第九十七話 【魔眼】
ロイはエリシュカを吸血鬼狩りの協会に送り届けた後、改めて官憲局へと向かっていた。
辻馬車に揺られながら、ロイは外の景色を見る。
繁華街の喧噪と競うように贅を尽くした高楼は既に遠くに霞んでしまった。その代わり、瀟洒な外観の政治施設が並んだ区画には、仕立てのよい背広を着こなす紳士の姿が多い。体面を何よりも重んじる彼らは、比較的秩序を持って歩道をはみ出ぬ様通行しているようだった。
不意に上流階級の世界に触れても、最早ロイの中に感傷はない。自分が栄華を極めた時代から、人々も流行も、生活様式すらも──何もかもがあまりにも様変わりしてしまった。
だが、エリシュカはどうだろうか。今はアルフレートを奪還するという目的があるため、里心に駆られたとしても協会から逃げ出しはすまい。
では、目的を果たした後は──?
ロイはそこまで考えて、ゆっくりと頭を振る。
「……全く、らしくない」
自身の甘さに忸怩たる思いはするものの、偽りなく、ロイにとってエリシュカはかけがえのない弟子になっていた。
だが、それだけだ。それ以上でもそれ以下でもない。ロイにエリシュカの人生に口を出す資格はない。
そもそも、エリシュカが吸血鬼狩りを辞すると言えば、一体誰がその意志を阻めるというのか。エリシュカは協会の方針に抗い、神の“御使い”に背いてまでロイを人体実験から救った女だというのに。
ロイは微苦笑を浮かべる。
──まるで月のような女だ。
子供のように泣いていたかと思えば、神の代理人の様に振る舞い、ロイが思いもよらぬ顔を覗かせる。そして、淡く青い光明でロイという怪物を生かしてしまった。
彼女が導き出したこの結末に対するロイの心情は一言では言い表せない。素直に感謝を口にするには、エリシュカの行動は目に余った。与り知らぬ所で運命を歪められたもどかしさもあり、弟子に同情された惨めさもある。
それでも──地を這う怪物は焦がれるように月を見上げるしかないのだ。
■□■
辻馬車を降りたロイは、眼前に堆く積まれた赤い煉瓦を見上げる。首都全域を網羅的に守護する官憲局──その総本山がそこに存在した。
市民に広く門戸を開き、窓から内部の様子が伺える協会とは違い、厳しい鉄扉で閉された建造物はまるで監獄のようだ。
そう感じるのは、ロイが一族郎党虐殺という贖いきれない大罪を犯したせいだろうか。時効という言葉では到底後悔が慰められるはずもなく、どうしてもこの場所によい感情が持てなかった。
ロイは鉄扉の前に立ち、扉の把手に手を掛ける。実は、ロイは首都の官憲局を訪れるのは初めてのことではない。何の抵抗もなく扉は開いた。
「ああ、お待ちしておりました!」
人の疎らな官憲局のエントランスに、若々しい声が響く。ロイがそちらに目を向けると、エドワードが駆け寄って来る所だった。
警部補という立場にも関わらず案内役を買って出る気安さに驚いたものの、ロイはエドワードがエリシュカの貴族時代の知人という立場を思い出して納得した。
彼女の力になれなかったことを悔やんでいたという言葉は、どうやら真実だったらしい。
「検視の同席については既に許可を得ています。こちらにどうぞ」
エドワードは少しだけ声を潜めて、市民の通行が制限されているはずの地下へ繋がる階段へと誘導する。ロイが一歩踏み板に足を乗せた瞬間、形容しがたい寒気が足の底から這い上ってきた。
──乾いた血の臭いと……嫌な気配がする。
エドワードは足を止めない。彼は何も気付いていないのだ。何故なら──人間だから。
居心地の悪さは、遺体安置所へと近付く度に酷くなっていく。それでも逃げ出すという選択肢はない。ここで逃げれば、何のために遺体安置所からエリシュカを遠ざけたのか分からなくなる。
「こちらです。──大丈夫ですか?」
遺体安置所に辿り着いたエドワードは、漸くロイの顔色に気付いたようだ。ロイは声もなく頷く。
「ですが、顔色が随分と──」
「問題ない。元々この顔色だ」
ロイは把手に手を掛け、エドワードの憂慮を振り切るように中に踏み込む。
部屋の中央には硬い台座が置かれており、女の遺体が安置されていた。アガヴェ・ノエルの遺体だろう。
アガヴェは衣服を身に着けておらず、大きな布が上から覆いかぶさっていた。布を捲らなければ傷口も死に顔も伺う事は出来ず、その点はロイにとって僥倖だった。
それよりもロイが気になったのはアガヴェの腹だ。平らで、とても妊娠しているようには見えない。
「胎児は?」
「やはり吸血鬼化していたため、検視中に動き出さないように別室で杭打ちの処置を行なっています。処置が終わり次第こちらで検視を行います」
ロイは台座のそばに置かれた移動式陳列台を見る。様々な形状の医療器具が無造作に置かれており、その一部には実際に器具を使用した痕跡があった。
「アガヴェの腹部の創傷は二十八ヶ所にも及んでいました。壮絶な死を遂げた彼女には、残念ながら今後吸血鬼化の兆候が出る可能性があります。どうか注意してください」
ロイは両の手を握り締める。
未練や恨みが人を吸血鬼に変える──その呪いがこの世界に定着して久しい。
それでも、とロイは静かに憤る。
アガヴェは無残に命を奪われた被害者だ。己を殺した犯人を憎み、恨んだとしても、それは当然のことだろう。
それなのに──この女は死して尚、肉体や名誉を傷付けられるのか。
「……分かっている」
ロイはエドワードの言葉に頷きながらも、五感──特に嗅覚をアガヴェの死体に集中させた。
吸血鬼の能力は昼間という制約で極端に薄れており、ロイの吸血鬼としての嗅覚も精度が落ちている。アガヴェの血液からどれ程の情報を引き出せるかは分からない。
幸いアガヴェの血液は既に乾ききっていたものの、遺体安置所に籠もった湿気のお陰か、芳香は思いのほか鮮烈に立ち上った。
──アガヴェの栄養状態は著しく悪い。それにこのにおいは……妊娠中もずっと飲酒を続けていたのか。
アガヴェが無知だったというよりは、子の発育にまるで関心がなかったように思える。あるいは──
ロイは不意にベロニカの話を思い出した。被害者たちが“魔女”の堕胎薬を求めていたかもしれないという官憲の仮説は、やはり正しかったのかもしれない。
ロイはうっすらと嫌悪感を顔に貼り付ける。哀れなばかりの被害者だと思っていた女の後ろ暗さを垣間見た瞬間、腹の底に冷たいものが落ちた。
不快に傾きかけた心情を中立に戻すために、ロイは無理やり任務に思考を傾ける。それで、腹と同じくらいに頭も冷えた。
「これは、独り言だ。聞き流してくれ」
「……はい?」
「協会としては、胎児が吸血鬼化している以上、“魔女”の家周辺に巣食う吸血鬼の有無を調べなければならない。官憲局では“魔女の”家の目星は付いているだろうか」
余りにも露骨な独り言に、エドワードは困ったように天井を仰いだ。山高帽のつばを目深に被り直して、ロイに向き直る。
「捜査上知り得た情報を部外者に漏洩するわけには参りません。ですから、これは私の独り言として聞き流して頂けると有難いのですが」
ロイは頷く。官憲が部外者に捜査情報を開示出来ないのは百も承知だ。
「今夜は“魔女”狩りが予定されています。ガストン通りという比較的広い路地には誰も近寄らない様にお願いしたいですね」
要は──今夜、ガストン通りに巣食う違法な堕胎薬を販売する犯罪者を逮捕するので、事が終わるまで部外者は大人しくしていろということだろう。
ロイは少なからず驚いた。手をこまねいているだけかと思いきや、官憲局は既に魔女の住処を突き止めていたのだ。
そんな折、不躾に遺体安置所の扉が開いて、白衣の男が顔を覗かせる。男は処置が終わったとぶっきらぼうに言う。
その手には小さな棺が抱えられており、白衣の男は揺籃のように揺らした。
「ほら、お母さんだぞ。まだ目も見えんだろうが」
眠る嬰児をあやすような仕草には、確かに死者に対する敬意が宿っていた。
「狩人が見れば、吸血鬼化の原因が分かるって? そんなの初耳だぜ?」
訝しむ白衣の男に、ロイは涼しい肩を竦める。
「噂にすらならないのも無理もない。特殊な素養を持つ、極一部のみが可能な機密だ」
「邪鬼と戦鬼を見分けられるようなものか?」
狂王ザハリアーシュの遺詔によれば、私生児は両親の不義の結晶であるが故に神の加護を与えられず、その恨みによって吸血鬼となるのだという。
赤い胞衣を纏って生まれる邪鬼と、その敵対者として白い胞衣を纏って生まれる戦鬼は、どちらも吸血鬼であり、討伐の対象である。
戦鬼の場合は隠れて育てられる場合があり、邪鬼と戦うべく吸血鬼狩りとなるらしいが、彼らに出会った回数はロイをして片手で事足りるほどだった。
「あれは分かりやすい部類だ。狩人でなくとも見分けが付く」
そうかい、と白衣の男は理解を諦めたかのように吐き捨てる。
「検視の同席は許可したが──吐くのだけは勘弁してくれよ」
白衣の男はそう言って、棺の蓋を開けた。その瞬間、噎せ返る真新しい血の臭いが押し寄せてくる。胎児が人間ではなくなっていたのはロイにとっては幸いだった。その分、吸血の衝動は比較的緩やかで、心因反応による精神の消耗は抑えられた。
「これは……」
不義の結晶など、とんでもない。父母の顔も知らぬ胎児には生への執着はあれど、清らかで恨みも未練も何も無かった。そんなものを抱けるほど、この子どもの心と身体は育ちきってはいなかったのである。
吸血鬼の血液を取り込んだことによる吸血鬼化も否定出来る。母体よりも先に胎児が吸血鬼になることはまずあり得ないからだ。
「──【魔眼】だ」
ロイは台座に右手をつきながら呟く。【魔眼】という言葉にエドワードと白衣の男の顔に緊張が走った。
「胎児は【魔眼】によって吸血鬼化している。協会はこれより官憲の依頼通り──吸血鬼討伐をも見据えて動くことになる」




