第百一話 消せない傷
エリシュカは力なく資料室の椅子に座り込む。
結局、情報の整理や仮説の検証に掛けた時間は全て徒労に終わった。霧に鎖された事件の裏側には指先一つさえも掛けることが出来なかったのだ。
一方で、ロイの表情に疲憊はない。血膿の瞳から読み取れる感情はいつも通り乏しかった。
そういえば、エリシュカがロイが弱っている所を見かけたことなど殆ど無かった。精々彼が吸血の衝動に懊悩していた時か、ベロニカに首の後ろを掴まれていた時くらいのものだ。
後者については、親猫が言うことを聞かない子猫を捕まえた時のようで微笑ましかったのを覚えている。
エリシュカがくすりと笑った瞬間、不意にロイがエリシュカを振り返った。目が合った瞬間、咎められるかも、とエリシュカの心臓が跳ねた。
「夜の巡回まで時間がある。今の内に頭と身体を休ませておいたほうがいい」
エリシュカはロイの気遣いに有り難く頷いた。
「ロイはどうするの?」
「寝る」
短く吐き捨てられたロイの言葉に、エリシュカは思わず笑いを噛み殺した。
「そうよね、私たち朝から働き通しだったもの」
「お前も疲れている所悪いが、後のことは頼んだ」
ロイは持っていた資料をエリシュカに手渡す。これらは職員に渡せば冊子として纏められ、分類記号を与えられて資料室に並べられることとなるだろう。
「集合時間は──」
ロイが資料室の扉を開けると、三人の狩人が勢いよく室内に雪崩込んできた。どうやら、扉の向こう側で聞き耳を立てていたらしい。
「ソフィアにイリーナ……フローリアンまで!」
三名は一瞬気まずそうにお互いに顔を見合わせていたが、開き直ったイリーナがエリシュカの元へと一直線に向かってきた。
その間、ソフィアとフローリアンは扉の前を陣取り、ロイの行く手を阻む。
吸血鬼討伐で命を預け合う仲間同士、このくらいの連携などは児戯にも等しいのだろう。
「聞いたよ、エリス! お客さんとロイがエリスを巡って受付で争ってたんだって?!」
イリーナがエリシュカの左手を掴み、輝きに満ちた目でエリシュカを見つめる。
イリーナの口から出た予想外の言葉に、エリシュカは目を瞬かせる。尚、エリシュカと同じく噂の渦中に巻き込まれたロイは否定も肯定もせずに、暇人たちを冷たい目で眺めるばかりである。
「ロイさんが珍しく嫉妬の炎を燃やして、お客様を牽制されてらしたそうで……ふふ、その場に居合わせたかったですねぇ」
「普段は色恋沙汰なんて興味ないって、顔しちゃってさ。やっぱりロイも男だったってことかぁ」
ソフィアとフローリアンは、傍目からは和やかに笑っているようにしか見えない。だが、エリシュカは事の真相を知るまでは動くつもりはないという気概を感じた。
エリシュカは微苦笑を湛えて、首を振る。
「そんなんじゃないわ。私が妙な男に絡まれていたから、ロイは見かねて庇ってくれただけよ。そうよね?」
エリシュカは同調を期待してロイに話を振った。だが、ロイは、わざわざエリシュカを振り返り、意味深に首を傾げた。
「……俺がひと言でもそう言ったか? エリシュカを見かねて庇っただけだと?」
ロイの返答にイリーナとソフィアから黄色い悲鳴が上がった。
エリシュカはひくりと口角が引きつる。じわりと頬に熱が集まるのを自覚した瞬間、羞恥に身体が震えた。
「な、何言ってるの? あの時、別にそういう感じじゃなかったでしょ?! ああ、もう……っ、本当に私が原因で争ったとか……そういうのじゃないから!」
エリシュカは四面楚歌に陥った気分で、しかし、違うと何度も言葉を重ねる事しか出来なかった。
噂を信じた彼らよりも、真実を知るはずのロイの方が厄介とはどういうことか。何故間違って伝わった噂を正すのではなく、よりにもよってエリシュカの言葉の方に疑問を呈するのだ。
「まぁまぁ、エリシュカさん。そんなに否定すると流石にロイが可哀想だよ」
フローリアンが訳知り顔でエリシュカを宥め始める。
尤も、フローリアンに庇われたはずのロイの顔には余計なお世話だ、と大きくはっきり書かれていたが。
「やっぱりそういうことだったんだねぇ! あたしは、二人のこと応援してるから!」
「ご馳走様でした」
イリーナは聞き取りの成果に満足したのか、どこか急ぎ足でフローリアンとソフィアの元に戻っていく。
お邪魔しましたと三人は屈託なく笑うが、その言葉に隠された真意を考えると、エリシュカは強い目眩を覚えた。
「お願いだから、これ以上変な噂を広めないでちょうだい!」
エリシュカの叫びは扉を閉まる音に掻き消され、虚しく資料室の気まずい空気の中に溶けた。
エリシュカの叫びが届くはずもなく、彼らはエリシュカの心を掻き乱すだけ掻き乱した後、髪の一筋すら残さずに去ってしまった。
エリシュカは恨みがましくロイを見る。
「……絶対に誤解されたわ」
「そうだな」
「他人事のように言わないで! 貴方だって変な噂が立つのは困るでしょう!」
ロイは悪びれもせずに肩を竦めただけだ。
「誤解はいずれ解けばいい。馬鹿馬鹿しい噂だが、虫除け程度にはなるだろう」
エリシュカは怒鳴るのをやめて、はたと止まった。
「虫除けって……」
「バージル・スターンのことだ。あの男の執着は異常だ。エリシュカと結婚したいがために爵位を蹴ったと世迷い言を言っていたが──」
「待って、そんな所から私たちの会話を聞いていたの?」
それならもっと早くに声を掛けてくれてもよかったのに、とエリシュカは小さな声で不満を零した。
ロイは意地悪く唇を歪める。
「助け必要だったか? 俺が動いたのは、お前が一般人に手を上げそうだったからだ」
エリシュカはさっと顔色を変えた。常日頃から武器を携帯し、武力も兼ね備えた吸血鬼狩りに、法律というものは厳しい。例え自衛のためであったとしても、民間人を害した場合は厳しく責任が問われる場合すらある。
つまり──ロイはエリシュカがバージルの拘束から抜け出すだけでなく、腕や肩関節を痛め付けるかもしれないと危惧していたらしい。
「話を戻すぞ。もし、お前がこのままあの男の拒絶し続ければ、やがてお前に恋着ではなく憎悪を抱くかもしれない」
だが、とロイは静かな声で続ける。
「俺が常にお前の隣にいれば、奴の憎悪の矛先は先ず俺に向く。その方が何かと都合がいいだろう」
エリシュカは息を呑む。それは万が一の時はロイを盾にして逃げろと言っている様なものだ。
「どうして……何で貴方ってそうやって……自分を簡単に切り売りして事を運ぼうとするの?! 女神の妙薬の実験から、全然学んでないじゃない! 私は、貴方にこんなことして欲しくなくて──」
詰め寄るエリシュカを、ロイは右手を掲げるだけで制した。
「お前は協会の切り札だ。そう何度もつまらないことで怪我を負われては困る」
呆気に取られるエリシュカを残し、ロイは資料室を後にする。
一人取り残されたエリシュカはわなわなと唇を震わせていた。
「つまらないこと……?」
ロイの身を慮って組織に盾突き、神の使いに叛いてまで人体実験から救った男に、そんな風に言われるとは思わなかった。
ロイは痛みからの解放よりも死の救済を望んでいると聞いた時から、感謝はされていないだろうということにエリシュカは薄々気付いてはいた。だが、余計なことをしでかしたと怒られるよりも、ずっと堪えた。凍えた心が、まるで握り潰されたように痛む。
「何で自分をもっと大事にしないのよ……馬鹿」
エリシュカは怒りを堪えきれずに両手を握る。その瞬間、紙がぐしゃりと悲鳴を上げた。
エリシュカは慌てて手の力を緩めるが、何もかももう遅い。深いものから細かいものまで幾つもの皺が刻まれている。
重しで伸せばある程度はましになるだろうか、とエリシュカは頭を悩ませるが、例え手入れをしたとしても元の綺麗な紙には戻らないことは明白である。
エリシュカは軽く胸を押さえる。
ロイが無自覚に刻んだこの傷も、きっと一生消えないだろう。それがいやに哀しく思えた。




