第30話「いたはずのあの人」
「はあ……はあ……!!」
堀田は君野の手を引っ張り、駅を飛び出した。
駅前のからくり時計の前まで来ると、そのまま君野を強く抱きしめる。
「どうしたの?」
「今日は……どこにも行かないでくれ……」
「うん」
「あと、さっきいただろ! 目つきの悪い男! あいつ、お前のストーカーだから、来たら逃げろ! わかったな!」
「え? 僕にストーカーなんているの?」
「いる! あいつは特にタチが悪い!!」
堀田はそのまま君野の腕を引き、学校へ向かった。
「白黒!」
学校へ到着して早々、堀田は下駄箱へ入ってきたきいろを呼び止めた。
振り返った彼の前へ立つと、2,000円を差し出して頭を下げる。
「悪い。コーヒーをこぼして。これ、クリーニング代にしてくれ」
しかし、きいろは無視して教室へ向かおうとする。
堀田はムッとして、そのまま無理やりポケットへ押し込もうとした。
だが、きいろは持っていたスクールバッグを振り向きざまに振るった。
バッグが堀田の腕を弾き、体勢を崩した堀田は尻餅をつく。
「いって!!! 謝ってるだろ!」
「いらねえよ」
「許さないってか!?そんなことでマウントでも取るつもりか?」
「お前と絡んでる時間が無駄」
「なにを!?」
堀田は、きいろが入っていった1年2組の教室へ慌てて戻る。
意地でも金を受け取らないきいろにしびれを切らし、結局2,000円を自分のポケットへ突っ込んだ。
「今度はちゃんと封筒に入れて持ってきてやる……!」
埒が明かず右を見ると、窓際の自分の席で君野がぼんやりと頬杖をつきながら外を眺めていた。
堀田はすぐに駆け寄る。
「君野!!白黒きいろが来たから気をつけろよ……」
「僕を守ってくれる?」
「当たり前だ!だから今日1日、俺から離れちゃ駄目だからな!」
「うん」
堀田は自分の席へ座ると、君野の手をぎゅっと握った。
「……時任茜さんは?いますか?」
その朝、君野は1人、ふらりと美術部へ足を向けた。
部室では何人もの部員が、コンテストへ出す絵を忙しそうに描いている。
「どうしました?」
髪を1つに結び、センター分けにした、いかにも真面目そうな部長が対応した。
もはや、それだけで違和感を覚える。
「時任茜さん、来てないですか?」
「トキトウさん……?どんな人ですか?ここの部員にはそんな名前の人はいません」
「え?!」
驚く間もなく、彼女は眼鏡を人差し指で押し上げながら矢継ぎ早に言った。
「夏休み、それと始業式の後、あなたがこの部室へ来て何かしていたと先生から聞きました。許可なく部員の絵を漁るのはどうかと思います」
「僕はそんなつもりじゃ……」
「授業で使う時以外、金輪際来ないでください。迷惑です」
あまりにもはっきりした拒絶だった。
「あ……あの……」
それでも諦めたくない。
きっと、この機会を逃したらもうここへ来られなくなる。
だが、言葉が出てこない。
涙を浮かべたまま立ち尽くしていると、不意に震える肩へ誰かの手が触れた。
「アンタにそんなこと言われる筋合いはない。確かにここは部室だが、それ以前に公共の場だ」
白黒きいろだった。
一瞬身を強張らせたものの、肩へ添えられた手の優しさと、その言葉の力強さに救われた気持ちになる。
「っ……」
部長は何も言い返せず、不機嫌そうなままキャンバスの前へ戻っていった。
「君野」
きいろに腕を引かれた君野は、美術部から少し離れた誰も使っていない空き教室へ連れて行かれた。
きいろは何も言わず、悔し涙を目に浮かべる君野の涙を親指でそっと拭う。
その優しい手つきに、途端に涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
喉をしゃくり上げながら、君野は震える唇を動かす。
「……し、白黒くんは……」
「きいろくんって呼べ」
「うん……きいろくんは、時任茜さん知ってる……?」
「絵描きの女だろ」
「よかった……!だよね。僕、間違ってないよね。あの部長さん、僕のこと気に食わなくて嘘ついているのかな……」
「あいつらは起きてることに従ってるだけだ」
「どういうこと?」
「今起こってることが真実だってことだ。現に、お前はまた俺を覚えてない」
「……え?」
「混乱しなくていい。お前はそのままでいい」
「……」
その言葉で、朝から抱えていた「何もわからない」という漠然とした不安が、少しだけ和らいだ気がした。
涙を拭っていた手が、そっと前髪へ伸びる。
堀田くんは、もしかして彼のことを勘違いしているのかもしれない……。
「きいろくん、本当は優しいんだね。みんなきっと勘違いしてる」
「してない」
「どうして?」
「優しくない。本当の俺を知ってるのは、お前だけ」
まっすぐな切れ長の瞳が、君野の心臓を強く引き寄せる。
大きく温かな手が、頬から髪へと優しく撫でていく。
「……忘れちゃって、ごめんね」
「関係ない。お前が何を忘れようが、俺にはどうでもいい」
きいろはそのまま教室を出て行こうとした。
その背中へ、君野は思わず「まだ一緒にいたい」と右手を伸ばしかける。
すると、きいろは背中を向けたまま立ち止まった。
「昨日、時任茜にわざわざ会いに来たのか」
「ううん。時任さんに会いに来たわけじゃないよ」
その言葉を聞いた瞬間、きいろは目をわずかに見開いた。
振り返ると、そのまま君野を強く抱き寄せる。
「……行くな」
「目のない天使に会いに向かったんだ。衝動が抑えられなくて。さっきも、会いたくなって……」
その瞬間、きいろの鋭い目がさらに細くなった。
そして美術部の方へ向きかけた君野の顎を持ち、強引に自分の方へ向ける。
「言っただろ。本当の俺を知ってるのは、お前だけだ」
「それって……」
その問いを最後まで言わせることなく、きいろは唇を重ねた。
ほんの一瞬。
けれど、逃げ道を塞ぐには十分な距離だった。
君野の背中が、教室の冷たい壁へ触れる。
肩へ置かれた手に力は入っていない。
それでも、身体は動かなかった。
拒もうと思えば拒めたはずなのに、言うことをきかない。
唇が離れたあとも、きいろは至近距離のまま視線を逸らさない。
その真っ直ぐな眼差しが、君野の心を深く射抜いた。
「いいか。あの天使に近づくな」
低い声だった。
優しさと命令が入り混じった、不思議な響きだった。
「僕たちって、どういう関係なの?」
「……名前なんかない。だが、この関係は天使由来でもなんでもない。それだけは間違えるな」
顎を軽く持ち上げられる。
「う、うん……」
強引なのに、不思議と怖くない。
以前も、こうだった気がする。
その指先が、今度は頬を軽くつまんだ。
彼にもまた、あの絵と同じような不思議な感覚が全身を支配していく。
「また、話してもいい?」
「好きにしろ」
きいろは鼻で笑うと、そのまま背を向けた。
残された君野は、唇へそっと指を当てたまま立ち尽くす。
胸の奥のざわめきだけが、静かに残り続けていた。
教室
遅い。
遅すぎる。
嫌な予感が離れない。
堀田は君野が戻ってこないことに焦りながら、手紙を書いていた。
「なんて書けばいい……」
2人とも君野に忘れられている。
やはり時任茜と、あの絵描きの爺さんが原因だ。
くだらない争いをしている間に、君野がどこかへ連れて行かれてしまうんじゃないか――。
そんな、取り返しのつかない予感がした。
「和解……じゃない。一時休戦……でもない。くそ、なんて書きゃいいんだ……」
とにかく今は、君野を守ることが最優先だ。
堀田は破ったメモ用紙にペンを走らせる。
そして結局、
【昼休み、美術室で待つ!!】
それだけを書き、簡単に折って、すぐ目につくよう彼の机へ置いた。
「よし……」
堀田は小さくガッツポーズをすると、戻ってくるのが遅い君野を探しに教室を飛び出した。




