第2話「ある雨の日の牡羊座キス」
「ではこの問題を……堀田くん。……堀田くん!」
「は、はい!!」
「この問題を解いてみてください」
俺こと、堀田友樹は数学の先生に名前を呼ばれ、黒板の前へ立った。
正解の公式を書こうとチョークを握り、黒板へ押しつけた、その瞬間だった。
「あ」
パキッ。
真っ白なチョークが二つに折れた。
片方は教卓の下へ転がっていく。
「ちょっと待ってね」
先生は新しいチョークを取り出そうと、教卓の下をゴソゴソと探し始めた。
その間、俺は教卓から教室を見渡す。
シンと静まり返った教室。
梅雨の6月。
教室には、窓を打つ雨音だけが響いていた。
俺の席の隣には、恋人の君野吉郎が座っている。
俺が前に出ていることにも気づかず、窓を流れる雨粒をぼんやり眺めていた。
俺がいなくても、あいつはいつも同じ表情をしている。
一体、何を考えているんだ。
その頭の中を、直接覗いてみたくなる。
もうすぐ、君野と付き合って2年3か月。
しかし、君野の中ではまだ1か月しか経っていない。
それでも、昨日の続きみたいに笑っている。
このズレは、すべて呪いのキスのせいだ。
「また……やり直しか」
窓の外の雨粒にさえ負けている気がして、悔しかった。
「ん?」
君野から視線を外し、教室全体を見渡した、その時だった。
君野の視線の延長線上。
廊下側、一番後ろの席に座る男子が、じっと君野を見つめている。
確か名前は、白黒きいろ。
瞬きが、やけに少ない。
……なんだ、あいつ。
「堀田くん。はい、チョーク」
先生が新しいチョークを差し出す。
さっきの光景が頭に焼きついていて――
「あ」
またチョークが折れた。
静かな教室に、小さな笑いが広がる。
「お疲れ様! 堀田くん」
席へ戻ると、その笑い声でようやく気づいたのか、君野が満面の笑みを向けた。
「お疲れ様って、お前な……ちゃんと正解したんだろうな?」
すると君野は照れたようにノートを隠す。
「あはは……全然分からなかったから、全部消しちゃった。でも、堀田くんが一生懸命書いたところだけはちゃんと写したよ」
ノートには、さっきまで書いていた跡だけが薄く残っていた。
指でなぞっても、もう読めない。
「今ちゃんと勉強しておかないと、いい仕事に就けないぞ?」
「うん……僕も自分が心配」
そう言って、マイペースにあくびをする。
……それでいい。
このまま俺の隣で、何も変わらず雨粒だけ眺めていてくれればいい。
何を焦っている。
君野は、ここにいる。
「……はあ」
俺は呪いのキスを正当化するように、小さく二度うなずいた。
ふと左を見る。
あの白黒きいろは、今度は何事もなかったように前だけを見ていた。
教卓から見えた光景が嘘だったみたいに。
「気のせいか……?」
あいつも、ただ雨粒を眺めていただけなのか。
……そう思いたかった。
数学の授業が終わり、昼休み。
弁当を食べていると、君野がふいに口を開いた。
「僕たち、付き合って1か月になるね」
「あ、ああ……そうだな」
来た。
分かっていたのに、胸が跳ねる。
「1か月も恋人してると、その……したいことってある?」
「……な、なんだろうな」
「今日も、まだ口内炎?」
「ああ。口内炎……」
何もない口の中を噛む。
よりによって、コンビニのミートソースパスタを食べている最中だ。
この言い訳は苦しい。
「そっか……じゃあ、今日もお預けだね」
「……悪い」
キスがしたい。
それは俺も山々だ。
だが、その唇に触れた瞬間、翌日には君野から俺の存在も記憶も、ごっそり消えてしまう。
これが、呪いのキス。
君野が一番好きな人にだけ起こる、忘却の呪いだった。
進展のない日々の繰り返し。
俺たちは、その中に閉じ込められているのかもしれない。
……いや、考えすぎか。
それでも、できるならその先へ進みたい。
そんな自分もいる。
「君野。俺ら3月生まれだったよな」
「うん。それがどうかしたの?」
「知ってるか? 同じ星座同士は、星座と同じ配置でキスすると想いが強くなるんだ」
「え!? なにそれ! 面白い!」
もちろん嘘だ。
これは俺が徹夜で考えた、キス禁止生活を乗り切るための作戦だった。
俺は君野の両手を取ると、その手のひらへ牡羊座を描くようにキスを落としていく。
そして、その両手を君野自身の唇へそっと当てた。
君野はぽかんとしている。
……分かってる。
俺だって何をやっているのか分からない。
「えっとな。これは二人の永遠を誓う、手を使ったキスなんだ。ほら、その……恵方巻みたいなものだよ」
「恵方巻き?」
「食べてる間は喋っちゃ駄目っていうだろ? あれと同じで、しばらくは口へのキスをしちゃいけないんだ」
「そうなの!? 僕も堀田くんにやっていい?」
君野は嬉しそうに、俺の手のひらへキスを落とした。
「これでいいの?」
「ああ! 完璧だ」
気持ち悪い台詞が喉まで出かかったが、どうにか飲み込む。
そして俺は、その手を自分の唇へ押し当てた。
「うまい……」
自分でも意味が分からない。
それでも、やめられなかった。
君野が俺を忘れてしまう前に。
少しでも俺を焼き付けたかった。
「うまい?」
「いや……これを毎日やるんだ。3月まで」
「3月!?そんなに長いの?」
「そういう試練を乗り越えたカップルだけが、本当の愛を手に入れられるんだ。俺は絶対、それを叶えたい」
「そっか……そこまで本気なんだね!」
照れくさそうに笑う君野を見て、俺はまた一つ、嘘が上手くなった。
「……ふん」
教室の喧騒の中。
真後ろから、小さく鼻で笑うような音が聞こえた。
振り返る。
そこには、白黒きいろ。
一瞬だけ、こちらを見て笑ったように見えた。
目だけが先に笑い、口が少し遅れて動く。
……いや。
気のせいだ。
俺が神経質になりすぎているだけだ。
「堀田くん、どうしたの? お腹痛い?」
「いや、別に」
眉間のしわをほどき、いつもの精悍な表情に戻る。
君野はもう興味を失ったように、窓の外を眺めていた。
「帰りまで止んでくれるかな。僕、今日傘持ってきてないんだ」
「じゃあ、二人で相合傘して帰ろうぜ。今日も送っていく」
「やった! ありがとう!」
安心した君野は、再び大好きなツナマヨのおにぎりを頬張りながら、窓の外の雨を眺めていた。




