「大変!さっき火が上がったでしょ?君野くんがパニックになって、その場からあ、いなくなっちゃったのお!!」
「どっちに!?」
「うんと……あっち!きいろくんが追いかけていった!」
茜は、火の上がった露店とは反対の方角を指差した。
「わざわざ俺に伝えるために残ってくれてたんですね!」
「そーよお!いい子でしょ、私ぃ!」
堀田はすぐさま踵を返し、中央廊下を渡ったという2人の後を追った。
その先にあるのは――やはりというべきか、美術室だった。
堀田は中央廊下の先にある美術室へ駆け込む。
そこは今、文化祭の展示会場として使われていた。
教室へ入ると、中央で崩れ落ちるように座り込んだ君野がいた。
目のない天使の絵を胸に抱きしめ、顔をくしゃくしゃにして泣いている。
きいろはすでに君野へ追いついており、その背中を後ろから包み込むように抱きしめていた。
堀田はその光景に見入ったまま、口を開けて立ち尽くす。
「お爺ちゃん、ごめんなさい……ごめんなさい……助けられなくて、ごめんなさい……」
「君野……」
おかしい。
さっきまで、あんなに無邪気に笑っていたのに……。
目の前が揺れ、立ちくらみがする。
胸の奥が、重く沈んでいった。
「僕、天使になるの……だから、ずっとここにいる……お爺ちゃんのために……」
きいろは君野の三角巾を外し、後頭部へ優しく手を置いた。
以前、君野へ髪の触れ方を教えた時のように、指先が頭皮をゆっくりとなぞる。
だが、今の君野には、その感覚さえ届いていないようだった。
きいろは諦めたように指を止めると、今度は髪をくしゃくしゃと優しく撫で回した。
「……チッ」
広い背中の向こうから、静かな舌打ちが聞こえる。
「……もう、遅いかもしれないな」
きいろは焦点の合わない目で、君野の後頭部を撫でながら呟いた。
堀田は一気に乾いた喉を、どうにか動かす。
「どういうことだ……?」
「どんなに上書きしても、塗り替えられる」
「なんでだよ……トラウマを植え付けられた挙句、一緒に地獄へ落ちろっていうのかよ……!!」
食いしばった堀田の声が震える。
怒りと恐怖で、手足まで小刻みに震えていた。
「ショックが強すぎたんだ。ジジイの死が」
「っ……」
堀田の全身が、かっと熱くなる。
抑えきれない感情が噴き出すように、両目から涙が1粒、2粒と零れ落ちた。
「……お前の爺さんも、時任茜も……なんなんだよ……」
「……もういない。準備が整ったみたいにな」
「……くそっっ!!!」
堀田は君野の腕の中から、目のない天使の絵を引き離そうとした。
「君野、駄目だ!!!このままじゃ、あのからくり時計の針がまた動いちまう!」
「だめ!!!!やめて!!!!」
きいろの腕の中で君野が激しく暴れる。
悲痛な金切り声を上げながら、目のない天使を奪われまいと、凄まじい力でキャンバスを引き戻した。
「まだ終わってない……まだ描けてない……」
いつもの君野からは想像もできないほど取り乱した姿に、堀田の胸が締めつけられる。
「……俺が見えるか」
きいろは、絵へしがみつく君野を宥めるように抱き直し、再び自分の胸へ収めた。
「うううう……ポーズを取らないと……正しくいないと……でも、体が痛くて……でも……でも……絵を完成させないと、お爺ちゃんは困っちゃうって……」
「もう、そんなことしなくていい。俺が全部引き受ける」
「うう……っ……やだ、でも……離れたく、ない……」
「……俺がお前を守る。だから、もう他は見るな」
ぽつりと落ちたきいろの声は、いつになく低く、優しかった。
君野の指から、少しずつ力が抜けていく。
絵を掴んでいた手が緩むと、きいろは君野を抱き寄せ、その体を自分の胸の中へ深くしまい込んだ。
「くそっ……もう二度と出てくるな!!」
前へ倒れたキャンバスへ、堀田は近くにあった布切れを持ってきて何重にも巻き付けた。
さらに奥の倉庫にあった備品の麻縄を、その上から力いっぱいぐるぐると縛り上げる。
「今は、これで充分だ……」
堀田はキャンバスを抱え上げると、倉庫の一番奥にある高い棚の上へ、君野の手が届かないよう隠すように置いた。
「……ねえねえ!さっき聞いたんだけどお……」
すると、美術室の扉付近にいた茜が、君野をあやす2人へ声をかけた。
「さっきい、お偉いさんがあ、この学校の近くの商店街で行う歩行者天国が2週間後にあるって聞いてえ。その時に、からくり時計が見納めになるからあ、全部鳴らしてみようかって言ってたよお」
「本当か!?……じゃあ、この先なにが起こるか……わかるのかもしれないな」
「うん!!」
茜は元気よく頷く。
「……それすらも、爺さんのレールの上かもな」
きいろが小さく呟く。
その言葉に、堀田と茜の表情からも笑みが消え、再び重い緊張が美術室を包み込んだ。
止めたい。
壊したい。
あの絵を。
あの呪いを。
君野は眠るように、きいろの胸へ額を預けている。
それでも――
その右手だけは、最後まで止まらなかった。




