第九十二話 月華の忍び音、晦冥(かいめい)の衷心
ロイとエリシュカは同僚と依頼者でごった返す協会のエントランスを静かに抜け、人通りの少ない回廊へと進む。
吸血鬼に対する防備のために、夜間でも昼間と見紛うように明るいエントランスとは違い、回廊は最低限の灯りだけがぽつりぽつりと蛍のように点るばかりだ。窓に映るロイの横顔は、幽玄な光に照らされ、憂いの影が一段濃い。
ロイは磨り硝子の嵌め込まれた白い扉の把手に手をかけ、ゆっくりと押し開ける。先に行けとばかりにエリシュカに目配せをした。
「……ここって……」
エリシュカが一歩足を踏み出すと、足元で刈り込まれた芝が密かに騒めく。子守唄を奏でるような優しさに、エリシュカは僅かに里心に駆られた。
辺境にあっては身近だった自然の音色だ。首都では未開であることが罪とばかりに刈り取られてしまって、夜に耳を澄ませるという、そんな簡単な事さえ今の今まで忘れてしまっていた。
「協会の連中はあまりここには来ない。月光浴を邪魔されずに済む」
ロイは吸血を拒むが、月光をその身に浴びるだけで力を増強させることの出来る特殊個体だ。そのため、任務中も非番の日も時間が許す限り月光にその身を曝しているのだと言う。
エリシュカがロイからその話を聞いたのはつい最近のことだ。更にその場所を教えてくれるとは露にも思っていなかった。
ロイは一つだけ設えられた長椅子の端に座り、エリシュカを手招く。
エリシュカは少し躊躇いながらもその隣に静かに腰を下ろした。ほんの僅か腕を伸ばせば、ロイの手に触れる──それだけの距離しかない。
「──ヴィリア」
ロイの呼び掛けに応じて虚空から白梟が姿を現す。大きく羽根を広げて羽ばたくと、何の躊躇もなくエリシュカとロイの間に仁王立ちになった。
まぁ、とエリシュカは嬉しそうにはしゃぐ。
「こんばんは、ヴィリア。今日もいい夜ね」
エリシュカがヴィリアの嘴を指先で軽く擽ると、彼女はうっとりと目を細めた。
ロイはエリシュカに会う時は、必ずヴィリアをこの場に呼んでくれる。エリシュカはヴィリアを抱き締めたり、愛でるのが常だ。
「……集まりはどうだった?」
「皆お酒が入って、楽しそうだったわ」
エリシュカはどこか他人事のように言う。
ロイは怪訝そうに眉を寄せた。
「……なんだ、楽しくなかったのか」
エリシュカは慌てて首を振る。その動きが伝染したのか、ヴィリアも細かく身体を震わせて羽毛を毛羽たせた。
「いいえ、もちろん──楽しかったわ。楽しかったけど……」
エリシュカは一瞬だけむっつりと押し黙った。
「……ロイ、今日の集まり、本当は貴方も誘われてたんでしょう?」
ロイが一瞬あらぬ方向に赫い目を逸らす。
エリシュカは少しだけロイのほうへと躙り寄り、咎めるように顔を近付けた。
「どうして来てくれなかったの? ロイなら絶対にお祝いしてくれると思ったのに」
ヴィリアがエリシュカに同調したようにロイの指先を突く。ロイはそれを咎めることもなく、頭の天辺を羽毛を整えるように撫でてやった。
「……昼間、身体能力が化け物から人間に近付くとはいえ、俺は普通の食事を取れるわけじゃない。場が白けるだけだ」
あのねぇ、とエリシュカは溜め息ごと鬱憤を吐き出す。八つ当たりだとしても止められなかった。
「食事が出来ない、なんて皆とっくに分かってるのよ。それでもソフィアが誘ったのは何でだと思うの? 貴方が私の相棒で、皆の仲間だからだって、どうして分かってくれないの?」
「…………」
「それに、貴方の仏頂面を眺めながらお酒を飲むのも悪くないと思うわよ」
ロイが嫌そうに顔を顰める。普段は表情が変わらないくせに、不快を伝える時だけはこんなにも赤裸々で、エリシュカは仕方ない人と声に出さずに一人ごちる。
「……よく言う、一滴も飲めないくせに」
「飲めないんじゃないわ。私は自戒を込めて飲まないの。飲めなくても美味しいものを食べたり、お喋り出来るもの」
「そう言う割には、『楽しかったけど』……なんだな」
エリシュカは俯き、編上靴の爪先を見る。手入れはしているものの、歴戦で劣化した編上靴は少し皮革が乾燥し、痛んでいた。
エリシュカは自分の有様に、女性らしさを見出すことは最早出来なかった。
「……ねぇ、人の恋愛事情ってそんなに気になるものかしら? 年頃なら恋をしなきゃおかしいものなの? 」
ロイがあからさまに困惑した表情を浮かべる。何事か告げようと口を開くが、結局諦めたように長椅子に背中を預けて天を仰いだ。
「……お前は相談する相手と内容をもう少し吟味したほうがいいと思う」
「……そうよね。貴方そういうの見るからに苦手そうだものね。私が浅はかだったわ」
あんまりと言えばあんまりなエリシュカの言い草に、最早処置なしとばかりにロイは肩を竦める。だが、決して怒ったり、無闇に反論をしてこない辺りに、エリシュカはロイという人間の不器用さと誠実さを見た。
エリシュカはロイの真似をして長椅子に凭れて天を仰ぐ。弓張り月と無数の星の縫い付けた夜空が視界いっぱいに広がり、目眩を覚えたように両目を細める。
「……でもそんな貴方だから私の気持ちを分かってもらえるかなと思ったの」
残念だが、とロイの声は夜の空気に低く通る。
「お前の気持ちはお前にしか分からない。特に──俺のような化け物には」
ぴしゃりと断じられた言葉にエリシュカは目の奥が熱くなる。泣きたいわけではないが、ロイの口から化け物という言葉を聞く度に、ロイに対する失望で胸が塞いだ。
そんなエリシュカに気付いたのか、ヴィリアがエリシュカの膝に乗った。戎衣越しに伝わる重さと温かさが、負の感情で凍える血をじんわりと温めていく。
「だが……そうだな。一年生き延びた祝いに、お前に一つだけ言葉を贈るとすれば──自分に正直に生きろ。他人の言葉よりも、自分の心の声を聞け」
エリシュカはちらりと横目でロイを見る。ロイはエリシュカではなく、月を見ていた。
「……私、自分に正直に生きているつもりだけど」
「お前は自分の願望に義務や建前を混ぜ込みすぎる」
「そうかしら? でもそれは、立派な人間であり続けるために必要なことだわ」
ロイは月から視線を外すことなく、哀れむように笑った。
「……他人に恋をするというのは、自分の中の醜く浅ましい部分を見続ける行為だ。お前が考えるような立派なものじゃない」
エリシュカは、鋭く息を呑む。
エリシュカは知ってしまった。ロイはかつて誰かに恋をし、浅ましい部分を曝け出す程に、愛したことがあるのだ、と。
エリシュカは胸の痛みを唇を噛んで押し殺す。押し殺せない分は瞑目して薄らぐのを待つしかなかった。
ロイは常日頃自分を欠陥品の怪物だと貶めるが、実は恋をすることも出来ない自分こそが真の欠陥品なのだろう。その事実が酷く悲しかった。
「──エリシュカ?」
ロイがエリシュカの名を唇に乗せる。
その声が柔らかく、大事そうに一語ずつなぞったように聞こえて、エリシュカの心は僅かに息を吹き返した。
「……お祝いは言葉だけ?」
エリシュカが悪戯っぽく言うと、ロイはヴィリアの名を口ずさんだ。
白梟は愛らしく高い声で泣いて、エリシュカの指先に首元を寄せる。その時、エリシュカの指先に、硬い感触が当たった。
「あら? ヴィリアったら、もしかしておめかししてるの?」
エリシュカが豊かな羽毛をかき分けると、そこには繊細な金細工の宝飾品が飾られていた。細い鎖の先には闇を切り取った様な黒い石が揺れていた。白い模様が年輪状に数本入っていて、まるで目の様に見える。
「綺麗ね、ヴィリア。よく似合ってる」
「ヴィリアのものじゃない、お前のものだ」
エリシュカは、一瞬何を言われたのか分からなかった。
未だに呆けたままのエリシュカに焦れたのか、ロイはヴィリアの首から宝飾品を手早く外した。立ち上がりエリシュカの正面に回ると、エリシュカを着飾る。
そういう行為自体に慣れていないのか、金具を留めるロイの手付きは焦れったい。何度か途方に暮れたように手が止まり、漸くかちりと金具が嵌った頃には、ロイは随分と消耗しているように見えた。
理解が進むにつれてエリシュカから戸惑いの波は引いたが、その代わりに血の気のない頬にじんわりと赤みが差す。
繊細な宝飾品が戎衣姿には似つかわしくないことなどエリシュカはとうに分かりきっている。だが、それでも──今すぐにでも鏡の前で立ってずっと眺めていたい衝動に駆られた。
「生き延びた祝いの魔除けだ。持っていて損はない」
それに、とロイは珍しく饒舌だった。
「……よく似合っている」
その手が離れていくのを、エリシュカは見送らなかった。離れるのが惜しいと思ったが、そんな思いを抱くことなど、許されないような気がした。
だからこそ──エリシュカはロイの指が魔除けによって深い火傷を負っていたことに最後まで気が付くことはなかった。




