第23話「火事場の熱いキス」
8月の初め、夏休み。
美術室。
君野は白い制服のシャツ姿で、美術室にいた。
夕方とはいえ、室内は蒸し暑い。
茜はキャンバスの前で、モデルの君野を描いていた。
ふと振り返り、木箱に腰掛けたまま、筆をプラスチックの水入れにつけながら声をかける。
「退屈じゃない?」
「いいえ……堀田くんくらいしか遊べる友達がいないし、ここ、落ち着くんです」
「彼、夏休みは帰省しているって言ってたわね」
返事を聞きながらも、茜の眉間には皺が寄ったままだ。
目の前の君野を何度も見つめ、ため息をつく。
色彩を考えながら描いている絵に、どうしても納得がいかない様子だった。
「少し休憩しましょう」
一息つくと、水筒の水をひと口飲む。
「どうしてまた来たの? きいろくんにあんなことされたのに」
「なんで……でしょう」
いくら退屈だからといって、夏休みにわざわざ学校へ来るなんて、自分でもどうかしている。
それでも、彼女は今日も絵を描いているんじゃないか。
そんな期待だけで、ここまで来てしまった。
「……戻りたいのかもしれないわね」
胸のざわめきを言い当てるように、茜は静かに答えた。
その傍らには、目のない天使の絵が立て掛けられている。
「僕が今こうして立ってるのも、そういうことなのかもしれません」
君野は思わず窓際へ移動した。
換気の悪い美術室は、熱気と湿気がこもり、倒れそうになるほど蒸している。
窓枠を掴んで身を乗り出すと、ようやく涼しい風が頬と火照った首筋を撫でた。
茜もタオルで汗を拭きながら、その後ろ姿を見つめる。
「天使の絵は、もう怖くないの?」
「はい。慣れました。それに過去の記憶がないから、一連のことも、まるでどこかの映画を見ているみたいで……怖さより興味が勝つんです」
「なるほどね……。じゃあルネさんも怖くないんだ」
「からくり時計を作った人にモデルにされたってことが、むしろすごいなって思うくらいです」
そう言うと、茜は柔らかく微笑んだ。
すると君野は、遠くの山並みを焦点の合わない目で見つめながら呟く。
「……助けたくて」
「誰を?」
「……わかんないです」
「ふふ。不思議な感覚ね」
君野は窓際から、目のない天使の絵の前へ歩み寄った。
あれほど怖かった絵にも、今はこうして近づける。
――火あぶりになるぞ。
きいろの言葉が脳裏をよぎる。
彼の、どうしようもない衝動の正体が、一瞬だけ見えた気がした。
「……」
真っ黒に汚れた天使の手が、その答えを示しているように思える。
最近の自分の直感が滅茶苦茶なのは分かっている。
それでも、この絵には何かがある。
「……夏休みも、ここに来ていいですか? 僕もルネさんの痕跡を辿ってみたいです……」
「いいよ。熱中症になっちゃうから、月・水・金の午後に、週3日で来るわ」
そう言って、茜はいつもの穏やかな笑顔をこちらへ向けてくれた。
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3日後。
午後4時過ぎ。
君野は再び美術室にいた。
数日かけて完成を待っていた自分の肖像画は、またしても茜の手で、ビリビリと引き裂かれていた。
ドレス姿の君野は無惨な紙くずへと変わる。
それでも君野は、その光景を黙って見つめ続けていた。
「……私もね、絵の才能に自信がないんだ」
落胆する茜を見て、君野も斜め上を見つめながら考え込む。
そして、ある提案を思いついた。
「山小屋を再現した環境で、やってみますか?」
「え?」
茜が思わず顔を上げる。
「目のない天使は、山小屋で見つかったものだから……」
茜は近くにあった、モチーフへ埃がかからないように掛けられていた長い白布を、勢いよく剥がした。
そのまま君野の胸から下へ帯のように巻きつける。
君野は少し戸惑いながら尋ねた。
「……脱いだ方が、いいですか?」
「そうかもしれない」
恥ずかしそうに頬を染める君野とは対照的に、茜は何事もないように白布を巻き直した。
すると、目のない天使そのままの衣装が出来上がる。
「ズボンも靴下も上履きも脱いで」
「はい……」
一瞬、背筋がざわついた。
――やめろ。
どこかで、そんな声がした。
白い布の内側で、じわじわと熱がこもっていく。
「あれ……また、あの音……」
からくり時計の鐘の音が、頭痛のように脳内へ響く。
……きっと暑さのせいだ。
白布姿の君野は、キャンバスを準備する茜の前に立った。
「最高ね」
彼女は思わず息を漏らした。
「ねえ、ここで描かない?」
そう言って、君野を壁際へ誘導する。
「どうして?」
「山小屋って、もっと狭かった気がするの。これなら何か思い出すかもしれないって、直感で思ったの」
茜は静かに微笑む。
その笑みには、いつもの穏やかさとは違う熱が宿っていた。
2人は窓が1つだけある部屋の隅へ移動する。
距離はかなり近い。
君野の目の前へイーゼルが立てられた。
「……」
目を閉じる。
額を、一筋の汗が伝った。
最初に浮かんだのは、何かが燃えている光景だった。
昼間でも薄暗い、木々の生い茂る山の中。
次の瞬間、視界が揺れる。
黒が、赤へ変わった。
――燃えてる。
誰かの声がする。
「……っ」
言葉にならない。
喉が焼ける。
息を吸うたび、煙が肺へ流れ込んでくるようだった。
現実では、美術室に鉛筆で紙を擦る音だけが響いている。
どこかの家から聞こえる風鈴。
窓際のカーテンが揺れる音。
その静けさの中で、乾いた喉が鳴った。
水が欲しい。
……そう体は訴えている。
だが、無視した。
めまいがする。
視界がゆっくり遠のいていく。
頭がふらりと揺れた。
喉の奥は空っぽだった。
焦げ臭い。
丸太の壁。
焼けた木の匂い。
小さな手が、年輪をなぞっている。
――引かれる。
知らない背中。
自分と同じくらいの年齢の、誰か。
山の中。
次の瞬間、膝の上だった。
異様に整った顔。
白い髭。
絵の具の匂い。
抱きしめられている。
帰りたい。
でも――
この絵が完成したら、
もう、ここには来られない気がした。
――熱い。
誰かが肩を揺らしている。
炎じゃない。
夏の熱気だった。
その時だった。
「あっつ!!……熱い!!」
モデルをしていた君野が叫び、そのまま受け身も取れず後ろへ倒れた。
「大丈夫!?」
茜は絵に集中していたせいで、君野が脱水症状を起こしかけていることに気づけなかった。
君野は全身から汗を流し、手を震わせている。
一瞬どうすればいいのか分からず立ち尽くす。
慌ててスクールバッグから水筒を取り出した。
しかし、その間にも君野は苦しそうに喘ぎ、頭を押さえる。
「熱いっ……おじいちゃんも早く……来て……!!」
その一言に、茜の動きが止まった。
次の瞬間、水筒を抱えたまま廊下へ飛び出す。
「誰か……誰か来て!」
その叫びに、一番近くで足音が止まった。
廊下を歩いていたきいろが、美術室を覗き込む。
床で苦しむ君野を見た瞬間、その笑みは完全に消えていた。
君野は床に伏したまま、肩で荒く息をし、涙を流していた。
何かに取り憑かれたように、必死で叫ぶ。
「どうして……どうして……逃げよう……ねえ……一緒に……」
煙と熱さ、焦げ臭さが鼻をつんざく。
僕は、お爺ちゃんの腕から逃れようと入口へ向かう。
しかし、その腕はテコでも動かなかった。
次の瞬間。
彼は僕の頬へ静かにキスをした。
流暢な言葉で、何かを囁く。
意味は分からない。
それでも――
逃げろ。
その意思だけは、不思議とはっきり伝わってきた。
「あれ……」
気づけば、誰かの肩の上だった。
ぐったりした君野が降ろされたのは、廊下の水道前。
蛇口から勢いよく冷たい水が流され、そのまま頭へ浴びせられる。
「つめたっ!! あっ、ちょっ……!!」
容赦なく、熱を持った頭や首筋へ冷水が叩きつけられる。
一瞬見上げると、その相手がきいろだと分かった。
何度も何度も水を浴びせられる。
息ができず、君野は必死にもがいた。
やがて気が済んだのか、きいろは君野を抱え上げると、そのまま反対側の教室の壁へ放り投げた。
ガシャンッ!
背中と腰に鈍い痛みが走る。
全身びしょ濡れになった君野の顎を、きいろは右手で乱暴に掴んだ。
明らかに怒っている。
その目が、怖かった。
数秒間、誰も動かなかった。
鳴き続けていた蝉の声だけが、ゆっくりと現実を取り戻していく。
「……違う」
君野は震える声で呟いた。
ようやく息を整えると、無表情のきいろを見つめながら口を開く。
「きいろくん、お爺ちゃんは……」
「違う」
きいろは間髪入れず言い切った。
「お前は手懐けられていたから、そう思っただけだ」
「僕はあの時、怖くなかった。絵が怖かったのは、お爺ちゃんが逃げなかったからだって……でも、お爺ちゃんは……出てこなくて……」
「ああ。だから俺は、白布1枚のお前を助けた。近くの水たまりへ投げて、お前にキスした」
「どうして……ルネさんを助けようと思わなかったの……」
「……助けた」
「え?」
「助けられたのは、お前だけだ」
静かに告げられたその言葉に、君野は息をのんだ。
「美しすぎたんだ。お前が」
低い声が、炎のように胸を焼く。
その瞬間を再現するように、きいろは吐息ごと君野の唇を奪った。
――美しすぎた。
あの時も、同じだった。
言葉の代わりに口を塞がれる。
熱い。
息が奪われる。
背後では、まだ炎が燃えている。
それでも僕は、泥だらけのまま焼けるようなキスを受け続けた。
「はぁ……っ……」
きいろの唇が離れ、しばらく互いの呼吸だけが交わる。
静かな廊下。
蝉の鳴き声。
そして学校のチャイムが響いた。
君野は何も言えず、ただ彼を見つめ返す。
きいろは視線を逸らさないまま、低く呟いた。
「……お前は何も見てない。見ていたのは、俺だけだ」
彼の手が、耳にかかった濡れた髪をそっと払う。
そのまま右手で頬へ触れた。
優しいのに、怖い。
君野は、その手を振り払うことができなかった。
それは今も同じだった。
燃え盛る炎が、君野の瞳を焼き尽くしていた。




