第九十六話 逆襲のエリシュカ
「積もる話はもう良いのか?」
ロイの問いにエリシュカは頷く。未熟の身とは言え、エリシュカは本来の目的を決して忘れてはいなかった。
ロイは自身の認識票をエドワードに掲げる。
「連続妊婦殺人事件の調査で伺った。被害者や遺体発見時の情報提供をお願いしたい」
その一言で、エドワードは警部補としての顔を即座に取り戻した。山高帽のつばを掴んで深く被り直し、外套の裡から小さな帳面を取り出す。
「今回の被害者の名前はアガヴェ・ノエル。年齢は二十七歳で、職業は女性調酒師です。彼女は妊娠しており──」
エドワードは素早く帳面を開き、書き留められた文字をつらつらと読み上げる。
「腹部を短刀のようなもので数十ヶ所刺された状態で発見されました。件の連続殺人事件の犠牲者の可能性が高いと言えるでしょう」
エリシュカは女性の味わった恐怖を想像して顔を歪めた。
アガヴェが無抵抗であったはずがない。自らを守るために助けを求め、あるいは犯人に助命を乞うたはずだ。だが、無慈悲にも殺意は振り注いだ。何度も何度も、絶え間ない驟雨のように彼女の命を少しずつ押し流したのだ。
暗い路地に命の川が溢れるその絶望たるや──最早エリシュカの想像の埒外である。
「吸血鬼が関与した痕跡は見つかったか?」
心を痛めるエリシュカとは逆に、男たちは淡々と情報の交換を続ける。
エリシュカは、薄情だとは思わなかった。彼らは問題解決のためにやるべきことを遂行しているだけなのだから。
「現場で検視した限りでは、被害者の遺体には何の痕跡も発見されませんでした」
「やはり痕跡が残っているとすれば、胎児の方か」
「その可能性は極めて高いと言わざるを得ません。しかし、現場では胎児の検視は行えませんので、これより被害者の遺体を官憲局に収容し、より詳細に調べることになっています」
あの、とエリシュカは恐る恐る口を開く。
「もし警部補さんがよければ、胎児の検視に同席したいのですけど」
エドワードはぎょっとする。
「【魔眼】のせいで吸血鬼になってしまったのか、それとも別の要因で吸血鬼になってしまったのか──狩人の私なら見れば分かるかも知れません」
無論、エリシュカには物事を見抜ける能力はない。だが、“御使い”であり全てを見通すという【天眼】を持っているアレスならば、吸血鬼の関与の有無を見抜く事は容易いはずだ。
妙案を確信したエリシュカとは対照的に、ロイとエドワードは「駄目だ」と声を揃える。
「他殺体など女性が見るものじゃありませんよ!」
「お前は自分よりも弱い存在に甘すぎる。万が一何かあったとしても対処できない可能性が高い。それなら──俺の方が適任だ」
エドワードはあくまでもエリシュカを深窓の令嬢とし扱い、ロイは未熟な部分ばかりを論う。
極めつけに、盛大な溜め息が一つエリシュカの頭に直接聞こえてきた。
──必要とされてるのは【天眼】だけかよォ。裏方は唆られねェなァ。それなら、アイザックって野郎と死合う方が百万倍ましってもんだぜ。
エリシュカの額に青筋が浮かんだ。
「もう、皆して私を除け者にして!」
エリシュカは憤慨し、エドワードとロイに背を向けて来た道を引き返し始めた。
「待て、どこへ行くつもりだ」
珍しく少し慌てた様なロイの声が追いかけて来る。足音は、一人分ではなかった。エドワードもエリシュカの後を追ってきているのだろうか。
エリシュカは少し溜飲が下がった気分で、しかし、振り返らずに不満げに鼻を鳴らした。
「どうせ、私は除け者なんでしょう? なら一度協会に戻るわ。今までの犠牲者の情報をもう一度多角的に調べ直してみたいもの」
「エリシュカお嬢様、ここは貧民窟です。女性の一人歩きは危険すぎますよ」
「もうお嬢様じゃありません、吸血鬼狩りです」
待て、とロイは尚もエリシュカを追い縋る。
「エリシュカ、一人で動くな」
「あら、一人でも平気よ。今なら貴方よりもずっと強いもの。大人数に取り囲まれても身包み剥がされることは絶対にないわ。貴方と違って」
──何だ? 今回の敵は殺してもいいのか?
斗いの予感にアレスの声が喜色を帯びる。子供のような無邪気さを湛えた上位存在に、エリシュカはこめかみが張り詰めるほど歯を噛み締める。
──駄目に決まっているでしょう! 犬だって教えれば言いつけを守れるのに、どうしてアレス様は何度ご説明差し上げてもご理解頂けないのですか?!
──い、犬……?!
言外に犬以下と貶されて、アレスは怒り狂うどころか言葉を失った。虚脱したと言ってもいい。
実際に、吸血鬼狩りと言えども吸血鬼以外を殺害すれば逮捕され、獄に入って罪を償わなければならない。
その説明を何度も受けたにも関わらず、アレスは面白がって殺すと戯れのように繰り返してきた。児戯に対する叱責が、今日降ってきたに過ぎないのだ。
叱責が嫌ならば戯言を控えればいい。それだけのことだ。
「確かに、お前は強いかもしれないが、それでも一人きりで出歩かせるつもりはない」
エリシュカは思わず足を止めた。
「……どうして?」
「どうして? さっきも妙な男に絡まれていただろうが」
「あら……もしかして心配してくれたの?」
エリシュカは意外そうに、そして微かに照れくさそうに笑う。
ロイは不愉快そうに眉を寄せた。
「つくづく……お前は俺のことを何だと思っているんだ? 心配くらいする。……特に師の言いつけをすぐに忘れる、出来の悪い教え子のことは」
二人の軽妙なやり取りを後ろから見守っていたエドワードはふっと吹き出す。笑いを堪えた時に耳朶が赤くなる癖は健在のようで、その時ばかりは警部補という肩書きに恥じぬ怜悧な印象がほろりと解けた。
「警部補さん?」
エリシュカの瞳が剣呑な光を宿した。氷点下まで下がった冷めた空気がエドワードの笑顔をちくりと刺す。
「いや、失礼。お二人のやりとりを見ていたら、少し安心してしまって」
「安心?」
エドワードは深く息を吸って笑いを収めながら頷く。
「ええ。お嬢様が吸血鬼狩りになったことは戎衣姿を見れば分かることですが……うまくやれているのかは別問題でしょう? 価値観も覚えた礼儀も違う人達と折り合いを付けて付き合うのは、苦労も多かったはずです」
エリシュカは、否定も肯定もしなかった。返事の有無が問題にならない程、エドワードの言葉は実感が籠もっていた。
──彼も、きっと苦労したのだわ。
何せ、エドワードは侯爵家の三男だ。貴族社会のことは肌で理解しても、継ぐべき爵位がなくては留まってはいられない。放逐された先で上手く生きられるかどうかは、いかにそれまでの常識を疑い、価値観を擦り合わせられるかにかかっている。
「……ご心配、ありがとうございます。大丈夫です。私は自分の居場所を作ることが出来ましたから」
エドワードは少し寂しげに笑った。
「くれぐれも無茶だけはなさらないでください。貴女に何かあれば、ご家族が──アルフレートが悲しむでしょうから」
エリシュカは頷く。
──本当に、兄様が悲しんでくれたらいいのに。
生死すら定かではない兄の横顔を思い出し、エリシュカは曖昧に笑った。




