第百話 暗渠の迷宮、彷徨える狩人達
資料室の扉を潜るなり、荒廃しきった部屋の有様を目の当たりにしたロイは辟易と眉を寄せた。
恐らく、整理整頓を放棄した空間に身を置くことが苛立たしいだろう。エリシュカから見て、ロイは規則に関して潔癖のきらいがある。
だからと言って、ロイは同僚達が放棄した片付けを引き受ける優しさを持ち合わせているわけではない。案の定、ロイは部屋の惨状を無視し、旅行鞄から一枚の書類を取り出してエリシュカに差し出した。
「これは?」
エリシュカは受け取った書面に目を通し、最中に顔を曇らせる。
「アガヴェと彼女の胎児の遺体の詳細について記載されている。……実際に確認したが、確かに胎児は吸血鬼化していた」
資料によると、アガヴェは腹部にのみ刺し傷を負い、出血多量により亡くなったらしい。その痛ましい文字列の最後に、エリシュカは乱雑な走り書きを見つける。曰く、胎児は奇跡的に無傷──とのことである。
アガヴェは最期に腹の子を守ろうとしたのか。それとも、単なる偶然だったのか。今となってはエリシュカには分からない。
やりきれなさと同情に引き摺られながらも、エリシュカは書面からロイへと視線を移した。
「それで……吸血鬼になった原因は分かった? ……やっぱり、【魔眼】のせい?」
頷くロイの表情はいつにも増して険しい。
「少なくともアガヴェの胎児に関してはそうだ。それ以前の胎児は──残念ながら既に共同墓地に埋葬されていて、遺体の確認が不可能だった」
そう、とエリシュカの声は暗く沈む。
つまり、母親を亡くした胎児には遺体の引き取り手がいなかったのだろう。父親の特定が不可能だったのか、あるいは遺族が引き取りを拒否したのか──いずれにしろ哀れなことだとエリシュカは心を痛めた。
だが、ロイはエリシュカが感傷に浸り続けることを許してはくれなかった。言葉もないエリシュカを叱咤するように、赫い瞳がエリシュカを射抜く。
「……そちらの調査では何か分かったか?」
エリシュカは机の上に置きっ放しの貧民窟の地図をロイに手渡す。尤も、今は地図とは名ばかりの代物へと変貌した。崩れた文字の羅列がそこかしこで踊っていて、最早書き込んだエリシュカをして解読に難儀するほどである。
「……これは?」
「貧民窟の地図を更新した上で、殺害現場と遺体発見現場を書き込んだの。見て、すごく近いでしょう? 少なくとも遺体を隠そうって感じはしないわよね」
「……そうだな。それで?」
エリシュカは安堵した。一先ず、ロイはエリシュカが官憲の真似事をしたことを責める気はないらしい。
「最初は遺体を移動させた理由をいくら考えても、何も分からなかった。だから、発想を逆転させてみたの。もし吸血鬼が関与したせいで、犯人が遺体を移動せざるを得なかったとしたら? って」
「吸血鬼の関与──つまり、胎児か。吸血鬼化した胎児の存在が犯人に不合理な行動をとらせたと言いたいんだな?」
エリシュカは頷く。
「私には胎児の吸血鬼の討伐経験がないから、想像で物を言ってしまうのだけど。例えば……もし、遺体の発見が遅れてしまったらお腹の中の胎児はどうなっていたかしら。相当危険なの?」
「いや……吸血鬼化していたとしても、所詮は胎児だ。例え飢餓に耐えかねて母体の腹を食い破って出てきたとしても、それほど脅威にはならない」
ロイは滔々と語るが、難しく眉を寄せたままだ。
「ただ、貧民窟には孤児が多い。吸血鬼に関する知識もなく、身を守る術を知らない者は、いずれ犠牲になっていたかもしれないな」
エリシュカはロイの見解に俯き、厳しい顔付きで暫し黙考に沈む。
エリシュカが資料から読み解く限り、犯人は慎重で、保身の塊である。非力な上、腹が膨らんでろくに走ることも出来ない女を標的に選び、抵抗の術を持たない胎児諸共殺している。更に数十ヶ所にも及ぶ刺し傷が理性の奥に隠された残虐さをも浮き彫りにしていた。
──果たして、そんな人間が貧民窟の孤児たちの命を惜しむだろうか?
「狩人は脅威にならないと思うようなことでも、犯人には知識がないから脅威だと思った。……もしくは、吸血鬼が本物の怪物に育って、将来自分が襲われるかもしれないのが怖かった、とか?」
「……ありえない話ではない……が……」
ロイは珍しく歯切れが悪く、深く考え込む仕草を見せる。一筋縄に肯定するには、余りにもエリシュカの主観頼みだ。
エリシュカとて、思いつくままに仮説を並べ立てているだけであって、確証など有りはしないのだ。
「……それに、変よね? 犯人はどうやって胎児が吸血鬼化していることを知ったのかしら?」
現在、吸血鬼を腹に宿しているかどうかを外側から判別する方法はない。母体の血液に含まれる因子や胎児の胎動、脈拍の有無等により総合的に判断するらしいが、医療従事者の知識と器具が必須である。
確かに、ザハリアーシュの呪いのせいで私生児は吸血鬼として生まれてくるとされているが、胎児が嫡出子か否かなど、犯人は知る由もないはずだ。
特に、アガヴェの胎児に関してはザハリアーシュの呪いではなく、【魔眼】により吸血鬼化したものだと既に判明している。
「吸血鬼化した胎児のことは、どの新聞社も報じていないのに……」
エリシュカは何となしに呟いたが、ロイは突然弾かれた様に持っていた資料を目の前に掲げ、穴が開くほどに見つめた。
「……それなら、何故全ての死体が動かされている?」
「ど、どういうこと?」
「一旦エリシュカの仮説を全て真として考えよう。その場合、犯人が吸血鬼の関与や胎児の覚醒を知ったタイミングはいつになると思う?」
「いつって……一人目の女性を殺害した後──え、あれ?」
エリシュカは舌先の違和感に立ち尽くした。全ての遺体は死後六時間から八時間の間に発見されており、胎児の件は一切報じられていない。また、見ただけで胎児の吸血鬼化を判別する方法も確立されていない。
にも関わらず、犯人は一人目の犠牲者を殺害後、遺体を別の場所に遺棄している。
「じゃあ……犯人はひょっとすると吸血鬼の関与を目撃……ううん、黙認したってこと……?」
ロイはまだ図面から目を離さない。
「あくまでもお前の仮説を真とするならだ。万が一犯人と吸血鬼の間に何らかの繋がりがあるのだとしたら……厄介だな。近隣住民の聞き込みは慎重にならざるを得ない」
「あ、そうよね……大っぴらに動くと犯人が私たちのことを吸血鬼に教えるかも知れないわ」
調査状況を漏洩され、吸血鬼に逃げられる程度ならばまだ運がよい。罠にかけられて不利な状況を強いられる可能性さえ十分に有り得る。
「尤も、真っ当な協力関係ではなさそうだが。犯人は中途半端に遺体を移動させている。その目的が本当に胎児の早期発見だとすれば、吸血鬼は折角増やした同胞を尽く殺されたことになる。となれば──この裏切りにはいずれ報いがあるかもしれない」
エリシュカはごくりと生唾を飲み込む。
「それって……犯人が吸血鬼に殺されるかもしれないってこと?」
「そうだ。いよいよ自分の身が危ないとなれば……犯人の方から此方に保護を求めて来るかもな。問題は、そこまで犯人が追い込まれるまでにどれだけの母子の命が失われるか分からないこと。そして全て推測の域を出ない──ということだ」
エリシュカとロイの間に冷たい沈黙が落ちる。仮定という名の迷宮の出口は未だに影も形も見当たらなかった。




