第九十一話 宴の後
「──ったくよぉ、本当に潰れるまで飲む奴があるか」
ヴィタリーとフローリアンはアイザックの両脇を抱え、すっかり泥酔したアイザックを大衆食堂から引きずり出す。
南の空で燦然と輝いていた日輪は、半分以上が西の空の淵に沈んでおり、酩酊したヴィタリー、フローリアンの顔をも緋色に染める。
「普段はそこまで酒を飲む方じゃないのに、今日はどうしちゃったんだろ。ほら、しっかり──帰るよ、アイザック」
「……いいだろう、別に。呑みたい時も、ある」
「うるせえ! べろんべろんになってるくせに、格好つけてんじゃねぇ」
「なん、だ、と……」
フローリアンがアイザックの背を宥めるように数度擦った。
「はいはい。呑みたいのは分かったけど、今日はエリシュカさんの祝宴なんだから。羽目を外すのも程々にしておかないと駄目じゃないか?」
「……ぐっ! く……っ、返す言葉も、ない……っ」
とはいえ、アイザックの介抱を引き受けたフローリアンとヴィタリーの足取りも定まっているとは言い難い。要は──全員が祝宴にかこつけて、どうしようもなく酔いどれているのだ。
だが、最も年長であるヴィタリーは酒精にどうしようもなく浮き足立ちながらも、エリシュカ達に存在を忘れることはなかったらしい。
エリシュカに向き直ると、赤みの差した顔にほんの一瞬だけ保護者の表情を取り戻した。
「エリシュカ達は……? もう帰るのか?」
「あたし達は寮に戻るけど──エリスは?」
イリーナの言葉を継いで、エリシュカが口を開く。
「私は……少し歩きたい気分かも。少し散歩してから寮に戻るわ」
「そうか? もうすぐ日が暮れるから気を付けて帰るんだぞ」
分かった、とエリシュカが頷く前に、イリーナがころころと笑った。
「ヴィタリーさん、お父さんっぷりが板に付いてきたねぇ」
「ちょっと、姉さん」
ソフィアがすかさず窘めるが、イリーナは何故怒鳴られたのか分からず不思議そうに瞬きを繰り返すばかりだ。
「イリーナ……お前まで俺のことをそんな風にからかうようになっちまったのか。だが残念──その話はもう使い古されてるんだよ!」
「……ヴィタリーさん……それ、自分で言ってて悲しくならない?」
虚勢を張るヴィタリーにフローリアンがちくりと針を刺す。全くの無毒に見えて、遅効性の毒が塗られた言葉にヴィタリーは情けなく頭を垂れた。
しかし、イリーナだけは悪意なくにこにこと笑っている。
「良くわかんないけど、これならいつでもお婿に行けるねぇ」
一呼吸置いて、その場にいた全員が笑った。
エリシュカ以外は酒に呑まれていたが、エリシュカは雰囲気に酔っていたのかもしれない。
■□■
エリシュカは街灯が霧のような白い靄を纏うのを見る。歩みを止めずに棚引くそれを目で追うと、丁度駅構内から数十名の人間が吐き出される所だった。
半分以上の人々が重い荷物を引きずりながら、夜から逃げるように宿へと駆け込む。残る半数は慌てることなく辻馬車に乗り込んだり、ゆったりとした足取りで食堂へと向かった。
エリシュカも一年間首都の中心部に住んで分かったことだが、黄昏を恐れるのは辺境の者たちばかりだ。都市部に近い者ほど黄昏時と言えども堂に入った振る舞いをする。
彼らが吸血鬼に怯えることなく過ごせるのは隅々まで整備された街灯のせいだけでない。ロイを始めとする優秀な吸血鬼狩り達が偏在しているお陰だ。
その一翼をエリシュカとて担っている。
──だから、ヴィタリーさんは心配しすぎなのよね。
無論、輝かしい功績はアレスあってのものだ。だが、ロイに言わせると、表立って戦っているのはアレスだが、筋肉の使い方や相手の動きを予測する経験則などは宿主であるエリシュカの身体にも知識や経験として蓄積されているらしい。
更にエリシュカ自身の身体能力も向上していることを考えると──エリシュカ一人で斗ったとしても、白に近い働きは出来るはずだ、と──
──甘ェ、甘ェ。揚げドーナツより甘ェ!
エリシュカの意気込みをアレスの冷徹な声が挫いた。エリシュカはあからさまに溜め息を吐くが、アレスは気にすることなく続けた。
──優男にちィとばかり褒められたからって調子に乗りやがって。白だと? お前が?
──そうよ。前よりずっと力も強くなったし、素早く、しかも長い間動けるようになったんだから。
エリシュカの反論に、アレスは愉快そうに笑った。だが、エリシュカは知っている。これはエリシュカの言葉が児戯に等しいと見下している時の笑い方だ。
アレスは一頻り笑うと、神のような冷厳さをもって厳かに宣言する。
──愚か者。実戦かつお前一人で吸血鬼を討伐したという実績を作ってから物を言え。
「くっ……」
エリシュカはぐうの音も出ず、悔しそうに呻いた。今更単身斗うことが恐ろしいのではない。力を試そうにも、その機会が与えられないのだ。
何故なら、エリシュカは単独での任務遂行を原則的に禁止されていたからだ。“御使い”の力を行使する“使徒”は無二の人材であり、その喪失を恐れるベロニカはもう一枚の切り札を相棒に宛行ったほどである。
「──エリシュカ?」
気取るところもなく、静かに呼び止める低い声に、エリシュカの心臓がとくりと跳ねる。足を止めて振り返ると、そこには果たして無二の相棒──ロイの姿があった。
今となってはすっかり見慣れた漆黒の髪が黄昏を浴びて、返り血を浴びたような不吉を薄っすらと帯びる。
「ロイ……」
その名を口にした瞬間、心の表面に小波が立ち、胸が震えた。相棒であり、師でもあるロイを気安く呼び捨てるのは未だに落ち着かなかった。
本来ならば、ここにいるはずのないエリシュカの姿を見て、ロイの赫い瞳が弓張月のように細くなった。
「今夜は非番だったはずだが──協会に用事か?」
「そういうわけじゃないの。何だか、歩きたい気分だっただけ」
エリシュカは両手を後ろに回し、編上靴の踵を軸にくるりと回ってロイに背を向ける。
エリシュカは再び歩き始めるが、その足取りは夜に遊ぶ狂人そのもののようであり、夢想の中で羽ばたく蝶のようだ。酒に溺れていないにしては、およそ地に足が付いているとは言い難い足取りである。
それを、危険な兆候だとロイは判断したらしい。大きな歩幅でエリシュカとの間に空いた距離を詰めると、右手の親指で協会を指し示す。
「そういうことなら、お前の時間を少し俺にくれないか?」
「……え?」
赫い瞳がエリシュカの顔を映し出す。血膿のような瞳の中に閉じ込められたエリシュカは、無理やり夢から引きずり出されたように呆然としていた。




