第百ニ話 闇夜の凶行
貧民窟は行政に見捨てられた街だ。遥か昔に整備された街灯は管理の手がほとんど行き届かず、治安の悪さを理由に点灯夫も寄り付かない。暗闇を閉じ込めた陥穽の中で、ひっそりと息を潜めて生きる──そんな場所である。
その日の夜、貧民窟の一角にぽつりと角燈の光が生まれた。四方を硝子に囲われた火は、荒廃した街から目を逸らす様にか──あるいは、光を羨む闇の住民の目を惹かぬ様にか、吹けば消える程の勢いしかない。
角燈を持つ女の手が僅かに震えた。頭から目深に被った外套の裾をしっかりと引っ張り、徹底的に身元に繋がる特徴を隠す。
女は、明らかにこの界隈に慣れぬ様子で終始落ち着きがなかった。時折怯えた様に周囲を見渡し、意を決して進んだかと思えば、四つ辻の前で立ち止まる。その繰り返しである。
女は、また立ち止まった。もはや何度目か分からない。ただ、もうこれ以上はどうしても足が前に進みそうにない。
「……やっぱり駄目、堕ろすなんて……そんな事出来ない」
女は無意識に腹を撫でる。未だ膨らみの目立たぬ腹だ。女がそれと教えなければ一目で看破出来る者などおるまい。──それでも、既に命は宿っている。
「出来ない……殺したくなんてない……」
だが、女の言葉とは裏腹にその足先は依然として貧民窟の中枢へと向けられたままだ。引き返すという選択肢は有り得ない。
けれど、でも──惑う言葉ばかりが雄弁でその先の答えは浮かぶ前に思考の海へと沈んでいく。しかし、そうして泡沫となった言葉の中に、産みたいという言葉は遂に見つからなかった。
迷う女の肩に何かが触れた。大きく、しなやかな男の掌だった。
「ひっ!」
素早く後ろを振り返った女の顔から頭巾が外れ、その面が手の中の燐光に晒される。
女の正体は、フィリカであった。フィリカは頭巾が外れたことに気付き、慌ててフードを被り直した。
フィリカを驚かせた男は何のてらいもなく笑った。フィリカと同じように外套を被っており、フィリカですらその素顔を知らない。
「どうされました? 貴女が“魔女”様を紹介してくれと言ったんですよ。まさか、今更怖気付いたんですか?」
男は優しい口調で、フィリカの怯懦を責める。
フィリカはその言葉に弾かれた様に震えた。
「……子供を堕ろしたいのは確かよ。でも、怖いの」
「怖い?」
「そうよ! だって、命なのよ! そんなに簡単に殺すなんて言えるわけがないでしょう?!」
それに、とフィリカは続ける。
「最近この辺で妊婦がたくさん殺されてるじゃない! 私も狙われるかも知れない! そんなの嫌よ!」
錯乱したフィリカの頬を、男が容赦なく張った。
かつて鍛えていたとはいえ、完全に油断していたフィリカはよろよろと地面に尻餅をついた。
角燈が石畳に投げ出され、硝子が砕ける。頼りなかった燈火は、外気に触れた瞬間あっさりと消沈した。
フィリカは壊れた角燈ではなく、咄嗟に腹に手を添えて、胎児を気遣う。恐れていた痛みも変調もなく、ほっと安堵した瞬間、己の本能に彼女は思わず唇を噛んだ。
──どうして、私はこの子を庇うの。流れるのなら……私の望むところじゃない!
フィリカは矛盾に満ちた激情を理解出来ず、遂に双眸からぽたりと熱い雫を零した。
だが、男はその涙に気付くこともなくフィリカの腹を蹴る。フィリカは一瞬早く身を捩り、背中でその一撃を受けた。
鋭い衝撃に、一瞬息が詰まる。フィリカは背を丸め、片手で首の後ろを庇いながら、次々に繰り出される蹴りに耐え続ける。
「ふざけるなよ! 堕ろすと決めたのはお前だろうが! 今更物の分かった様な口を利くな!」
フィリカは呻き声を上げた。
何故この男にここまで悪しざまに罵られなければならないのか、理解出来ない。何がこの男の怒りを煽るのか分からない以上、フィリカはこれ以上の最悪に備えなければならなかった。
男に悟られぬよう、そろりと手を地面に這わせて硝子の欠片を手に取る。手に馴染む大きさではあるが、素手で握り締めることは出来ない。
仕方なく、破片に外套の裾を巻き付け、漸く持ち手を作った。随分と心許ないが、何も無いよりはましだ。
「お前たちはいつもそうだ。自分のことしか考えない! さもなきゃ金のことばかり! 恥を知れ、恥を!」
男は息も絶え絶えに叫んだ後、フィリカから離れる。
漸く溜飲が下がったのかとフィリカは顔を上げたが、男の手の中にあるぎらつきにぎくりと表情を強張らせた。月光を受けて煌めくのは──小振りの短刀だ。
フィリカは転ぶ様な勢いで石畳を蹴り、その場からの逃走を試みる。だが、一方的な暴力に晒された身体は痛みに強張り、足がもつれた。
その隙を男は見逃さない。身重のフィリカに容赦なく当て身を食らわせ、再び固い石畳の上に押し倒した。フィリカは腹を庇う余り、背中を強か石畳にぶつけてもんどり打つ。
男はフィリカの身体に馬乗りになり、ゆっくりと短刀を振り上げる。その手は興奮か、あるいは歓喜に震えていた。
フィリカはがむしゃらに藻掻くが、振り払えない。
一年だ──たった一年、フィリカは戦場から離れただけ。だが、元々筋肉の付きにくい女の身体と長い平穏のせいで、丹念に作り上げた強靭さすら失ってしまった。あるいは──これから命すら失うかも知れない。
──いや……いや! 折角化け物から生き残ったのに! やっと勝てたと思ったのに!
「お前のような女は──死んで当然なんだよ!!」
「いや──!!」
夜の静寂に、絶叫が響いた。




