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第18話「ライオン」



「こんにちは」


 君野(きみの)時任茜(ときとうあかね)に挨拶した。彼女は上品にはにかみ、挨拶を返す。


 そもそも、なぜ美術室にいるのかもわからない。


 一方できいろは慣れた様子で、隅にある倉庫のような棚から画材を用意し始めた。


「君野くんはさ、絵好き?」


 茜は肩までの赤い髪を揺らし、年季の入った木のパレットを片手に笑いかける。


「ああ……えっと、漫画とかなら読みます」


 君野は彼女のキャンバスを覗き込んだ。


「わ! 時任さんってこんなに絵が上手だったんですね!!」


 思わず感嘆の声を上げる。


 キャンバスには、赤いテーブルクロスの上に果物とシルバーのお盆が描かれた静物画。


 手を伸ばせば、あのりんごはちゃんと甘い味がするかもしれない。


「見て、きいろくん! 時任さんの絵!」


「君野」


 きいろは、はしゃぐ君野の声を遮るように呼んだ。


 そしてキャンバスをイーゼルに立てかけ、長方形の木の椅子へ腰を下ろす。


 無言で指さしたのは、大きく開いた自分の足の間だった。


「……座れってこと?」


 君野は何の躊躇もなく、彼の足の間へ腰を下ろす。


 きいろは君野を座らせると、使い込まれた大きな木のパレットに絵の具を並べた。


 たくさんの色がある。


 左手で慣れた手つきのまま、持ち手の穴へ親指を通した。


「持て」


 君野に筆を握らせ、その手を包み込むように上から重ねる。


 パレットで色を含ませた筆が、目の前の真っ白なキャンバスへ滑っていく。


 その筆は一度も迷うことなく、キャンバスを走った。


 手を握る君野の温もりが、彼の指先を通して絵の中へ染み込んでいく。


「何描いてるの?」


 その問いにも答えず、きいろはゲームに熱中する少年のような真っすぐな目でキャンバスを見つめていた。


 その横顔はあまりにも真剣で、その色気が君野にもはっきり伝わる。


「わっ!? ライオンだ!!」


 筆が進むにつれ、いつの間にかカラフルなライオンが姿を現していた。


 写実的で気高い王。


 そのライオンは単なる動物ではなく、きいろの内面を映したような、荒々しさと繊細さを併せ持っていた。


 君野は軽く足を揺らし、まるで自分が描いたかのように満足そうに頭を揺らす。


「かっこいい! きいろくんってこんな絵が描けるんだね!」


 しかし、きいろは終始仏頂面のまま。


 君野の手を握ったまま、筆をキャンバスへ走らせ続ける。


 そして黄金色の王獣の目を描こうとした時、きいろが口を開いた。


「昼間、お前が洗濯機の夢を見ていたと言った時、何か言いかけたよな」


「……ああ、なんか2人が話していた時だよね!」


「何を話そうとした」


「うんとね。夢の中で洗濯機の中でぐるぐる溺れてたんだけど、知らない人が助けてくれた!でも学校に来てわかったんだ!」


「誰だ」


「その人、堀田くんそっくりだった!」


 そう言った瞬間、緻密に動いていた絵筆がべちゃっとキャンバスを汚して止まる。


「あ!!!! ごめん、僕のせい?」


 きいろが君野の手を通して押し付けた筆。


 ライオンの目から、真っ赤な涙が流れた。



 すると突然、パレットを持つ左手で君野の顎を掴み、その顔に真っ赤なバツ印を描いた。


「ん!」


 反射的に目を閉じた君野の鼻を、アクリル絵の具の独特な匂いが突く。


 絵の具が頬を伝い、耳元まで流れた。


 君野が驚く間もなく、きいろはその唇を奪った。


 きいろと君野、時任茜の3人から少し離れた場所では、10人ほどの美術部員が円になり、それぞれ石膏像のデッサンに夢中になっている。


 誰1人、この状況には気づいていなかった。


 そのキスに気づいていたのは茜だけ。


 だが彼女は視線すら向けず、自分のキャンバスへ筆を走らせ続けていた。


 君野は、その静けさの中でとっさに拒むことができなかった。


 この異常な行動を、どうにか受け止めようとしてしまう。


 しかし、髪には《《あの》》触り方で指がさわさわと這う。


 唇の奥へ攻め込まれそうになった瞬間、君野は静かに顔をそらし、きいろから唇を離した。


「やめて……くすぐったい……」


 それでも、きいろは誰にも聞こえないほど小さな声で静かに答える。


 自分の顔にもアクリル絵の具をつけたまま、君野の顔を両手で包み、無表情に見つめた。


 まるで首を締めてしまいそうなほど強く、その顔を持ち上げる。


 赤い絵の具が唇から滴り、君野の唇へと移った。


 その怯えた瞳を見た瞬間――"あの時"の衝動が、きいろの中を走った。


 茜は部の備品だった真新しい雑巾を濡らして固く絞り、2人へ差し出す。


 きいろはそれを受け取ると、自分と君野の顔を大雑把に拭った。


「……物心ついた時には、俺は絵描きの爺さんと2人で山小屋に住んでた」


 きいろは淡々と語る。


 そこに感情は乗っていない。


「その絵が好きで……。俺も、ああやって自由に生きたいって思ってた」


 君野は、ただ頷く。


「ある日、お前を公園で見つけた」


「僕?」


「だから……お前だけ、連れてきた」


「誰が?」


 あまりに軽い調子で告げられ、理解が追いつかない。


 だが、きいろは構わず続けた。


「だんだん――上手く描けなくなった」


「え……?」


「俺も。爺さんも」


 それだけ言うと口を閉ざす。


 それ以上は何も語らない。


 説明もしない。


 ただ、続きを知っている者の顔だけをしていた。


「……それで、どうなったの?」


 君野が尋ねる。


「さあな」


「でも前に……」


 言いかけて止まる。


 喉の奥で引っかかったように、言葉が続かなかった。


「爺さんは幸せだった。最後まで芸術に生きて死んだ」


「ど、どういうこと?」


「芸術狂で死ねたってことだ。そんな幸せなことはない」


「わ、わかんないよ……そういうの……」


 きいろは近くの机に置かれていた1枚の絵を持ち上げた。


 不気味な、全体を黒に覆われた目のない天使。


 その絵を見た瞬間、君野の呼吸が一瞬だけ止まる。


 理由はわからない。


 ただ、目を離したくなる。


 でも、離せない。


「それ」


 きいろが静かに言う。


「お前だ」


 鳥肌が立った。


 そう言われる気がしていたからだ。


 ――ここにいたらダメだ……!


「ごめん……!! もう帰る……!!!」


 君野は逃げるように美術室を飛び出した。


 あの人は、静かに壊れている。


 なのに怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもない。


 当たり前みたいに、僕の中へ入ってくる。


 頭が、ぼやける。




「君野!!」


「!!」


 振り返ると、美術室を出た廊下の先に堀田(ほった)がいた。


「ずっといたの?」


 そう言った瞬間、堀田の手が君野の手首を強く掴んだ。


 痛いほどじゃない。


 でも、離さない力だった。


「……そうか」


 それ以上、何も聞かなかった。


 僕は助けを求めるように、ただ彼の背中について行った。



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