第20話「ボタン一つの関係」
君野は4時間目を迎えるまでに、ウエストのループをすでに5つも壊していた。
それもこれも、茜人形のせい。
誰かにこの光景を見られたら、僕の学園生活は終わる……。
「お願いだから大人しくして!」
指の間で、何かがかすかに動いた気がした。
まるでカバンに猫でも入れているかのように、君野は両手でカバンを抱え込む。
その中で、ふと思う。
本来の時任さんの人生を、あの美術室の彼女が乗っ取ってしまったんじゃないか。
そう考えた瞬間、ぞわりと背中が粟立った。
……とりあえず、早めにもう1人の時任さんに直してもらおう。
昼休み――美術室。
「時任さん、ご飯食べないんですか?」
「ええ」
「そこまでして絵が好きなんですね」
君野は下だけジャージに着替え、木の椅子にちょこんと腰掛けていた。
絵を描いていた眼鏡の彼女が、制服のズボンのループを縫い直してくれている。
ふと、その隣のイーゼルに立てかけられたキャンバスへ目を向けた。
難しい絵の話をしてくれたが、僕の頭ではよく理解できなかった。
「この時間に美術室へ来るなんて、誰かがここで絵を描いてるって教えたの?」
「ごめんなさい。もしかしたら、ここに時任さんがいるかもしれないって思い立って」
君野は唇を噛み、ちらりと上目遣いで彼女を見つめる。
――あなたは何者?
そう聞いてみたかった。
でも、確信もないのにそんな失礼なことを言えるはずがない。
代わりに、もう1つ気になっていたことを口にした。
「きいろくんとは、どんな関係なんですか?」
「こういう仲」
「こういう?」
「すれ違いざまに、彼の制服のボタンがほつれてたから直してあげたの」
「そ、そうなんですか……へえ……」
しかし、美術室での2人の距離感は、傍から見ればまるで熟年夫婦だ。
やっぱり、付き合ってる……?
「はい、どうぞ。また壊れたらいつでも来て」
針と糸を通してから、わずか数分でループはすべて元通りになっていた。
さらに、茜人形の乱れた髪や制服まで手際よく整えてくれる。
「これ……僕が持ってるべきなんですかね」
「うん。彼女の意思を尊重したら?」
「……また来てもいいですか?」
「ええ。どうぞ。きいろ君もよくここに来るから」
「そ、そうなんですか……」
……本当に、ボタン1つの関係なんだろうか。
すると彼女は微笑みながら君野を見上げた。
「黒い巾着袋を作ってあげる? 腰につけられるようにすれば、またついてきても恥ずかしくないでしょ?」
「え! 本当ですか!?」
「ええ。明日までには作っておくから。また」
なんでこんなにいい人なんだ……!!
君野は脱いだズボンで人形を包み、美術室をあとにした。
2階の中央廊下へ出た時、ふと頭に疑問が浮かぶ。
「あれ……というか、僕、話したっけ……」
この人形が勝手に腰についてくるなんて、一言も説明していない。
「……まあ、いっか」
あの人は僕の恩人だ。
君野はルンルンとスキップしながら教室へ戻っていった。
「君野! お前どこ行ってたんだ?」
教室へ戻ると、堀田は昼飯も食べず、その帰りを待っていた。
「ズボン、直してもらってたの。時任さんに」
「え!? あの元ギャルの?」
堀田は思わず身震いした。
「良い人だったよ」
「あまりその先輩のところには行ってほしくない」
「え?」
「時任先輩そっくりの人形が腰についてくるんだぞ? それに、本人そっくりの人形を持って話しかけてる俺たちですら、十分不気味なんだから……」
まずい……。
明日も行く予定なのに。
君野は咄嗟に口を開いた。
「時任さんに絵のモデルを頼まれたの! 先輩だから断れなくて……!」
「なんだと?」
「……だから、美術室に行かなきゃいけないの」
「本当に大丈夫なんだろうな」
「うん! 堀田くんも来る?」
「わかった……小窓から見てる」
「小窓?」
放課後――。
君野は、その嘘の代償に、何の策も浮かばないまま再び美術室へ来てしまった。
今日はきいろくんもいないらしい。
僕はまっすぐ、絵を描く時任先輩の前に立つ。
「私に用があるの?」
「僕をモデルに絵を描いてくれませんか……!」
彼女はその言葉に一瞬だけ筆を止めた。
眼鏡越しの瞳がこちらを向き、静かに君野を見上げる。
「君野くんを? いいよ」
「え? 本当ですか?」
「ええ。座って」
彼女は木箱の椅子へ君野を座らせると、予備の白いキャンバスをイーゼルへ立てかけ、その前に立った。
「いいんですか? もうすぐで仕上がるのに」
「前から1度描いてみたかったの」
「あの、1時間でいいですか……友達が待ってるんで」
君野の言葉に、彼女は微笑んだ。
そして鉛筆を縦に持ち、片目を閉じる。
……これって、いつも思うけど何をしてるんだろう。
そう考えていると、茜は突然立ち上がり、木製キャンバスが保管されている棚へ向かった。
その中から、1枚の絵を取り出す。
「これ、持ってみて」
「え……」
それは、あの目のない天使の絵だった。
きいろくんと僕の因果を描いた絵……。
「ヒッ……!」
「その絵を見て、自然に出たあなたの表情を描きたいの」
「……」
「怖い? やめたほうがいい?」
「い、いえ……」
君野は震える手で木枠を掴む。
先輩のお願いだ。
絵を見なければいい。
完全に乾いているはずなのに、木枠を掴んだだけで手が真っ黒になる。
触れていないはずの部分まで、黒が滲んでいた。
「君野くん、顔を上げて」
「す、すみません……」
君野は咳払いをして気持ちを切り替え、モデルを務める。
なんか、大変なことになっちゃったな……。
その後は何事もなかったかのように、静かな時間だけが流れていく。
美術室に漂う絵の具や木材、紙の匂いが、少しずつ僕の体に馴染んでいく気がした。
「ありがとうございました。また来ます!」
時間になると君野は一礼し、美術室の外で待つ堀田のもとへ急いだ。
茜は黒板の上の時計を見る。
夕方4時。
窓の外はまだ青く、彼が帰ったあとも、この場所で何時間でも絵を描いていられそうだった。
その時だった。
ガツン!!!
鋭い音が、美術室中に響く。
部員たちが一斉に振り返る。
茜は、先ほど描いていた君野のデッサンへ、カッターを深々と突き立てていた。
鉛筆で丁寧に描かれた君野の顔に、大きなバツ印が刻まれる。
誰も声を出せない空気の中、不意に男の声が響いた。
「アンタ、うちの爺さんみたいなことするな」
茜が振り返る。
ポケットへ手を突っ込み、笑みを浮かべたきいろが、いつの間にか真後ろへ立っていた。
「あなたのお爺さん?」
「ああ。本物の天使に会って、才能を枯渇させた爺さんの末路だ。……今のアンタ、そんな感じに見える」
「前から描こうと思ってたの」
「なあ、どういうつもりだ?」
きいろは一歩だけ近づく。
「何も知らないはずのアンタが、君野にあの絵を持たせて、その表情を描くなんて。出来すぎてるよな」
眼鏡の奥の瞳は静かなまま。
その空気の中で、きいろの笑みだけが、不自然なくらい浮かび上がっていた。




