第九十五話 溺れる魚
エリシュカは協会から借り受けた地図を片手に頭を掻き毟りたい衝動に駆られていた。
元々精密な図面ではないものの、実際に訪れてみると貧民窟は地図との乖離が余りにも著しいのだ。
瓦礫で道が塞がれて通行が出来ないというのは序の口で、地図に記載された建物がいつの間にか取り壊され、傾いた掘っ立て小屋がそこかしこに林立しているという有様である。
「足を止めるな、あっという間に取り囲まれるぞ」
地図の情報を更新しようにも、上長の監視は厳しく、エリシュカは一瞬たりとも足を止めることが許されなかった。
実際に、荒廃に沈んだはずの廃墟の中には複数の人の気配がある。エリシュカたちがどの様な人間か値踏みする、好奇と悪意が万本の針となって、既に全身を貫いていた。
「大人数に取り囲まれても……ロイなら余裕で突破出来るでしょう?」
「……無茶を言う。今の俺に夜と同等の働きが出来るはずがないだろう。最悪、お前の“御使い”の慈悲に縋らせてもらう事になる」
余りにも潔く非力を認めるロイに、エリシュカは継ぐべき言葉を失った。
──ダッセェな、コイツ!
エリシュカの頭の中でアレスが嗤う。エリシュカはアレスの尊顔を知る由もないが、声から察するに、恐らく涙を浮かべながら笑い転げているに違いない。
「…………嘘でしょう?」
「……単純な力比べだけで言えば、ベロニカに軍配が上がる」
「それは……ごめんなさい。昼間の貴方が弱すぎるの? それとも協会長が強すぎるの?」
ロイは一瞬言葉に詰まり、あらぬ方を見る。
「……実に業腹な質問だな。後者だ」
しかし、ロイは自分の能力を低く見積もる一方で、一切躊躇することなくおよそ道とも呼べぬような小路を征く。エリシュカの経験上、ロイが堂々とした態度を崩さない時は、必ずと言っていい程安全であった。
エリシュカが上空に視線を向けると、白梟が広げた翼で音もなく蒼穹を切り裂く所だった。エリシュカには彼らの間で交わされる会話を推し量る術はないが、ああやって空中から地平を睥睨し、主人であるロイに逐一情報を提供をしているのだろう。
「……エリシュカ。よそ見をするな。周囲を警戒しろ」
「…………はい」
そんなことまで教えなくてもいいのに、とエリシュカは初めてヴィリアを恨めしく思った。
「いや、待て──ヴィリアが何かを見つけた。こっちだ」
言うが早いか、ロイは急に駆け出した。何を、と問う間もなくエリシュカも後を追う。魔境のような場所で一人にされては堪らなかった。
道中、とみに人垣が増え始める。しかし、風体は破落戸のそれではなく、寧ろ恐怖に身を寄せ合う弱い獣を彷彿とさせた。
「下がれ! 現場に近寄るんじゃない!」
若い男の高圧的な怒号が飛ぶ。
エリシュカとロイがそちらに向かうと、騒ぎを聞き付けた住人たちの人垣が出来ていた。何人か人垣からつまみ出されたのを見るに、どうやら、現場を一目見ようと不届き者たちを若い官憲達が追い払ったらしい。
エリシュカとロイが人垣を掻き分けながら官憲に近付く。エリシュカは脇腹に肘を打ち込まれたが、少し呻いただけで渾身の力で男を押し退ける。
「何だ、また懲りずに──ん?」
官憲はエリシュカに気付いて目くじらを立てたが、二人の纏う戎衣を見るや、鋭く眼光が光る。
「吸血鬼狩りか? 認識票は?」
エリシュカとロイはそれぞれ首から下げた認識票を提示する。
「何があったんだ? 調査のためにこの先を抜けなくてはならないんだが」
「今は困るよ! この道の先に行きたいならこっちの──右手の細道から迂回してくれ!」
官憲は殊更大きな声を上げながら、エリシュカとロイの背を押して人垣から離れる。
しかし、官憲は持ち場に戻る寸前、官憲は鋭く小さな声で二人に耳打ちした。
「被害者は妊婦でした。どうか、詳細は警部補から伺ってください」
エリシュカとロイは顔を見合わせ、指示された細道を進む。人がすれ違う最低限の幅しかないくせに、やたらと官憲達とすれ違った。
彼らは胡乱なものを見るようにエリシュカたちを見たが、戎衣を確認すると途端に態度を変えた。更には、わざわざ警部補の所に案内すると快活に申し出る者さえいて、エリシュカ達は有り難くその申し出を受け入れる。
「警部補は若いが優秀な方ですよ。ほら、あちらにいらっしゃる──」
「……あっ!」
エリシュカは思わず叫び、官憲が制止する間もなく駆け出す。
間違いない。見覚えのある山高帽に、すらりと細身の外套を着こなす長身、何より癖のある黒髪は──
「ハジ警部補さん!」
悲鳴のようなエリシュカの声に、警部補──エドワード・ハジがゆっくりと顔を上げた。
ほんの一瞬、彼は記憶の引き出しを探る目つきをした。恐らく、葬儀の場で泣きじゃくっていた弱々しい令嬢と戎衣を纏う戦士が結びつかなかったせいだろう。
「私──エリシュカです! エリシュカ・カタルジュ!」
「……! エリシュカお嬢様?!」
エドワードは駆け寄って来たエリシュカの頭の先から爪先までをじっくりと見つめた。
エドワードの視線がエリシュカの全身を擽る。まじまじと見聞される居心地の悪さはあったが、エリシュカは堂々と背筋を伸ばした。
長らく巻かれることのなかった髪の毛も、手入れを怠った爪先も、生傷だらけの肌ですらも──何一つ恥ずべき所は無い。
「本当に……?」
大きく頷くエリシュカに、エドワードは笑みを浮かべては消し、曖昧に唇を震わせる。カタルジュ家を襲った悲劇を思えば、警部補をしても、どの様な表情を浮かべていいのか分からなかったのかも知れない。
「……お元気にされていて、本当によかった。カタルジュ辺境伯家が断絶したと父から聞き、ずっと貴女のことが気掛かりでした。とは言っても、私は家を離れた身で……大変な折に何のお力添えも出来ず、申し訳ありませんでした」
「とんでもない。警部補さんはアルフレートとオフェリアのことでお心を砕いて下さったのに、今日まで直接お礼に伺うこともせず、こちらこそ大変失礼致しました」
エリシュカは声が震えそうになるのを堪えて、慣例に沿う口上を述べる。
本音を言えば、礼儀などという虚飾は捨て去り、心のままに傷口を見せたかった。膿んで乾く事を知らぬ醜い傷痕を互いに見せ合って、まだどうしようもなく痛むのだと叫びたかった。
それなのに──エリシュカは自分でも知らぬ間に膠を飲んだらしい。今にも喉奥で堰き止められた泣き言で溺れてしまいそうだった。
「あの……ところで、どうして警部補さんが首都で捜査をされているんでしょうか?」
葛藤の末、結局、エリシュカは無難な話題を口にした。
官憲局にはそれぞれ担当地区が割り当てられており、原則として事件の発生現場を元に捜査する官憲局が決まる。
エドワードがいかに優秀な官憲だったとしても、首都にまで足を運び捜査を行うなど絶対に考えられないことだった。
エドワードは照れくさそうに笑う。
「ああ……実は昨年の九月、こちらに異動になったんです」
まぁ、とエリシュカは華やかな声を上げる。
エドワードは謙って異動と言うが、辺境から首都に引き抜かれたのだから、つまるところ栄転である。
「おめでとうございます! 是非、何か贈り物を──と言いたいところなのですが」
エリシュカはちらりと背後を見る。いつの間に距離を詰めたのか、ロイが呆れたような目でエリシュカを見つめていた。
それでも、旧交を温めるエリシュカの様子を口も出さずに見守っているだけだったのだから、やはりロイは人が好いのだ。




