第九十三話 うらぶれし“魔女”の庭へ
(※本話には妊娠・出産・中絶に関する描写が含まれます。センシティブなテーマを含むためご注意ください)
早朝、起床したエリシュカは糊の効いた真白い襯衣に袖を通した。
原料の綿は量産品で、かつて纏っていた絹の肌馴染みの良さには遠く及ばない。だが、皺一つない戎衣を纏うと、自然と身体の隅々まで引き締まるような気がする。
エリシュカは化粧台に置かれた首飾りを指で掬い上げる。昨夜、ロイからもらった魔除けだ。
ロイ曰く──黒い天眼石は悪霊等の存在や、悍ましい悪意から持ち主を守ると言われているらしい。
「……遠回しに、ものすごく怒られている気がするわ」
エリシュカは、ロイの預かり知らぬ場所でキィにロイの体を使った実験を即刻中止するように迫り、“御使い”の力を私物化したことで、彼の逆鱗に触れた。幸い、その場で即座に絶命することはなかったとは言え、危ない綱渡りであったことには変わりない。
黒い天眼石という華やかさを削ぎ落とし、実利のみを重視した石には、もう二度とエリシュカが暴走しないよう見張っている──という宣言が含まれているような気がしてならない。
エリシュカは微苦笑を刷きながら、魔除けを首に纏う。金具がかちりと嵌った瞬間、視界の端できらりと光るものが目に入った。
化粧台の上には、兄の遺した結婚指輪を通した首飾りが残っている。エリシュカはそれを大事そうに掬い上げると、祈る様に両手で握り締めた。
「……兄様、行ってきます」
エリシュカは引き出しにそっと首飾りを仕舞う。
今のエリシュカには天眼石の魔除けがある。それに、すぐ近くに兄を感じられない寂寥感よりも、日々激化する戦場で、代替の利かない品が失われてしまうことの方が、余程身に迫って恐ろしかった。
■□■
「おはようございます──エリシュカです。ただいま参りました」
エリシュカは協会長室の扉の向こうから投げ掛けられた誰何の声にきびきびとした声で応える。
お入り、と上手に歳を重ねた女の声に促されて扉を開けると、黒いものが視界の中で鎌首を擡げているのが見えた。
「……ロイ?」
エリシュカは目を丸くして彼の名を呼ぶが、返答はなかった。
ロイの向かいに座るベロニカが豪快に笑いながらエリシュカを手招く。
「おはよう、エリシュカ。早速だが、今日の依頼について話そう」
「はい、でも──」
「ロイならこれでもちゃんと起きてるよ。その内動き出すさ」
はぁ、と曖昧に返事をしながらエリシュカはロイの隣に腰を下ろした。
吸血鬼の特性に漏れず、ロイは朝に滅法弱いが、これほどに弱っている所を見たのは、エリシュカも初めてのことだ。
ロイは緩く腕を組んでいるとはいえ、寝息一つ立てないので、エリシュカには宛ら眠るように死んでいる死体にしか見えなかった。
「この任務の依頼者は官憲だ。ある事件について吸血鬼の関与の有無を調べて欲しいそうだ」
ベロニカはそこまで言って、一旦言葉を区切る。
「その事件っていうのは、今、貧民窟で騒がれている連続殺人事件のことだ──お前達、概要は知っているね?」
「新聞で報道されている範囲なら」
答えながらも、エリシュカの表情は暗い。
ベロニカのいう事件とは、今紙面を賑わせている妊婦連続殺人事件のことだろう。被害者は貧民窟の住人から貴族の令嬢まで身分は異なる。
だが、腹部を短刀の様な形状の凶器で刺されており、母体、胎児ともに例外なく亡くなっているという共通点があった。大変痛ましい事件である。
「……今朝の新聞には吸血鬼の関与を疑う様な記事はなかったが?」
ロイが身動ぎもせずに口を動かす。
エリシュカは腰が浮くほど驚いたが、ベロニカは鷹揚に笑うだけだった。
「それについては──好色の魔女を覚えているかい。あの、各地で娘たちを次々に誘拐して食っちまった化け物さ」
エリシュカは焦茶色の瞳に炎を灯しながら頷く。
リュミドラはエリシュカから親友と兄を奪い、爵位や住む場所──人生の全てを無へと帰した悪夢そのものだ。この怨みを忘れてなどやるものか。
「あの時、新聞各社が犠牲者は全員生存が絶望的──なんて記事を出すから、恐怖を覚えた連中が協会や官憲局に押し掛けて機能不全寸前まで追い込まれたんだ。勿論、協会と官憲局は厳正に抗議した。それで、それ以降吸血鬼の関与が確実視された事件以外は、極力吸血鬼の関与を匂わせる報道を控える事になったのさ」
「吸血鬼の関与というのは、どの程度のものを想定しているんでしょう?」
「吸血鬼が明確な殺意を持って人を殺害したか否かだ。例えば、遺棄された遺体の血の匂いに惹かれてやってきた吸血鬼が血を飲み干しただけだとしたら?」
「……吸血鬼の存在を明るみにする利点がない。寧ろ事件解決の雑音になりかねない」
ロイの出した結論に、ベロニカは頷く。
「少し、今回の連続殺人事件について整理するよ。まず、今回の犠牲者たちは皆刃物のようなもので刺されている。が、凶器は未だ発見されていない。ロイのように血液を凝固して剣を作り出す個体も存在するため、人間の仕業だと決めて掛かるのは早計だ」
しかも、と続けたベロニカの声は少しばかり震えていた。
「検視の結果、胎児は死んだ妊婦の腹の中で吸血鬼化していたと分かった」
エリシュカは鋭く息を呑む。女性で、しかも妊孕性の有無を疑わぬ若さもあるが故に、己の胎が不幸にも化け物を宿せるという事実が、指先が凍るほど恐ろしい。
「特に強大な吸血鬼が持つ権能……【魔眼】は多種多様だ。人を操るもの、病者を生むもの、睨むだけで胎児を吸血鬼に変えてしまうもの──それこそ、目を合わせただけで死を賜るものまで存在する。こちらとしては、少しでも犠牲を少なくするため、銀以上の者を派遣せざるを得ない」
「……っ!」
エリシュカはかつてない死の恐怖に怯えたが、そこにロイの冷静な声が割って入った。
「ベロニカ、事実は正確に伝えろ。【魔眼】の効力を軽減する方法は存在する。魔除けや護符を身に付けていれば、少なくとも即死は免れる、と。……無闇に“使徒”を怯えさせるな」
ベロニカは衒いもなく眉を持ち上げ惚けて見せる。
「私は最悪を提示しただけさ。別にエリシュカを怯えさせようとしたわけじゃあない」
どうだかな、とロイは肩を竦めた。
二人の会話の切れ目に、エリシュカは「あの」と小さく声を上げた。
「どうして犠牲者は夜の貧民窟にいたんでしょうか? 官憲局はその辺の事情を掴んでいますか?」
子を腹に宿した以上、身の安全には昼間でさえ気を使うはずだ。全員が全員ここの住民ということなら、不思議な話ではないが、犠牲者の中には貴族の令嬢までいる。
ベロニカは声を落とし、それなんだが、と続けた。
「官憲局の連中によるとねぇ……犠牲者たちは“魔女”を探してたんじゃないかって噂なんだよ」
「ま、“魔女”……?」
「そうさ、こういう御伽話を聞いたことはないかい? 年老いた“魔女”は子どもが大好物。特に言うことを聞かない悪い子どもは頭から丸呑みさ──!」
「きゃっ!」
エリシュカは短く悲鳴を上げて耳を塞いだ。いつもは大人びた横顔がまるで稚い子供のように頼りなげだ。
「……おふざけが過ぎる」
ロイの咎める声は常よりも一段低い。エリシュカを心配しているというよりは、会議が長引く気配にうんざりしているようだった。
「……いや。悪かったよ。でも、“魔女”なんかに怯えるエリシュカが可愛くてさ」
だって、とエリシュカは反射的に言い返した。
「…………だって、子供の頃に乳母に絵本を読み聞かされて……『お嬢様なんか小さいから魔女に頭から食べられちゃいますよ』って。……それがすごく怖かったんですもの」
エリシュカがもじもじと爪先を所在なく動かしながら答えると、ベロニカが一拍遅れて爆笑した。
「官憲局のいう“魔女”っていうのは人喰い女って意味じゃなくて、非合法の薬屋のことさ。つまり、被害者達は堕胎薬を処方してもらいたかったんじゃないかってことさ」
「堕胎……」
エリシュカはそれきり何も言えなかった。彼女たちが堕胎を選んだからと言って、部外者のエリシュカが何を言えよう。
辺境伯家の娘時分はその決断を不道徳だと罵り、正義を標榜していたかも知れない。
だが、平民となった今、最早エリシュカは道徳や正義では救えない人々がいることを、文字や数字としてではなく現実に知ってしまった。
「……“魔女”の家はもう分かっているのか?」
ロイの問いにベロニカは首を振る。
「医師以外の者の堕胎薬の販売、処方、使用はどういう目的だろうが必ず有罪だからね。正規の医師に頼る金がなかったり、醜聞を隠したい女たちはどうしたって“魔女”を頼らざるを得ない。“魔女”の力を借りたい者は、官憲に“魔女”の家を教えたりはしないだろうよ」
それに、とベロニカは唾棄するように吐き捨てる。
「男の中にも“魔女”の暗躍を喜んでる連中がいる。後ろ暗い所のあるヤツほど“魔女”を悪しざまに言うくせに、絶対に“魔女”を根絶やしにせよとは言わないんだよなぁ」
「……ベロニカ」
ロイが嗜めるようにベロニカの名を呼ぶ。ベロニカは怒りをため息と共に吐き出した。
「……すまん、愚痴が過ぎたね。とにかく、官憲局の連中は胎児が吸血鬼化しているというのが気にかかっているらしい。生まれることが出来なかった未練が胎児を吸血鬼に変えたのか? それとも【魔眼】のせいか──もしも吸血鬼の関与が明らかになった場合は、その討伐もアンタたちに頼みたい。やってくれるかい?」
はい、と歯切れよく了承したのはエリシュカだ。対してロイは、赫い瞳に一抹の憂慮の影を湛えながら、瞑目した。




