第九十八話 迷走のエリシュカ
エリシュカの属する吸血鬼狩りの協会には、膨大な資料を有する資料室が存在する。吸血鬼が関与した事件事故について、被害の多寡に関わらず情報を集積するのが決まりであった。
地下一階には既に解決した事件の資料が保管されている。十年の保管期間後に破棄されるため、こちらの逼迫はそれほどでもない。
問題は一階の資料保管所である。古くは三百年前から現在に至るまで、吸血鬼による未解決事件の記録で埋め尽くされていた。放置されて久しいのか、床に置かれた書類の束の中には端が黄色く変色しているものも多い。
エリシュカは両手に分厚い紙の束と万年筆を持ち、今にも紙の雪崩が起きそうな棚を怖怖と見つめた。
「これが全部崩れたら、きっと、私は助からないわね」
エリシュカは、小さくぼやきながら机に地図と大量の資料を並べ、粗末な丸椅子に座る。深呼吸をして十分に肺を膨らませた後、仕留めんばかりに地図を睨んだ。
「よし……!」
エリシュカは気合のひと言と共に鞘から万年筆を抜き、実際に貧民窟を歩いて得た情報を元に図面の情報を書き換え始めた。行き止まりと思われた箇所に道が開き、平坦な道と思われた箇所が通行不能の山河となる。
とは言え、更新されたのは広大な貧民窟の極一部だ。この国と福祉と同じく、調査の目を貧民窟の奥深くへ向けることは出来なかった。
──次は……一人目の犠牲者の殺害現場が此処、遺体発見現場が此処。二人目の犠牲者はこの辺り……こっちが遺体発見現場、と。
図面を修整した上で、妊婦達の殺害現場と遺体発見場所にそれぞれ対応した印を付ける。おかしなことに、妊婦達の遺体は全て殺害現場から遺体発見現場へと運ばれていたのだ。
遺体を移動させたと言っても精々一区画ほどだ。ただ、遺体発見場所はレイヴェル通り、ガストン通りという比較的開けた大通りとの接続があり、人通りが比較的多い。
実際、被害者達の遺体は概ね死後四時間から八時間前後──事件の翌朝に発見されていることから、特に遺体を隠すのに適した場所ではなかったと言わざるを得ない。寧ろ、遺体発見が早まった可能性さえ存在する。
だからこそ、エリシュカは犯人が遺体を移動させた意図を計りかねていた。単に隠蔽する時間が無かったのだとしたら、中途半端に現場に手を付けずに逃走を図った方が得策だった。
「犯人は土地勘が無かったのかしら? いや……それでも、隠したいと思っていたのなら、回数を重ねる内に手口は少しずつ巧妙になっていくはずよね」
普通に考えれば、遺体の発見が遅れる方が殺人犯にとっては都合がいいはずだ。風雨が亡骸を腐し、犯人の痕跡を洗い流してくれるのだから。うまくすれば、官憲の捜査の手から逃れることすら不可能ではない。
「でも、そうはならなかった。犯人は毎回遺体を中途半端に移動させるだけ。結果だけ見ると、遺体を隠すどころか、寧ろ発見を早めてしまってる……」
エリシュカは食い入るように図面を見るが、そこに答えが浮かび上がることはなかった。
「……アレス様、さっきからずっと黙ってますけど、何かお気付きになったことはありませんか?」
エリシュカは行儀悪く頬杖をつく。
──けッ。頭を使うのは人の仔の役目だろォが。考える葦を自称するなら思考を放棄するな。ただでさえ弱ッちいのに何の取り柄もなくなっちまうぜ?
どうやら、貧民窟で犬と比較したことが徹底的にアレスの機嫌を損ねてしまったらしい。古い哲学者の言葉を引用してまでエリシュカを小馬鹿にするのを見るに、どうやら上位存在の協力は得られそうになかった。
「考えてはいますが、情報が少なすぎるんですよ。私たちは官憲じゃないのでもらえる情報もごく僅かですし」
──そもそも……テメェは調べると息巻いてるが、一体何を明らかにしたいんだ?
「え? それはもちろん……この事件に吸血鬼が関与しているのかどうかを──」
そこまで言ってから、エリシュカは唇を引き結んだ。エリシュカは犯人の選択や行動心理を追っていたが、今のところ、それらは吸血鬼の関与と直接結びつくものではない。
「そうか……私は官憲じゃないんだから、事件の内容そのものをなぞるんじゃなくて、吸血鬼の痕跡を読み取らないといけないんだわ。あぁ、もう! ロイやヴィタリーさんならこんな失敗、絶対にしないのに!」
エリシュカは万年筆を放り出し、かじりつくように官憲の資料を覗き込む。
吸血鬼の関与を調べるなら吸血鬼化の胎児の遺体を調べるのが一番早い。だが、その調査には既にロイが向かっている。
「……駄目だわ。官憲の提供してくれた情報じゃ、全然足りない。──調査するなんて偉そうなことを言って、今の私に出来ることなんて何もないじゃない」
途方に暮れたエリシュカは指の隙間からばらばらと資料を取り落とした。床に落ちる書類と混ざらないように急ぎ拾い上げねばならないと分かっているが、最早エリシュカにはその気力もなかった。
──全く、本当にしょうがねェ女だなァ。
アレスはエリシュカの情けない姿に鼻白み、大仰に溜め息を吐く。
「……今、嫌というほど自覚して、嫌悪感に苛まれているところです」
──それでも諦めねェのがお前の数少ない美点じゃ無かったのか?
え、とエリシュカは目を瞬かせる。
──大体お前の調査が行き詰まった所で誰が困るンだ? どうせ、あの野郎が答えを持ち帰るだろうよ。テメェはただ大人しく奴の帰還を待ってりゃ良いじゃねェか。
アレスは口調こそ悪いものの、ロイが成果を持ち帰ることを全く疑ってはいないようだった。ロイへの全幅の信頼が、今のエリシュカには痛い。
「……だって、私はロイの相棒なんですよ。これから先も彼の隣に立つつもりなら、私自身が強く、賢くならなくちゃいけないって──ずっと思っていたんです」
エリシュカは斗いも情報収集も全てアレス頼みだ。一度としてエリシュカ自身の力で何かを成し遂げたことはない。
だが、自身の無力さを引け目を感じる度に、ロイはエリシュカのことをいつも褒めてくれた。最後まで逃げ出さず戦場に立っていた──たったそれだけのことでだ。
良くやった、という声は無愛想で、甘さなど欠片もない。だが、その低く掠れた声を聞く度にエリシュカの胸には小さな花がこぼれた。
褒められる度に、その言葉に見合う自分になりたいと思えたのだ。
──そうよ。強くなりたいならこんな所で折れてちゃ駄目。
エリシュカは先程床にばらまいた書類を思い出し、一枚ずつ丁寧に拾い上げ始めた。一枚の欠けすらないように、丁寧に枚数を改める。
──はァ……理解出来ねェな。あの優男のどこがそんなに良いんだか。
エリシュカは資料の端を揃えて机の上に置く。さして考える素振りも見せずに軽やかに微笑んだ。
「私を女性扱いしない所……ですかね?」
──へ?
エリシュカの声は蝶の羽ばたきよりも静かで、軽やかだ。そこには卑屈さなど微塵も存在せず、アレスは面食らった。
「あの人、女だからお前には無理だ──とは絶対に言わないんです。危険があって遠ざけたい時は私の能力不足を理由に挙げてくれます」
──最悪じゃねェか。
「何故? もし能力が足りないのなら、私は努力することが出来ます。寧ろ、もしも女だからダメだと言われたら困り果ててました。だって、性別なんて変えようがないもの」
ロイの隣に立っている時のエリシュカには、もう補正装具など要らない。そんなものがなくても背筋を伸ばして立てるし、上手に息を吸えるようになった。
エリシュカの焦茶色の瞳が光を宿す。甘い乳白色が虹彩に馴染んでとろりと蕩けた。それは夜に傾きかけた空の色をしている。
「ありがとう、アレス様。……もう少し頑張ろうって思えるようになりました」
エリシュカは再び万年筆を取り、図面と資料の整理に取りかかり始めた。




