第百四話 堕ちる赤星(アンタレス)
赤黒い染みが古びた石畳を濡らしている。その出血量から見るに、フィリカが兇徒に負わせた傷は決して浅くはない。恐らく、フィリカを襲った犯人は壁伝えに移動しているのだろう。血痕は不規則に、そして微かに涙滴のように形が歪んでいる。
ロイは沈黙の街灯に目を向ける。そこに掲げられた扁額にはガストン通りとあった。本来ならば、官憲が魔女狩りよろしく捕り物を敢行するはずだった場所だった。
すぐに追い付くと踏んでいたロイだが、今はその認識を改めざるを得なかった。血を導べとして犯人を追うロイの足取りが、そもそも覚束ないのだ。
まず、四肢が異様に重い。赫い誘惑がまるで葉巻の紫煙のように纏わりつく餌場に引き返せと囁いていた。
──餌……か。
どれ程人間性を保つ努力したとしても、ロイは悲しい程に怪物である。ならば、自分を偽る必要など、どこにある。今すぐ血塗れの舞台に戻り、傷付いたフィリカの喉を裂き、凶弾に斃れたエドワードの遺体を食らい尽くせばいい。
そして──エリシュカの細い首に牙を突き立て、迸る美酒に酔いしれればよいのだ。心も身体も清らかな乙女の命は、さぞ甘美であろう。
欲しい、と思った。喪失の痛みなど、渇ききった喉を潤せるのなら安いものだ、と──
「……やめろ!」
ロイは廃屋の窓枠に残っていた硝子片を渾身の力で殴り、粉砕した。鋭い痛みが思考を一瞬だけ遮断し、ロイの天秤を辛うじて理性へと傾ける。
無様に足掻く怪物を、いつの間にか花緑青色の瞳が見つめていた。貧民窟には似つかわしくない、丁子色のドレスを着た女が儚く微笑んでいる。
いつもの幻影か、とロイは力なく笑う。
「ノラ……もう貴女の顔は見飽きました。そう何度も現れなくても、俺は犯した罪を忘れた事など──」
いたたまれず顔を逸らしたロイだが、女のドレスの美しさに違和感を覚えた。
記憶の中の女は頭から血を被り、不吉と絶望を体現していた。だが、目の前の女に不穏な兆候は無かった。寧ろ、美しいまま、ロイが化け物であることを肯定していた。怪物として生きてきた年月を祝福するように微笑んでいたのだ。
「は……?」
そう気付いた瞬間、ロイの渇きはどうしようもなく満たされてしまった。そこで初めて、ロイは己が血ではなく、たった一人──かつての恋人から齎される聖寵に餓えていたことを知った。
とうに錆びついたはずの心臓が、どっと脈打った気がした。それを生への欲求と呼ぶには余りにも悍ましい。
寧ろ、ロイの脳裏に垣間見えたのは彼岸の淵だ。この身体は化け物であることを肯定された瞬間、自ら偽りの生を鎖そうとした。
「……っ!」
ロイは慌てて顔を上げる。だが、既に女の姿はそこにはなかった。
困惑するロイの首に、後ろから細い指が絡みついた。それは獲物を玩弄する蛇のように、白い肌に僅かに食い込んでいく。
「可愛い坊や。坊やにとって、怪物であることを祝福されるのは、全てに絶望するほど不幸なことなの? 生にしがみつくのを諦めるほどに?」
女の声はざらつき、掠れていた。ロイはかつて愛した女の声をすっかり忘却していた。これが本当に彼女の声かどうかも判然としない。
細い指が更にロイの首に食い込む。ロイは既に呼吸を必要としない身体だ。首を絞められようが、恐怖はない。寧ろこのまま首を捩じ切られれば、漸く怪物としての生に終止符を打つことが出来るかもしれない。
「あらぁ、随分と初心で愛らしいこと。昔の女に微笑まれて、夢見心地なのね。ふふ、このまま優しく抱いてあげようかしらぁ?」
最早、ロイは抗う気力さえ失っていた。
■□■
ロイは悪夢の中に静かに落ちていく。虚ろな瞳は何物をも映さず、頭を垂れて項を晒す。無防備に差し出された首に銀の斧を振り下ろせば、流石の怪物も死の憂き目に遭うに違いない。
「……“魔女”よ! 何故、その男を殺さないんだ!」
外套を纏う男は静まりきった空気に耐えかね、激昂した。外套の裾にはべっとりと血がこびりついており、足を引きずりながら女に詰め寄る姿は痛々しい。
“魔女”と呼ばれたのは気だるげな色気を放つ四十路の女だった。少なくともロイが焦がれた若く麗しい美姫ではない。女は貧民窟に溶け込むための粗末な襤褸を纏っていたが、その面には荒んだ生活の名残が一切ない。そして、ほんのりと上がった口角からは、鋭い牙がちらりと覗いている。
「生かす理由はあるけれども、殺す理由はないのよねぇ。だって、侯爵様が彼をご所望なのよぉ?」
女は朗らかに笑うが、根底にあるのは明確な拒絶だ。
外套の男は失望したように溜め息を吐く。
「知ったことかよ……お前ら化け物の事情なんて」
男は小刀を取り出し、怪我の痛みも忘れてロイの左胸へと突き出す。先端に赫のこびり付いた刃がずぶりと深く柔らかな肉の中に沈んだ。
男は勝利を確信して微笑むが、ロイは無傷だった。肉を穿つ凶刃は、男が“魔女”と呼ぶ女の腕に深々と突き刺さっている。
「あらまぁ──野蛮ねぇ」
「あっ?! ち、違う! 何で?! これは……私にはアンタに逆らう気はなくて──!」
男は己の短慮が引き起こした結果に酷く動揺した。“魔女”は男に何も言わずに小刀を抜き去る。その刹那、女の腕に刻まれた傷口は即座に再生した。
しかし、女は唐突に不機嫌を顕にした。男の首を吸血鬼の膂力で絞め上げたのだ。
「がふぅッ?!」
その一撃で首の骨が折れなかったのは、男にとって幸いだったのだろうか。
「お前は私のおかげで官憲に撃たれずに済んだんだろう? 私が弾丸の軌道を変えなきゃ、死んでたのはあの可愛い官憲の坊やじゃなくて、聞かん坊のお前だったんだよ」
「うぐぉ……」
喘ぐ男を尻目に“魔女”は続ける。
「お前が癇癪を起こして苗床を殺す度に、官憲にお前の現場不在証明を偽証してやったのはどこの誰だい?」
男の返事はない。意識を失ったのだ。
「気が短い上に、上手く苗床を隠すことも出来ないなんてねぇ。ああ、可哀想な子供たち……生まれることも、母さんの腕に抱かれることなく逝くなんてあんまりだわ」
“魔女”は脱力した男の身体を石畳に投げ捨てる。頭巾が外れて、金糸のように煌めく髪が零れ出る。月夜に照らされた顔は、堕ちても尚貴公子然とした美形──バージル・スターンであった。
「ふぅ……もうガストン通りの拠点は捨てるしかないわねぇ」
“魔女”は気絶したバージルの足を持って引きずり、その場を離れようとする。彼が負った怪我、この先負うかも知れない怪我を気遣う様子は一切無かった。
「ま、待て……」
ロイが掠れた声で低く呻いた。まだ【魔眼】の見せる夢に溺れながらも、気絶したバージルに右手を伸ばす。
吸血鬼の魔の手から救うつもりなのか、エドワードの仇として捕らえるつもりなのかは、朦朧とした今のロイ本人ですら定かではない。
「あらぁ! もうお目覚めかしら? 私の【魔眼】がお気に召したようで、何よりだわぁ。悪夢にさえ浸れないなんて、不幸だこと」
“魔女”はロイの右手を掬う様に握りしめると、軽く膝を折り、手の甲にそっと口付ける。
「可愛い“王子様”、もう少しの辛抱よ。いい子でお義父様のお迎えを待っていなさいな」
ロイは女の手を振り解き、どういう意味だ、と鋭く切り返す。
だが、女はにやにやと嫌な笑みを浮かべるばかりだ。その姿は見る間に輪郭を失い、霧に呑まれたように消失した。
高位の吸血鬼は身体を霧に変える能力を持つというが、まさしく今その能力が発動したのだろう。
「……ッ! あぁぁぁぁぁ……ッ!」
ロイは怒髪天を突く衝動に顔を歪めながら、廃屋の外壁を殴った。握り拳が強固なはずの石壁を粉砕し、粉塵が舞う。細かな破片がぼろぼろと編上靴に振り注いだ。
吸血鬼が【魔眼】を持つという話を聞いた瞬間から、ロイに油断はなかった。だが、その結果がこれだ。
ロイは認めざるを得ない。敵は己よりも何倍も強大な力を持つ吸血鬼である、と──




