第九十四話 泡沫の幻影(ゆめ)は甘く、苦く
──痕跡が残っている内に現場を調べたい。
ロイたっての希望もあり、エリシュカは駅前で屯する辻馬車を捕まえ、彼と共に乗り込んだ。
早朝の駅前は仕事場へと向かう労働者や百貨店へと向かう貴族の馬車が一切の秩序なく入り乱れる。その混沌ぶりは辺境の街の比ではなく、馬車の前を人が横切り、馬が急停止する度にエリシュカが肝を冷やしたのは一度や二度のことではない。
だが、エリシュカにとって最も苦痛だったのは貧民窟への道程が長く、酷く退屈だったことだ。
車窓から見える景色はきらびやかな高楼から古びた煉瓦造りの長屋へと様相を変え、手入れを怠った壁が大きくひび割れている。人々の服装も流行から取り残されて久しく、全く洗練されていない着こなしに心惹かれることもない。
──早く到着しないかしら。
果たして、エリシュカの祈りが通じたのか。馬車は馬の嘶きと共にゆっくりと立ち止まる。
だが、エリシュカは不思議そうに目を瞬かせた。街灯に掲げられた小さな看板には「ハリエット通り」とある。これは、貧民窟の手前にある比較的大きな通りの名ではなかっただろうか。
不意に、馭者が客車の扉を開けた。ロイが足元の荷物入れに安置していた旅行鞄を持ち上げ、席を立つ。
「降りるぞ」
「え? でも──まだ貧民窟の手前なのに?」
「ここから先は治安があまり良くない。……馭者を無事に家に帰したいだろう?」
ロイは先に馬車を降り、賃走の代金に少し色を付けて馭者に握らせる。それとなく付近の噂について尋ねているようだ。
エリシュカも慌てて旅行鞄を荷物入れから引きずり出し、踏み段を慎重に踏み締めながら馬車から降りた。
「ここが……貧民窟……」
エリシュカの前に立ちはだかったのは、半ば瓦礫と化した廃墟の群れだった。小さくくり抜かれた窓枠は腐り、硝子の入っているものが一つも見当たらない。路上には大小様々な大きさの瓦礫が放置されたままだ。
平等に太陽の下にあるというのに、貧民窟の細い路地には陰鬱な影が差し込んでいた。更にそこかしこから漂う饐えた悪臭が外部からの干渉を拒んでいる。
エリシュカは吐き出しかけた不安を生唾と共に飲み込む。改めて、うらぶれた街に対する警戒を高めていく。
──おい、小娘!
エリシュカの頭蓋をアレスの鋭い忠告が貫くが、それよりも一瞬早く、エリシュカの左手に細長い指がきつく絡みついた。
ひたすら動くことを叩き込まれた身体は止まらない。エリシュカは左手を思いきり振り払い、その勢いを利用して反転する。まだ見ぬ“敵”を正眼に据え、旅行鞄を盾代わりに前方に掲げた。
己の視界を塞がぬよう、さりとて首や胸に不意の一撃を喰らわぬよう──そうして睨み据えた先に見た顔に、エリシュカはきょとんと目を瞬かせた。
少しくすんだ灰褐色の背広を着込んだ、エリシュカと同じ年頃の男だった。鳶色の瞳は、何故かエリシュカに負けず劣らず、驚きで大きく見開かれている。
一際エリシュカの目を惹いたのは、くつくつと煮詰めた栗の甘さととろみを宿した金髪だった。太陽の輝光には及ばずとも──この鮮やかさをエリシュカはほんの僅かな未練と共に覚えている。
毒と華燭に彩られた一夜の夢の中でたった一度だけ、エリシュカは心を預けないまま彼と踊ったことがある。
「バージル・スターン侯爵令息様? どうして──」
此処にいる、と詰問しようとしたエリシュカを、バージルは突然怒鳴り付けた。
「こんな所で何をしている?! 君のような高貴な女がうかつに貧民窟に足を踏み入れるなんて──何を考えているんだ!」
「……は?」
以前のエリシュカならば、理不尽に男に怒られたことに萎縮し震えていただろう。だが、辺境伯家の令嬢エリシュカ・カタルジュは死んだ。今ここにいるのは吸血鬼狩りエリシュカ・ルプだ。
エリシュカは首を傾け、苛立ちも露わにバージルを凝視する。元貴族令嬢にあるまじきその顔つきの鋭さに、バージルは一瞬怖じけたように半歩下がった。
しかし、平民となったエリシュカには身分の差を飛び越えて悪しざまにバージルを罵ることは出来ない。エリシュカは旅行鞄を下ろすと、バージルに向かって深々と頭を下げる。
「ご無礼をお許しください。しかし、我々は死角からの接触に対して然るべく対処する訓練を受けております。平にご容赦頂けますよう、寛大な御心にお縋りしたく存じます」
「え……は……?」
混乱を来し返事もろくに紡げないバージルに、エリシュカは更に畳み掛ける。
「侯爵令息様におかれましては、これ以上の職務遂行の邪魔も、どうかご寛恕くださいませ」
「職務……? 何を言っているんだ? 貧民窟なんかで一体何の──」
「──失礼、同僚が何か失礼を?」
馭者から離れたロイがバージルとエリシュカを間に身体をねじ込み、エリシュカを背後に隠すように立ちはだかる。
「ど、同僚って──」
バージルが何かを言い募ろうとしたが、その隙を与えずにロイはエリシュカを振り返る。バージルにかけた余所行きの声とは違う、冷徹な声でエリシュカを叱り飛ばした。
「職務中に無駄話とはいいご身分だな。易々と背後を取られたこともそうだが、危機感がまるで欠如している。観光気分か?」
「申し訳ありませんでした! ……懲罰、でしょうか」
エリシュカは即座に頭を下げ、敢えて語尾を震わせながらロイに問う。
懲罰、という言葉を聞いてバージルが真っ青になった。待ってくれ、とロイに詰め寄る。
「違う! 違うんだ! 私が彼女を引き留めてしまったんだ。彼女は何も悪くない! 懲罰なんて止めてくれ! 彼女に何をする気だ!?」
「事実関係を彼女から聴取した後、然るべき処分を下すまでです。申し訳ありませんが、部外者の方はお引き取り願います」
だが、と尚も食い下がろうとするバージルに、ロイは酷薄な笑みを浮かべる。
「それとも、彼女が懲罰を受ける様子を見届けなければ、貴い身分の方は気が晴れませんか?」
「……っ! 引き留めて本当にすまなかった……!」
バージルは敵愾心を露わにロイを睨みつけた後、頭を下げたまま微動だにしないエリシュカ気遣いながら走り去る。
ばたばたと洗練されていない靴音が聞こえなくなった頃に、エリシュカはそっと顔を上げた。
「……それで、懲罰の内容は?」
「血も涙もない上長の監視のもと、貧民窟での調査続行を命じる」
エリシュカは破顔した。
「異存ございません。謹んで処罰を受けます。……正直に言って、間に入ってくれて本当に助かったわ」
別に、とロイの返答はそっけない。
「……一体何だったんだ、アレは」
侯爵令息をアレ呼ばわりなのだから、ロイも恐れを知らない。
エリシュカは乾いた笑いを浮かべつつも、ロイの胆力に半ば感心した。
「言ったでしょう、侯爵家の令息──後継者よ。聞いた? 戎衣姿の私に高貴な女ですって」
エリシュカは一頻り笑ってから、大きな溜め息を吐いた。
「……私はもうカタルジュじゃないのに。あの人、余程辺境伯家との縁が欲しかったのね」
ロイは訝しげに彼の消えた雑踏を見る。
「……仮にアレが真実侯爵家の令息だったとして──貧民窟と隣り合うような通りで何をしていたんだか」
そう言えば、とエリシュカも目を丸くする。
この近辺には貴族御用達の店というものは少ない。それに、バージルは馬車ではなく徒歩でこの場を離れた。思えば、襯衣も最高級の絹ではなく、少しごわついた綿であったような気がする。
エリシュカは胸がざわつくのを感じながらも、分からない、と答えた。
「例え彼の身の上に何かあったとしても、もう私の所まで噂は届かないもの」
エリシュカはほんの一欠片残っていたバージルへの興味を捨て、彼の逃げ去った通りから目を逸らした。
「とにかく、現場へ行きましょう。ご命令通り、どこへなりとも調査に向かうわ」




