第九十九話 身の程知らずの恋着
資料室の柱時計は午後二時を指している。四方を白い紙の壁に囲まれたまま、既に一刻以上が経過していた。
この頃になると、エリシュカの持つ貧民窟の図面は一部が真っ黒に塗り潰されていた。犯人の行動から読み取れる心理状態や逃走に使った経路の予想など、エリシュカの主観を交えて書き込まれている。
結局、エリシュカは官憲に提供された資料から吸血鬼の痕跡を読み取ることは出来なかった。そこで、吸血鬼が関与したという仮定のもと、その結果、犯人の行動に影響を与えた可能性を追うことに注力したのだ。
やはり、犯人の行動で気になるのは遺体の移動であろう。だが、その理由については幾つかの仮説は立てたものの、未だに絞り切れてはいなかった。
「──エリシュカ?」
「っ! はいっ!」
急に名を呼ばれたエリシュカは、思わず背筋を正して普段よりも高い声を上げた。
振り返るとそこにはエリシュカと同い年くらいの女が立っていた。協会で受付業務に従事する、美しい女だった。
「驚かせちゃった? ごめんなさいね、すごく集中していたのに邪魔をして」
「いえ、こちらこそすみません。何かご用でしたか?」
女性は涼しげな流し目に意味深な笑みを浮かべて、エリシュカを見る。
「お知り合いがお見えよ。すごく綺麗な金髪の男性だったわ。エントランスでお待ち頂いているから、早く行って差し上げて」
女を置き去りにして、エリシュカはエントランスへと駆け出す。
──兄様のはずがない。一年前、兄様は瀕死の状態であの男に攫われて、それっきりだもの。でも、でも!
期待を抱けば裏切られた時に苦しいだけと分かっていながら、エリシュカは走るのを止められない。
負荷の高い動きをしたわけではないのに、エリシュカの息は上がる。兄様、と彼の人を呼びながらエントランスへと駆け込んだ。
美しい金糸は軽やかにエリシュカの視界を奪った。だが──
「バージル……スターン侯爵令息……」
エリシュカを迎えたのはアルフレートではなかった。先刻別れたはずのバージルが、何故かエリシュカの前に立ちはだかっている。
「……本当に、貴女は吸血鬼狩りになったんだな。カタルジュ辺境伯令嬢」
エリシュカは期待外れの再会に気落ちしながらも、表情を気取られぬ様に折り目正しく頭を下げる。
「敬称は不要でございます、スターン侯爵令息様。気さくにお声がけ下さる慈悲には感謝致しますが、最早私は平民の身。関わることは御身に何ら益がございません、どうか──」
お引き取りください、とエリシュカが決定的な拒絶を口にする直前、バージルは悲しげに顔を歪めた。
「他人行儀な言葉遣いはやめてくれ。私も、貴女と同じ平民なんだ」
「……え?」
エリシュカは思わず顔を上げる。
バージルは侯爵家の長男で継嗣であるはずだ。その彼が平民とはどういうことか。その疑問を見透かしたようにバージルは苦笑を浮かべる。
「恥ずかしい話だが、跡継ぎを作れず、父に勘当されたんだ。私は父の望む息子にはなれなかった」
「それは──その、お気の毒に」
エリシュカは頬を引きつらせながら漸くそれだけを口にした。一方的に身の上話を語り始めたバージルに呆れたのは勿論、調べ物を中断させられた怒りも募って胸の奥で湯が煮え始めいる。
だが、バージルはエリシュカの様子に気付く様子はなく、不幸に酔ったように寂しげな微笑みを湛える。
「縁談を全て断ったんだ。私と共に人生を歩くのも、侯爵家を継ぐ子を産むのも、何もかも貴女がいい。貴女以外の女性など考えられなくて」
「………は?」
その瞬間、エリシュカの胸に胃の腑をかき混ぜられた様な不快感が込み上げてきた。余所行きの声の出し方など、一瞬で忘却した。代わりに、その舌先には研がれた黒曜石の刃のようにどす黒い嫌悪感が乗る。
しかし、殺気にも似たエリシュカの衝動にバージルが気付いた様子は全くない。
「今となってはあんなものは捨ててよかった。そのお陰でまた貴女と同じ立場になれたのだから。もう身分差を理由に恋を咎められることもない」
エリシュカは身勝手な言い分を並べるバージルに、唾棄すべき精神を糾弾し、貴族の本分を説く言葉さえ見失っていた。
──恋? 恋ですって?
貴族の継嗣が平民になった女に未練たらしく懸想し、家門の跡継ぎを残すという義務を放棄した結果、爵位継承権を剥奪された上に家門から追放された──など、美談どころか三文芝居にすらならない醜聞である。
しかも、吸血鬼に堕ちたという理由でアルフレートが追われ、エリシュカが女で“使徒”だという理由で逐われた地位を、捨ててよかったなどと告白するのか。無粋と呼ぶべきか無遠慮と言うか──とにかく神経を疑う。
──気持ち悪ィな、コイツ。
不意に頭を過った言葉は、果たして本当にアレスの呟きだったのだろうか。
その刹那、エリシュカの脳裏にロイの言葉が蘇る。
『他人に恋をするというのは、自分の中の醜く浅ましい部分を見続ける行為だ。お前が考えるような立派ものじゃない』
今のエリシュカならば、ロイに言われた言葉の意味が少しだけ分かる様な気がする。少なくとも、その悍ましさの一端に触れて、今人々が瞳を輝かせるはずの言葉に失望している。
──これを恋だと言うのなら、私は一生それを知らないままがいい。
何も言わないエリシュカに焦れたのかバージルが、人目を気にするように周辺へと視線を泳がせる。
「ねぇ、二人きりで話せないかな?」
「無理よ。外部の人はエントランスより奥に入れないの。話ならここでしましょう」
「……込み入った話なんだ。人目のつかない所が良い。そうだ、珈琲茶館にでも行かないか?」
食い下がるバージルに、エリシュカは配慮という言葉を一旦忘れることにした。同じ立場になれて嬉しいと言った彼ならば、配慮も飾り気もない言葉をきっと喜んでくれることだろう。
「無理よ、職務中なの。忙しいから、用がないならもう帰って」
エリシュカはあからさまに冷たい目つきで出入り口を見る。エリシュカとは対照的に、街並みは清々しい程の日差しに照り付けられて白く滲んでいた。
「なら、退勤する君を待ってる。一緒に食事でもどうかな?」
「行かないわ」
だが、バージルは馴れ馴れしくもエリシュカの肩を抱き、そのまま外へ連れ出そうとした。
「遠慮しないで。きっと君も気に入るはずだ」
──拘束は弱い。これなら逃げられる。
エリシュカが確信し、身体の重心を移動させようとしたその瞬間、エリシュカは横から細い腕が伸び、バージルの手を思い切り跳ね除けるのを見た。
「え?」
エリシュカは驚き、闖入者を見る。バージルの隣に立っていたのは、官憲局からたった今戻ってきたらしいロイであった。
「きゅ、急に何をするんだ?!」
バージルは叩かれた手首を押さえながらロイに噛みつく。尤も、彼が勇ましいのはそこまでだった。ロイの赫い瞳に睨まれると、親犬に叱られしょぼくれた子犬のように後退りした。
「エリシュカ、調査は終わったのか?」
エリシュカは俯く。面会に来た男が兄かもしれないと期待して、放り出して来たことを漸く思い出した。
「ごめんなさい、まだなの。でも、もうすぐ終わるから」
エリシュカの申し開きに、何故だかロイはバージルを睨んだ。
「朝に続き、二回目です。昔の女への未練を引きずるのは結構ですが、職務中の人間の手を煩わせることに無頓着というのは如何なものかと。それとも、平民の時間はいくら奪っても構わないとでも? 貴族らしい傲慢ですね」
「ちょっと、やめてよ! 彼とはそんな関係じゃないわ! バージルはただの知り合いよ!」
エリシュカがきっぱりと否定すると、バージルはショックを受けたように表情を強張らせた。ロイは最早バージルの方を見ようともしない。
「食事に誘われていたようだが?」
「そのことを知っているなら、私の返事も聞いたわよね? 彼と食事になんか行かないわよ」
「では、夜の巡回は予定通りに。それまでに情報のすり合わせをする。調査の手伝いが必要なら、手伝おう」
エリシュカが頷くと、バージルは悲鳴のような声を上げた。
「待ってくれ、エリシュカ! 今朝から、何なんだこの男は! しかも、夜、君と、ふ、二人きりになるのか?!」
「気持ちの悪い想像はやめてくれない? 彼を貴方と一緒にしないで」
エリシュカの言葉を受けて、ロイは気負いも皮肉もなく冷徹な目をバージルに向けた。
「どうやら、一年かけて積み上げた信頼の方が僅かに勝ったようですね」
ロイの言葉に、バージルの頬にかっと炎が灯る。
「どうしてお前のような冴えない男が……! 平民が彼女の隣を射止めた?! どうやって?!」
バージルはロイの上着を掴み上げ睨み据えた。嫉妬も燃やすバージルを振り払うことすらせず、ロイは薄く笑う。
「……彼女の隣に立つのに、俺では不足だ、と? そう見えるのなら、その目は随分と節穴のようだ」
「なにを──!」
バージルは反射的に熱り立つが、直ぐ様怯えた様にその場に尻餅をつく。
エリシュカには、バージルの視線は血を凝らせた不吉な瞳に注がれているように見えた。
「本当にエリシュカに懸想しているのであれば、これ以上彼女を揺さぶるな。俺が一から仕込んだが、狩人としてはまだ未熟だ。精神の乱れを戦場へ持ち込めば、人間は容易く死ぬぞ」
バージルはわなわなと唇を震わせるが、反論の材料を持たずにあえなく沈黙した。
エリシュカはバージルの有様を見ても憐憫を催すことはなかった。助け起こすという親切心すら見せることなく、冷淡に背中を向ける。
「そういうことだから。じゃあ」
エリシュカとロイは何事も無かったかのようにその場から去ったが、彼らは失念していた。
エントランスには少なくはない同僚と外部の人間の目があり、突如として勃発した修羅場を興味深く観察していたことを。




