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第24話「チュウ告」



 美術室に、君野(きみの)の制服を取りに戻ってきたきいろ。


 (あかね)は背中を向けたまま、いつも通り静かに筆を動かしていた。


「アンタ、完成させる気ないだろ」


「……」


 その言葉にも、彼女は振り向かない。


 返事をする気配すらない。


 その態度が、きいろの神経を逆撫でした。


 制服を握る手に、力が入る。


「その女の体に入ってまで、愛する君野とスクール生活を楽しみたかっただけか」


 挑発するように言い放つ。


 その声に、茜はようやく振り返った。


 一度消えた口角が、ゆっくりと持ち上がる。


「私の人生は決まっている。ただ、その道しるべを今は辿っているだけ」


「くたばったくせに」


「そう。くたばったくせに」


 絵を描く時の腰の角度。


 人の視線を逃がさない重たい存在感。


 その立ち姿を見た瞬間、きいろの脳裏に、ルネの匂い、温もり、しわだらけの肌の感触が鮮明によみがえった。


「アンタ……何者だ」


 その問いに、少女は唇だけを静かに動かす。


「!」


 きいろには、その言葉の意味が分かった。


 だが、瞬きをした次の瞬間には、そこにいるのは何も知らない普通の少女だった。


「俺を1人置いて行ったくせに……随分軽い言葉だな」


 そう吐き捨てると、制服を肩に掛け、教室をあとにした。




「寒い……」


 一方、美術室近くの誰もいない教室。


 白布に包まれた君野が、ぽつりと呟いた。


 まるでてるてる坊主のように頭まですっぽり白布を被り、制服を取りに行ったきいろを待っている。


 水でびしょ濡れになった体はすっかり冷え切り、教室の隅で小さくうずくまっていた。


 さっきのは……激しいキスだった。


 今も、その感触ばかりが頭を支配している。


 山小屋の記憶も蘇った。


 それは、自分にとって大きな収穫だった。


「はぁぁぁ……」


 絞り出すような吐息が漏れる。


 白布1枚に包まれた体は、焼けそうなほど熱を持っていた。


 きいろに押し倒され、口の中へ流れ込んできた泥水。


 全身へまとわりつく泥。


 押さえ込まれた手。


 絡みついた指先。


 その感触まで、鮮明によみがえってくる。


「……っ」


 いろいろな感情に押し潰され、君野は短く息を漏らした。


 ガラッ!


 その時、教室のドアが開く。


 君野は制服を受け取ると、白布の中で手早く着替え始めた。


 着替え終わる頃、壁にもたれていたきいろが近づいてくる。


「……じっとしてろ」


 指先がシャツの襟元へすっと差し込まれる。


 低く囁く声に、君野の喉が小さく鳴った。


 目の前には男らしい喉仏。


 耳にかかる笹の葉のような黒髪。


 ……近い。


 さっきの火事場での出来事も重なり、胸の中がいろいろな感情でいっぱいになる。


 乱れた襟元を、きいろは驚くほど優しい手つきで整えていく。


「ありがと……」


 そう礼を言った瞬間だった。


 整えられた胸元を、そのまま強く引き寄せられる。


 抵抗する間もなく、唇が重なった。


「……もう危険なことはするな」


 それだけ告げると、きいろは1人で教室を出ていった。


 ようやく緊張の糸が切れたようだった。


 君野は美術室へ戻ることなく、そのまま静かに校舎を出る。


 まだ唇へ指を添えたまま、1人、青空の下を歩いていった。


「あれ?」


 駅で電車を待っていると、ふと気づいた。


 そういえば、ギャルの時任さん人形がいない。


 いつからいなくなったんだろう。


「まさか、堀田(ほった)くんの方かな?」


 失くしたというより、どこかへ出かけたような感覚が胸をよぎる。


「堀田くんについていけば、旅行ができるとでも思ったのかな」


 そう呟きながら、久しぶりにスマホを取り出した。


「あ、堀田くんからだ」


 今、高速道路を走っているという彼から、メッセージが届いていた。


 



その頃――。


 堀田は母親の車の助手席に乗り、田舎から地元へ戻ってきていた。


 祖父母に顔を見せ、思い切り甘えるという使命も、無事に果たしてきた。


 君野とはこまめに連絡を取り合っていたものの、帰省している間も気が気ではなかった。


 そんな中、夏休みに入ってから時任先輩の美術室というアトリエへ通っていると、後になって君野から聞かされた。


「……大丈夫か?」


 眉をひそめた、その時だった。


 車が長い高速道路のトンネルへ入る。


「ひっ!!?」


 思わず情けない声が漏れた。


「どうしたの?」


 退屈そうにあくびをしていた母親が、不思議そうに振り向く。


「い、いや……」


 ふとシートベルトの腰辺りへ手をやる。


 あの、ひやりとした感触。


 ……いる。


 腰の辺りが、冷たい。


 見なくても分かった。


 最初に見つけたのは、小学生の集団と庭にプールを広げて遊んでいた時だった。


 俺の水着の腰のループへ、あいつは引っ掛かっていた。


 みんなに指摘され、


「ヘンタイ!」


 そう笑われた。


 あまりにも腹が立ったので、その日の帰りにホラー映画を1本借りた。


 人形が人間の脳を侵食し、少しずつ精神を追い詰めていくサイコスリラーだった。


 それ以来、何気なく頭に思い浮かべた暗闇のどこかには、映画の中の不気味な人形が必ずこちらを見ている。


 俺は「あの人形も同じだ」と子どもたちへ吹き込んだ。


 するとガキどもは一斉に悲鳴を上げ、それ以来、誰も俺をからかわなくなった。


 ……だが、その代償は俺にも大きかった。


 映画が怖すぎて、その夜は親戚の子どもを抱き枕代わりにして眠ってしまったのだから。


 堀田は母親にも気づかれないよう、汗ばんだ手で腰についた茜人形をそっと握り、静かに深呼吸した。


 ……気のせいだ。


 そう自分に言い聞かせても、あの冷たさだけは消えなかった。


 トンネルを抜ける。


 窓の外に夕焼けが広がり、オレンジ色の光が車内へ差し込む。


 それでも腰の辺りだけは、まるで氷を当てられているように冷たい。


「……早く帰るぞ」


 誰に言うでもなく、小さく呟いた。


 茜人形は、何も答えない。


 だが、その存在だけは確かにそこにあった。


 堀田は窓の外へ目を向ける。


 もうすぐ、この長い帰省も終わる。


 君野のそばへ戻れる。


 それだけが、今は救いだった。




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