第15話「忘れたい」
翌日。
雨は朝から降っていた。
傘の内側はしっとりと湿り、君野の前髪に張りついた水滴は、なかなか乾かない。
本当は今日、学校を休んでしまいたいくらいだった。
けれど、今日行かなければ、きっともう二度と学校へ行けない気がした。
「おう! おはよう!」
「あ、おはよう堀田くん」
真っ黒な傘をさした堀田が、今日は家の前まで迎えに来ていた。
家にも上がらず、まるで今来たばかりというように玄関から顔をのぞかせる。
いつもと変わらない笑顔だった。
君野が傘を開こうとすると、堀田は自分の傘を差し出した。
「入れよ」
「え?……うん」
君野は素直に従った。
こんなことは堀田くんらしくないし、その理由を聞かない僕も、自分らしくない。
でも、2人の間には確かに、コンクリートの上に見えないわだかまりが横たわっている気がした。
それを埋めたかった。
「なあ。今日の体育、外は絶対中止だよな!」
堀田は気丈に振る舞うように、明るい声を出した。
「そうだね。この雨だと校庭はぐしょぐしょだもんね」
「バスケがいいよな。俺さ、バレーやると力加減おかしくなってボールがうまく飛ばないんだよ」
「わかる! 親指の骨のところに当たると痛いよね」
「だ、だよな……!!」
何気ない会話に、彼はひどく安堵したように笑った。
相槌を打ちながら、僕は昨日のディープキスを、揺れる水たまりの中に思い出していた。
通学路の脇に咲く紫陽花が、雨粒を受けて静かに揺れている。
彼と隣にいるほど、昨日のキスはむしろ鮮明になっていった。
やがて会話は途切れ、そのまま学校へ着いた。
堀田はすぐに友達の輪へ呼ばれていく。
君野は寂しさを抱えたまま教室へ入り、青いリュックを机に置いた。
「みれない……」
堀田くんの顔が見られない。
今さら、傘がなくなってから気づいた。
――やり直したい。
その言葉だけが、頭にへばりついて離れない。
「……」
雨はまだ激しく降っていた。
窓を叩きつけるような雨音。
言わなきゃ。
きいろくんは僕を庇ったんだって……。
「はあ……ああもう……!」
君野は机に肘をつき、髪をくしゃくしゃとかき乱した。
「あ……」
ふと廊下へ目をやると、流れるように歩いていくきいろの姿が見えた。
僕はその背中を、いつの間にか追いかけていた。
そういえば、一匹狼の彼はいつもどこにいるんだろう。
やんちゃな友達はいても、基本は1人だ。
こんな雨の日だ。
外にはいないはず――。
「あ!」
いた。
美術室だ。
そこには1人の女の子がいて、1枚の絵について話しているようだった。
「なんだあれ……」
目のない天使の絵。
きいろは片手をポケットに突っ込み、その絵をじっと見つめている。
それよりも――こんな場所で女の子と話していたの……?
君野は美術室前の柱に張りつき、小窓からそっと中を覗き込んだ。
「時任さん……」
隣にいるのは、最近イメチェンしたと話題のあの人だ。
「仲良しなのかな……」
僕も絵が描けたら、あの輪に入れたのかな……。
すると、きいろは突然踵を返し、ドアの方へ歩いてきた。
「やばい!」
君野は壁とドアの隙間に身を縮め、顔を伏せてきいろが出ていくのを待った。
音のない時間が1分ほど続く。
行ったのかな……?
そう思って目を開けた瞬間だった。
「うわああ!?」
目の前に、しゃがみ込んだきいろがいた。
その悲鳴を聞きつけ、美術室にいた時任茜も顔を出す。
「どうしたの?」
「盗み聞きする悪いネズミがいたんだ」
「あれ? この子が君野くん?」
時任茜は短い髪と長いスカートを揺らしながら出入り口まで歩いてきた。
「え? なんで僕のこと知ってるんですか?」
「きいろくんから、よくあなたの話を聞くから」
「そ、そうですか……」
それよりも、彼女が持っていた大きなキャンバスが気になった。
目のない天使の絵。
僕と同じ黄色い髪。
目だけが真っ白で、下地のキャンバスがむき出しになっている。
その何もない空間が、ただ怖かった。
戸惑う君野を見て、きいろは打ち消すように口を開く。
「で? お前は何をしてる?」
「あ……! なんでもないよ……」
そう答えた瞬間、きいろは君野の体をひょいと持ち上げ、そのまま右肩に担いだ。
「あ! ちょっと!!!」
彼女が見守る中、きいろは誘拐犯のように美術室を離れ、早足で廊下を進んでいく。
君野は想定外の出来事に、彼の背中を軽く叩いた。
「おろして! 恥ずかしいよ……!」
廊下のみんなが、不思議そうな視線を向けてくる。
きいろは教室には戻らず、人目につかない暗い空き教室へ入った。
バタン、と少し乱暴にドアを閉める。
そして無言のまま、君野を1番前の机へ下ろした。
「それで、なんの用だ」
君野が座る机に両手をつき、顔を近づける。
鼻が触れそうな距離。
あのキスを思い出し、君野は思わず両手で顔を覆った。
「なんでもないよ……ホームルーム、もう始まっちゃう」
「堀田のことはどうでもいいのか?」
「どうでもよくないよ」
顔を伏せたまま答える。
返事がない。
まさか、いなくなった……?
そう思って顔を上げると――
「うわ!?」
また目の前にきいろの顔があった。
いたずらっぽく笑うその顔が、憎らしい。
「びっくり箱みたいだな」
「僕がびっくりしてるんだよ……」
「顔を上げる気がないなら、俺はもう行く」
きいろは出口へ向かって振り返ろうとした。
「ま、待って! 行かないで!」
思わず腕を掴む。
その勢いで体が引かれ、君野は立ち上がり、そのままきいろの胸へ飛び込む形になった。
「行かないでよ……」
「戻りたいんだろ」
「……顔が見られない……堀田くんも、きいろくんも……。僕が昨日したこと、取り返しのつかないことだったんだ……。僕は……汚い……人を愛する資格なんか……」
「それで」
「……」
君野は唇を歯型がつくほど噛んだまま、何も言えなかった。
「……汚れてなんかない」
きいろはそう言って、泣きじゃくる君野の頬に触れた。
温かな親指が、流れ落ちる涙をそっと拭っていく。
その声は、やけに優しかった。
「汚い泥がついてる」
「……」
意味はわからなかった。
それでも君野は、小さく頷く。
きいろは君野の顔を両手で包み込み、強引に自分の方へ向かせた。
口がすぼむほど頬を掴まれた君野の変顔は、涙でぐしゃぐしゃだった。
その顔が気に入ったのか、きいろはしばらくじっと見つめる。
「今日の放課後、俺はお前にキスをしたフリをする。明日、お前の望み通りになる」
「え……」
「明日から、俺しか知らないお前になる」
その言葉に、君野は息を呑んだ。
今まで「2番でいい」と言っていた彼からは、一度も聞いたことのない言葉だった。
「君野、愛してる」
「!」
彼はまたいたずらっぽく口角を上げ、君野の額へ軽くキスを落とす。
本気じゃない。
……これは、いつものおふざけだ。
そう思っている間に、彼はいつものように颯爽と部屋を出ていった。
ドアの向こうへ消えていく足音だけが、やけに遠く感じる。
「……」
君野は胸に手を当て、制服の胸ポケットをぎゅっと握り締めた。
――汚れてなんかない。
「……そっか」
君野は空き教室を出ると、涙を腕で乱暴に拭いながらホームルームが始まる教室へ戻った。
「どうした? 朝よりなんかスッキリしてるな」
堀田は戻ってきた君野に笑いかける。
ちょうど雨も上がり、君野の机には朝の光が差し込んでいた。
「うん。晴れたからかな。なんか頭のモヤモヤがなくなったんだ」
「偏頭痛か? 大丈夫か? 保健室から薬もらってくるか?」
「ううん! 大丈夫、ありがとう」
君野は満面の笑みで答える。
その笑顔を見て、堀田も朝までの気まずさが吹き飛んだように笑い返した。




