第17話「海か洗濯か」
――「ど、どういうことだ……。君野……! 今、はじめましてって……!!」
堀田は口をあんぐり開けたまま、目の前の光景を受け止めきれなかった。
君野はその言葉に戸惑い、大きな目をぱちぱちと瞬かせる。
その表情は、中学の頃の、何も知らないあどけなさを残した純粋な天使そのものだった。
その顔を、あのきいろに向けている。
「君野、俺が言うまで動くな」
きいろは椅子に座ったまま、君野の両手を背後から掴み、その手で耳を塞いだ。
「そのまま目を瞑れ」
君野は何の疑いもなく、言われた通り静かに目を閉じる。
堀田は、少しも抵抗しない君野の姿に異様さを覚え、背筋に静かな戦慄が走った。
「昨日、君野と結託して、こいつからお前の記憶を消したんだ。見ろよ。首に鎖だってついてないだろ」
きいろはニヤニヤ笑いながら堀田を牽制する。
確かに、昨日のキスが嘘なら、君野が協力しなければこんなことは起きないはずだ……。
「お前、君野に何をした!? 弱みを握ったんだろ! それとも……!」
「俺は毒だ」
「あ!?」
「お前は汚い泥」
その言葉が、言いつけを素直に守る君野の姿によって、何より雄弁に突きつけられる。
もう俺のこと、覚えていないのか?
俺のこと、好きって言ったじゃないか……!!!
「お前、呪いのキスが効くのを恐れて2か月こいつにキスしなかったよな。君野はその間、お前がキスしない理由もわからず、ずっと耐えてた」
「それは……」
「君野は消えた。自分の意思で」
きいろはそう言うと、君野の髪をくしゃくしゃと撫でる。
「ほら、今の方が、お前といるより断然可愛いだろ」
「っ……」
もう、これ以上言い返せる言葉がない。
「もういい?」
「ああ」
君野はきいろの方へ顔を向けると、ようやく耳から手が離された。
目の前には、絶望した堀田の姿があった。
血の気は引き、頬はわずかに震えている。
睨むでもなく、見上げるでもなく、ただ君野を見つめたまま、表情だけが崩れていく。
「何かあったの?」
「さあ。大したことじゃない」
きいろはそう言って、君野の頬を手のひらで舐めるように撫でた。
「こんなんで諦めると思うなよ……」
堀田の静かな凄みに、きいろは茶化すように首を傾ける。
「俺たちは何度引き裂かれても、何度でも乗り越えてきたんだ! それが泥まみれでも何でも! 君野を幸せにできるのは俺だけだ!」
堀田は目を潤ませ、眉をきつく寄せた。
「あ……あの……喧嘩しないで……」
きいろは不安そうな君野の髪をもう一度撫で回す。
ホームルーム開始のチャイムが鳴ると、自分の席へ戻っていった。
「あの野郎……!」
堀田は一瞬だけ殺意をきいろへ向けたが、すぐに隣の君野へ向き直った。
何かされるのかと身をこわばらせる君野。
しかし堀田は、きいろにもてあそばれた髪を、優しく手ぐしで整え始めた。
ほんの数秒。
それだけなのに、その手慣れた指先に君野は驚く。
先生が教室へ入ってくる頃には、堀田はもう何事もなかったように前を向いていた。
さっき両手で包まれた時、不思議と安心する匂いがした。
先生が出席を取り始めると、堀田は君野の椅子の横に置かれた手を、人差し指でつんつんと突いてきた。
思わず手を浮かせる。
その瞬間――
堀田の手が、恋人繋ぎで絡みついた。
横顔を見ると、耳まで真っ赤だった。
ごくりと喉仏が上下する。
「……」
君野は繋がれた手をじっと見つめる。
繋がれる理由はわからない。
けれど、振り払う理由も、拒む理由もなかった。
その不思議な感覚のまま、誰にも気づかれない手つなぎを受け入れた。
昼休み。
教室では、自分の席で弁当を食べる堀田と君野の姿があった。
この頃には、堀田の人懐っこさに君野もすっかり心を許していた。
母の手作りサンドイッチを食べ終えた君野は、そのまま机に突っ伏す。
「眠いのか?」
「うーん……夜中ゲームしてたから」
「知ってる! そのスマホゲームってスクプク・クラッシュだろ! お前が名前を言えないやつ!」
「そう。スクぷ……すくくぷ……スプ……クラッシュ……本当に僕のこと、何でも知ってるんだね」
そう言い残すと、君野はそのまま眠りに落ちた。
堀田は思わず顔を覗き込む。
「これは、俺のだ……」
子猫の寝顔を眺めるように、自分も机へ突っ伏し、鼻先が触れそうな距離で見つめる。
30分ほど経ち、起こす時間になると、堀田はふと思いついたようにスマホを取り出した。
動画サイトから流れ始める、波の音。
ザザーッ――。
常夏の海を思わせる音が教室に小さく響く。
君野はこの音を聞くと、高確率で「洗濯機の夢」か「ビーチの夢」を見ていたと言う。
「いや、海だろ。俺と一緒に今頃遊んでるんだろ……?」
囁くように呟いた、その時だった。
「また洗濯機だろ。外れたら、お前は放課後1人で帰れ」
堀田は、真後ろから聞こえた声に、さっきまでの笑顔を曇らせた。
当然のように、きいろが笑みを浮かべて立っていた。
「なに……?」
なんでそれを知ってる……!?
きいろは「早く起こせ」と言わんばかりに、顎をくいっと動かす。
堀田は恐る恐る君野の肩を揺らした。
目を閉じたまま、少し頭が痛そうに俯く君野へ、藁にもすがる思いで問いかける。
「君野! お前、何の夢見てた!?」
ゆっくり体を起こされた君野は、寝ぼけ眼のまま答えた。
「うん? ん……んと……」
――放課後。
「君野」
「ん?」
「行くぞ」
堀田のいなくなった席の前へ、きいろがやって来る。
青いリュックを背負った君野の肩を掴み、そのまま半ば強引に教室の外へ連れ出した。
向かった先は、美術室だった。
問答無用で連れて行かれた先には――
「あ、きいろくん。いらっしゃい」
誰よりも早く来て画材を準備していた時任茜がいた。




