第22話「天使のモデル」
その日の放課後、美術室。
他の美術部員たちが外でスケッチをしている中、室内には君野、堀田、茜の3人だけが残っていた。
さらに、ギャルの茜人形が近くの机の上に載せられている。
茜が先ほど綺麗に整えたからか、まるで満足しているように見えた。
そして今日も、君野をモデルにした絵の制作が始まる。
「ねえ君野くん。この衣装を着てみて」
茜が持ってきたのは、真っ白なシンプルなドレスだった。
君野はモデル用に巻いていた白布をほどき、シャツと下着を脱いで上半身を露わにした。
堀田は脱いだ服を受け取ると、丁寧に畳む。
「おお……いいな」
茜よりも先に、堀田が感嘆の声を漏らした。
部屋の空気が少しだけ凛としたものに変わる。
白いドレスが照明を受け、ふわりと揺れた。
君野の白いドレス姿は、まるで冬の朝にそっと舞い降りる初雪のようだった。
裾は足元をすべて覆い、ほんのわずかに床を引きずっている。
スカートが広がるのが楽しいのか、君野はくるりと回ってみせた。
茜は目を細めて微笑む。
「似合うわね。さすが、あの人の絵のモデル」
さっきまでスカートをひらひらさせていた君野の表情が、少し曇った。
「まだ、怖い?」
「いえ……」
「その絵は、きいろくんのお父さんの絵なの」
その言葉を聞いた瞬間、君野の胸の奥がざわついた。
昼間に聞いた、あのからくり時計の鐘の音がまだ耳に残っている。
あのあと追いかけてきたきいろは、からくり時計を見上げ、おかしそうに笑っていた。
そして、あの時計を作ったのが自分の父親だと教えてくれた。
「感じてみたいの。これを描いたルネさんの当時の気持ち……私の絵も進化するかもしれない……」
祈るような言葉と仕草に、君野は一度深く頷いた。
「絵を描くことの楽しさを、もう一度強く味わってみたい」
茜はそう言って、真っ黒になった手で目のない天使を撫でた。
堀田はそんな2人のやり取りを、頬杖をつきながら見守っていた。
ふと、真横の机の上にいる茜人形へ目を向ける。
以前のギャルだった彼女も、あのからくり時計が好きで、気がつくと立ち止まって見つめていた。
元カノの美咲が、そう話していた。
「あ……」
もし、この茜人形を駅前のからくり時計へ近づけて反応があったら。
それなら、この人形がギャルだった頃の茜本人だと証明できるかもしれない。
堀田は夢中になっている2人をよそに、茜人形へそろりと近づいた。
あとで、時計の前へ連れていってみる。
そう決めると、素早く人形をバッグへ滑り込ませた。
君野は茜に言われた通り、白いドレスを着てポーズを取っていた。
昔の記憶は、やっぱり何も思い出せない。
あの天使は、いったいどんな思いで描かれたのだろう。
きいろの執着は、いったいどういう意味があるのだろう。
……あれ?
視界が歪んだ。
次の瞬間、天井が落ちてきた。
音が遠くなる。
まるで、昼間に鐘の音を聞いた時と同じだった。
どうしてしまったんだろう。
そう思ったところで、意識が途切れた。
気づいた時には、堀田の腕の中だった。
茜も心配そうに君野の顔を覗き込んでいる。
「大丈夫か?貧血か?」
「ずっとポーズを取ってたから疲れちゃった?」
2人が矢継ぎ早に聞いてくる。
君野は首を横に振り、堀田の腕から体を起こした。
あれ……なんで倒れたんだろう……。
「大丈夫。少し脱水症状になったのかもしれない……」
君野の言葉を聞くと、堀田はすぐさま自分のバッグを掴み、美術室を飛び出した。
1分もしないうちに、真新しいペットボトルの水を片手に戻ってくる。
「ありがとう……」
水を飲み、ぷはっと息をついた君野に、堀田は自分の額をそっと重ねた。
「今日はもうやめろ」
「ありがとう、君野くん。無理はしなくていいからね」
「いえ、大丈夫です。僕が水を飲み忘れていただけですから。明日も放課後、ここに来ます」
茜の微笑みに、君野も微笑み返した。
午後4時30分。
2人は突然の雷雨に見舞われ、シャッターの閉まった商店街の店先で雨宿りをしていた。
暗い空を見上げながら、君野はふと口を開く。
「さっきはありがとう」
「ん?」
「すぐ飲み物買ってきてくれて嬉しかった。僕の薔薇の花びらも拾ってくれたこと。堀田くんは僕の好きが詰まってるなって思ったんだ」
「そ、そうか……」
堀田は髪をぽりぽりとかき、照れ隠しをする。
こんな感覚は、久しぶりだった。
「……手、冷たくない?」
ふと、君野は上目遣いで堀田を見上げた。
「走ってここまで来たからな。汗かいて、だんだん冷えてきた」
「僕が温めてあげる?」
「はっ……!」
あの頃の君野が、少し戻ってきた気がした。
しばらくぶりの彼との再会に、もう寒さなど感じないほど、堀田の体の奥に熱が灯る。
堀田は勢いのまま、冷たい君野の手を握った。
「……堀田くんの手、あったかいね」
「基本、体温高いんだよ。俺」
まだ雨はやまないらしい。
バケツをひっくり返したような雨が、地面を激しく叩いている。
ただ手をつないだまま、2人は真っ黒な空を見上げていた。
すると君野が、ぽつりと呟く。
「……堀田くん。唇、寒くない?」
「!」
なんだそりゃ……!!!
キスしていいのか?
堀田が葛藤した、その時だった。
一瞬、空が白く光った。
ガシャアアアアン!!!
「うわあっっっ!!?」
「うおっ!!!」
すぐ近くに巨大な稲妻が落ち、閃光と轟音が辺りを揺らした。
君野は思わず堀田にしがみつく。
もうキスどころではない。
堀田はその体を抱き寄せ、君野の顔を自分の胸へ押し当てた。
腕の中で震える姿が、あまりにも可愛らしかった。
「大丈夫。俺がいる」
堀田は君野を抱きしめたまま、目の前で川のようになっていく道路を、焦点の合わない目で見つめていた。
雷雨が止んだのは、夕方6時前だった。
君野と堀田は空を見上げる。
「よかった。これで帰れる」
君野はほっと口元を緩めた。
青さを取り戻した空を、1羽のカラスが横切っていく。
ゴーン……ゴーン……ゴーン……。
遠くから、かすかに鐘の音が響く。
「なんだ!?」
突然、堀田が肩に掛けたスポーティーなエナメルバッグを押さえた。
慌ててチャックを開けると、中で茜人形がぶるぶると激しく震えていた。
「ひい!」
堀田は情けない悲鳴を上げる。
「どうしたの?」
「この人形が、急にすごい震えたんだ……あれ?」
しかし、今はもう静かだった。
堀田が戸惑っていると、君野は人形をそっと抱き上げる。
「どこかに行きたいのかな」
「どこに?家に帰りたいとか?」
「……時計、見たかったとか」
「時任先輩がからくり時計好きなの知ってたか?」
「鐘の音が鳴ってる間に起こったから、ただそうなのかなって。……なら、今見せてあげない?」
2人は歩きながら、数分先の駅前へ向かった。
人形を抱えた君野は、からくり時計の前に立つと、胸の高さまで持ち上げて時計を見せてあげる。
しかし、今の彼女からは先ほどのような強い反応は感じられなかった。
「無風だな。幽霊のイケメンでも見つけてたのかもな」
「からくり時計じゃなかったのかな……」
堀田は肩をすくめて苦笑する。
周囲の目が気になり、茜人形をすぐバッグへ戻した。
それから数日、放課後になるたび同じ時間を過ごした。
君野はいつも堀田と茜人形、そしてあの目のない天使に見守られながら、今日で5回目のモデルを務めている。
そのあまりの静けさに、堀田はいつの間にか居眠りしていた。
今日は茜が持ってきた造花の花束を抱え、君野はイーゼルの前に新婦のように立っている。
「君野くん、また体調が悪くなったら言ってね」
目の前の眼鏡の時任先輩が、口癖になったその言葉で優しく笑う。
しかし、これだけモデルを務めているのに、彼女の絵は一向に完成する気配も、筆が進む気配もなかった。
「ごめんね君野くん……なかなか絵が完成しなくて」
「いいですよ。とことん付き合います」
「ルネさんが絵を完成できなかった理由が、分かる気がするの。キャンバスの中で最大限に表現しようと思うと、心が折れそうになる……」
「そ、そうなんですか」
君野は小首を傾げる。
被写体のせいで、絵の才能が枯渇する。
きいろが言っていた言葉が思い出された。
時任先輩も、そうなってしまうのでは……。
そんな不安が胸をよぎる。
「あなたは特別だから。他にはない力を持ってる。でも、それはあなたのせいじゃない」
君野は目を瞬いた。
まるで、今の考えを見透かされたようだった。
「ほんとよ。私は嬉しいの。久しぶりに絵を描く気力を味わえてる。だから、こんなにも悔しいし、逆に絵の中へ閉じ込めたくもなる」
「な、なるほど……」
戸惑う君野に、彼女はにんまりと笑う。
「疲れちゃった?」
「あ、いえいえ。続けてください。僕、とことん付き合いますから」
そう穏やかに答えた、その時だった。
ガラッッッ!
突然、美術室のドアが勢いよく開いた。
「ど、どうしたの?きいろくん」
花束を抱え、イーゼルの前に立つ君野へ向かって、きいろはポケットに手を突っ込んだままズカズカと歩み寄る。
次の瞬間、白いドレスの胸元を乱暴に掴んだ。
「やめて!!!!」
君野の叫び声で、堀田は目を覚ました。
何事だと勢いよく立ち上がる。
目の前では、白黒きいろが君野の白いドレスを掴み、無理やり引き裂こうとしていた。
その剣幕は、いつもの余裕を失ったような乱暴さだった。
「きいろくん、やめて!」
ドレスの胸元が破れる。
引っ張られた勢いで、君野の体が床へ倒れ込んだ。
それでも、きいろの手が掴んでいるのは君野ではなく、白いドレスだった。
布を引き裂こうとする手は止まらない。
「野郎!!変態がッッ!!!」
堀田はきいろの背中へ、空手仕込みの回し蹴りを叩き込んだ。
きいろは床へ叩きつけられ、そのまま前方へ吹き飛ぶ。
それで我に返ったように、ゆっくりと上半身だけを起こした。
「っ……ぐす……うぅっ……」
解放された君野は、相当怖かったのか、涙をぼろぼろと流しながら体を震わせていた。
その姿に堀田の怒りは再び燃え上がり、床へ座り込むきいろへ向かって構えを取る。
「大人しくしないと、もう一撃食らわすぞ!」
「そんなにそのドレスが気に食わないの?」
すると茜が、いつもの穏やかな声色で静かに問いかけた。
きいろは乱れた呼吸を整えながら、彼女を睨みつける。
「アンタ、どういうつもりだ?また君野を奪うつもりか」
怒りを押し殺すように、口元だけが笑っていた。
「どんだけ未練がましいんだ。俺があいつを奪ったのがそんなに悔しいか?」
「ふふ。私はルネさんじゃない。彼と同じ気持ちになりたかったの。芸術家なら、分かるでしょ?」
きいろの笑みが消えた。
話をしても埒が明かない。
そう判断したのか、黙って君野へ視線を向ける。
「もうモデルはやめろ。火あぶりになるぞ」
また、その言葉……。
そう言い残すと、ガムでも吐き捨てるように、きいろは美術室を出て行った。
「な、なんなんだよ……火あぶりって……」
静まり返った部屋で、最初に口を開いたのは堀田だった。
君野の涙は止まったものの、その一帯には無惨に引き裂かれたドレスと、散らばった造花や花びらが広がっている。
「……絵は、完成させるんですか?」
堀田が震える声で尋ねる。
茜はいつものように上品な笑みを浮かべた。
「ええ。もう大丈夫。ドレスはもういらない」
その顔には、動揺した様子などなかった。
堀田は黙って彼女を見つめる。
なぜ「もう大丈夫」なのか。
その理由だけは、分からなかった。




