第百三話 落ちる翠星(アストライアー)※
ハリエット通りから逃げるように一台の辻馬車が疾走した。馭者の馬鞭は鋭く闇を裂き、馬が不満気に嘶く。
古びた車輪がみしりと軋んだ瞬間、馬糞の臭いがつんときつくなった。それがいきみによるものか抗議なのかは定かではない。
エリシュカとロイは、去っていく辻馬車を見送ることなく歩き出す。夜の貧民窟に寄り付きたがらない馭者を宥めすかし、漸く貧民窟の入口──ハリエット通りまでやって来られたのだ。
時刻は──先程修道院の鐘が鳴った所を鑑みるに、午後九時を少し回った所であろうか。過去の犠牲者たちの死体発見時刻を勘案すれば、次の事件発生までに一時間の猶予すらないことになる。
だが──不意にロイの足が竦んだように止まった。吐き気を堪えるように、闇色に染まる虚空を睨み据える。
「ちょっと、大丈夫?」
旅行鞄と角燈をそれぞれ手に持ったエリシュカがロイに駆け寄る。手で触れて具合を確かめようと旅行鞄を石畳の上に置くが、すかさずエリシュカの短慮をロイが手で制した。
「旅行鞄から手を離すな。……一足、遅かったようだ。微かだが血のにおいがする」
驚くエリシュカに皆まで言わせず、ロイは獣のように呻いた。その眼は欲望と恐怖が渾然と混ざり、ぎらぎらと昏い光を湛え始めている。
「ロイ……ねぇ……何処かで休んだ方がいいんじゃない? こんなに顔色が悪い貴方、初めて見るわ」
エリシュカはただ事ではない様子のロイにそっと声を掛ける。だが、ロイは心を砕くエリシュカのことなど、顧みる様子もない。
「この血のにおい……覚えがある。それに、この気配……」
ロイは猟犬の様に靭やかに身体を沈め、石畳を蹴る。その速度は辛うじて人間の閾値に収まっていたものの、およそ相棒であるエリシュカを気遣うものではない。
エリシュカは慌ててロイの後を追う。だが、ロイの背中はあっという間に路地に吸い込まれ、見えなくなってしまった。
一瞬、アレスに身体と思考の主導権を渡してしまおうかとも考えたが、一か八か夜空に吼える。
「──ヴィリア! 先導して!」
果たして、その声に応えるように白梟の甲高い鳴き声が頭上から振り注ぐ。エリシュカはその声と目印となる白い身体を頼りに、狭く薄汚れた路地を走り抜ける。
しかし、悲しい事にエリシュカはロイほど夜目の利かない。ヴィリアの挙動を確認しようと夜空を見上げた瞬間、編上靴が壊れた木箱を思い切り踏み抜いた。
「あ……ッ!」
身体がよろける。衝撃を覚悟してエリシュカは受け身を取ろうとするが、それよりも早くエリシュカの身体を受け止めた。暗いが、その大きさと力強さは男の手だった。
「あ、ありがとう、ロ──」
連れの名を呼ぼうとしてエリシュカは思い留まる。男はロイと同じ黒髪ではあったが、山高帽に暗い色の背広を纏っており、明らかに吸血鬼狩りではなかったからだ。
「大丈夫ですか? エリシュカお嬢様」
エドワードの新緑のような双眸と目が合う。その優しい瞳がエリシュカに向けられるのはこれで三度目だ。
「ハジ警部補さん! ……あの、連れを! ロイを見ませんでしたか?!」
エリシュカはロイを探して首を巡らせる。エドワードの部下と思われる強面の男が七名ほどその周囲を固めていた。
「お連れの男性なら、先程どうしても確認したいことがあると言って、部下と共にあちらの廃屋に入って行きましたよ。それよりも、お二人はどうしてここへ?」
不意にエドワードの目から穏やかさが消える。
「私の独り言を聞いた上で、ここにやって来るとは彼には恐れ入りました。貴女も此方の領分を犯すおつもりで?」
エドワードにはただ、小声でそっと囁かれただけだ。にも関わらず、エリシュカはその冷たい威嚇に萎縮しそうになる。
「いえ、こちらに官憲の邪魔をする意図など毛頭ありません。しかし、吸血鬼の関与が疑われる現場へは何を差し置いても急行します。……我々も職務ですから」
吸血鬼という言葉に屈強な男達の間に緊張が走った。ある者は周囲を警戒し、ある者は携帯した拳銃に無意識に手を触れた。
「吸血鬼の関与……まさかあの廃屋内に吸血鬼がいるとでも?」
エリシュカはロイのただならぬ雰囲気に気圧されただけで実情までは分からない。どう答えたものかと考えあぐねていると、廃屋内から男の裏返った声が聞こえた。
「け、警部補……! 負傷者を発見しました! 若い女性が──」
その声に官憲達は廃屋の中に殺到した。元は飲食を提供する様な店舗だったのか、間口は広く、石積みの躯体は比較的しっかりと現存している。しかし、内部は荒れ果てており、ひっくり返った椅子や円卓が散乱していた。
エリシュカが最後に廃屋に侵入すると、ちょうど荒廃した棚の影から気絶した女が助け出される所であった。
官憲の一人が手に持っていた角燈で女を照らす。暖かな火の光に照らされた身体には幸い致命傷は見当たらなかった。ただ、右掌にざっくりと刻まれた創傷がエリシュカから見ても痛々しかった。
次いで、橙の光が女の顔を照らし出す。血色の悪いその顔を見たのはつい昨日の事だ。
「どうして……フィリカさん?!」
その刹那、入り口側横倒しになった棚から、がたりと大きな音が立つ。
官憲が一斉に拳銃を抜き、音源に銃口を向けた。エドワードは銃を構えたままエリシュカを背後に庇う。
「お嬢様、射線を空けてください。貴女の身体に風穴が空いてしまう」
「でも、相手は吸血鬼かも──」
エドワードは神妙に首を振る。その間も標的から目を逸らすことはない。
「吸血鬼なら銀の武器を持たない官憲相手に身を隠す必要はない。恐らく、奴は人間です」
エリシュカは迷った末に頷き、壁際へと下がった。エドワードの背後に控えた官憲達の方を見ると、充満する血のにおいに普段の調子を失ったロイも、エリシュカと同じく壁際に追い払われる所であった。
「両手を挙げて、ゆっくりとこちらへ出てこい!」
エドワードは朗々とした声で警告を飛ばす。だが、影は警告を無視し、あろうことか瓦礫を官憲へと投げつけたのである。
エドワードは脇に逸れて床に落ちる瓦礫を横目で見た後、忌々しげに舌打ちをした。
「……やむを得ない。撃て!」
エリシュカは咄嗟に身を低くし、耳を塞いだ。と、同時に、銃弾が一点に撃ち込まれ、噎せ返るような硝煙のにおいが充満する。
一際大きな銃声が夜気を震わせたその瞬間、エドワードの肩が僅かに跳ねた。
「──!」
エリシュカは声ならぬ悲鳴を上げた。
エドワードの山高帽に小さな穴が空き、軽やかに宙を舞う。エドワードは銃を取り落とし、受け身を取ることさえ出来ずに仰向けに倒れた。
エドワードの右手がゆっくりと床に落ちる。それきり、ぴくりとも動かなくなった。
「警部補さん?! 警部補さん!!」
エリシュカは半狂乱になりながらも、エドワードに駆け寄る。だが、旅行鞄をその場に取り落とし、エリシュカは動けなくなった。
エドワードが即死した事は最早エリシュカの目にも疑いようがなかった。脈や呼吸の有無を調べる必要がないほどに、その頭部は破壊されていた。
しかし、エリシュカは旅行鞄の留め具を震える手で外し始めた。旅行鞄の中には応急処置に使える包帯や布も入っている。
──彼を死なせては駄目……! これ以上……兄様の大切な人を死なせては……!
だが、エリシュカは手の震えが治まらなかった。これでは──何も出来ない。
「手当てを──誰か手当てを、手伝って……」
しかし、今にも泣き出しそうな声は怒号に掻き消される。
「手前ェ、トチ狂いやがったのか!? 何で……警部補! 大丈夫ですか、警部補!」
「取り押さえろ! 拳銃を確保──! 絶対に自殺させるなぁ!」
エリシュカが背後を振り返ると、官憲たちが罵声を浴びせかけながら一人の同僚を数人がかりで取り押さえていた。拘束された若い官憲に抵抗する様子はない。
ずる、と何かを引きずるような音がした。エリシュカは入り口を見る。
ひょこひょこと跳ねるように細長い影が廃屋を出ていく。エリシュカは、初めてその人物が負傷していることに気付いた。
今ならエリシュカでも取り押さえる事が出来るかもしれない。だが、肝心の足が震えて、その場から動けない。
「ろ、ロイ……」
エリシュカは助けを求めるようにロイを見る。ロイは──ふらふらと壁伝えに入り口へと向かっていた。最早人間を模倣するための旅行鞄を持つ余裕すら無い様子だ。
「……俺が、奴を追う。奴は手傷を負っているようだ。血のにおいが途切れない限り、見失ったりしない」
エリシュカは本心ではロイの無茶を止めたかったが、気を付けて、とだけ短く言った。確かに、この場には血が流れ過ぎた。此処に留まり続けることの方が今のロイには毒だろう。
「お前はフィリカを保護しろ。決して官憲に明け渡すな。キィ以外……普通の医者は……彼女を不用意に傷付けるだけだ」
「ま、待って……一人なんて駄目よ。せめて応援を……」
「いや……官憲は連れて行けない。十中八九【魔眼】の餌食になる」
悍ましいほどの寒気がエリシュカの背を百足のように這い上った。
「……どういうこと? 【魔眼】?」
ロイはエドワードの遺体から目を逸らすように、貧民窟の闇を見つめる。
「俺は夜目が利く。あの時──銃弾が有り得ない軌道で曲がったのを……はっきりと見た」




