第九十話 ままならぬ境涯
「フィリカさんって……吸血鬼狩りだったんですか?」
「ええ。フィリカさんはエリシュカさんが此方に来る少し前に狩人をお辞めになったんです。かなり強かったんですよ」
エリシュカは驚き、不躾と思いながらもフィリカの姿をまじまじと見る。戦闘から縁遠くなった腕は細くなっていたものの、肩口の逞しさや背中から腰に掛けて靭やかに伸びる曲線美は武を知らぬ者のそれではない。
「もう、やめてよ。現役の人にそんな風に言われると恥ずかしいったら。もう当時程の力もないし、ただの女性配膳人よ」
エリシュカの鋭い視線に気付いたのか、フィリカはぱたぱたと右手を振って照れたように笑う。
「そうだ。それより、ソフィア……お席一人分キャンセルってどういう事?」
ああ、ソフィアは少し困ったように笑って、ちらりとエリシュカを見る。
「……ロイさんも誘ったんですけど……剣もほろろに断られてしまって」
ロイの名前を耳が拾い上げたエリシュカが、ぴくりと頬を引き攣らせる。最早、その名を痛みを伴わずに噛み締めることの出来る日がやって来ることは二度と無いだろう。
エリシュカの相棒──ロイが吸血鬼を人間に戻す薬開発の実験体であると知ったのはファニュ=ブラムスの任務の最中だ。
仲間を斬り刻む非道な実験にエリシュカは文字通り進退を賭けて待ったを掛けた。仲間を斬り刻む実験をどうしても看過できなかったのだ。
果たして、実験は方針転換を余儀なくされ、エリシュカはロイの身の安全を勝ち取った。苦しみから救えたと確信していた。そのせいで開発が遅延したことにすら、後悔はなかった。
──彼は何も言わない。きっとあの夜に何があったのかキィさんから全部聞いているはずなのに。
突如として凍結された解体や実験について、その理由如何を問わぬ彼ではないだろう。
だが、今日この日までエリシュカの暴走についてロイが何かを言ったことは無かった。咎めも、感謝も、諦めも──何一つエリシュカのものにはならなかった。
エリシュカも、そんな彼に心情を問い質したことはない。相棒という心地よい関係が変わってしまうのが怖かったからだ。
──彼も……そう思っているの?
「やだ! あの朴念仁が大衆食堂になんか来るはずないじゃない!」
フィリカの笑い声がエリシュカを現実に引き戻した。エリシュカはフィリカに追従するように無理に笑みを浮かべて見せる。
「ロイさんはエリシュカの相棒ですし、来ると思ったんですけどねぇ」
「えっ、あのロイに相棒が──しかもこの子が?!」
今度はフィリカの不躾な視線がエリシュカに突き刺さる番である。エリシュカは居心地が悪そうに膝の上で両手を握り締める。
「へぇ。彼がまともな人間だったら、私の次に結婚で退職するのは貴女だったかもしれないのにね」
ぴり、とその場の空気が凍る。かと思えば、次の瞬間には瞋恚で溶け出した毒が空気にどろりとした粘りを生んだ。
エリシュカの肌を刺すその源泉を辿ると、ヴィタリーが静かに怒っていた。片側の唇だけ歪めて、フィリカの名を深く硬い声で呼ぶ。
「……すまねぇが、麦酒をもらえるか? 今日は宴だ。美酒に酔わなきゃ始まらねぇよ」
「はあい、ちょっと待ってて。人数分でいいかしら?」
「ああ……いや、エリシュカは酒は飲まないんだったな。エリシュカには炭酸水を頼む」
フィリカは愛想良く返事をすると対面席の奥にある厨房へと下がる。フィリカが去った後、ソフィアが気遣う様にイリーナを見る。
イリーナの翠眼からは普段の眩い光が失われており、卓に並べられた出来立ての料理を表情もなく眺めている。
明るい笑顔しか見たことのなかったエリシュカはその有様に胸を深く抉られる思いがした。
「イリーナ……? 大丈夫?」
エリシュカがそっとその腕に触れると、イリーナが弾かれたように顔を上げる。
「ん? 何? どうしたの、エリス? あ、もしかして……やっぱりエリスもお酒飲みたくなった?」
てらいなくエリシュカの愛称を呼び、笑いかけるイリーナは普段の快活さを取り戻したかのようだった。だが、白くなった頬や首に浮かぶ細い血管が、それが作り物だとエリシュカに告げている。
「ちょっと待ってて、飲みやすい葡萄酒をお願いしてくるからね!」
イリーナはソフィアが止める間もなく、椅子と壁の狭い隙間を縫ってフィリカの後を追う。
エリシュカは思わずソフィアの顔を見つめた。
「……多分、聞かないほうがいい話……よね?」
「……姉さんは、多分エリシュカさんにお話ししても怒ることはないと思います。でも、すみません。私の口からはちょっと──」
と言っても──と、ソフィアは弱りきったように眉を下げる。
「エリシュカさんにはもう姉さんの性格や単純さは分かりきっていると思いますから。……そういうことですよ」
エリシュカは頷く。
イリーナは良くも悪くもエリシュカの様に吸血鬼狩りという職に人生の比重を重く置いていない。寧ろ、初対面のエリシュカに対して恋人の有無を聞いてきた辺り、結婚を前向きに見据えた普通の娘だ。
だからこそ、狩人を辞して普通の人生を歩んでいるフィリカに対して深く思う所があったのだろうと、察して余りあるくらいである。
フローリアンが行儀悪く卓に肘を付き、大仰に溜め息を吐く。
「フィリカは悪い子ではないんだけどね。……少なくとも接客業には余り向いていないかなぁ」
「青春のほとんどを戦ってた過ごして来た女だぞ。機微を期待する方がどうかしている」
そんなことを言い合っていると、イリーナがフィリカを伴って戻ってきた。何かを語らいながら店内を歩く彼女たちの間には、偽物だとは思えぬほどの明朗な囀りが交わされている。
「お待たせ! エリスの飲み物は炭酸水入りの葡萄酒にしてもらったからね」
「あ、ありがとう……」
エリシュカは酒杯を受け取ったものの、困り果てたように満たされた酒を覗き込む。
太陽の下で穂を揺らす小麦を思わせる、素朴な色の酒はどのような味なのか想像も付かない。
「無理に飲まなくていいぞ、エリシュカ。乾杯だけして、後は誰かに押し付けちまえ」
ヴィタリーが小声で囁く。
エリシュカは頷くが、一先ずは全員に飲み物が行き渡るのを待った。酒の冷たさが硝子越しに体温と混じり合って、玉のような汗がついと伝い落ちる。
全員に酒杯が行き渡り、フィリカが卓を離れたことを確認すると、ヴィタリーは酒杯を軽く掲げながら態とらしく咳払いをする。
「よぉし、それじゃあ──長い口上は省略だ! 皆好きに飲んで食え! エリシュカ、無事に生き延びてくれてありがとうよ!」
一拍置いて、ヴィタリーは乾杯を叫んだ。
「乾杯!」
唱和と共に硝子が打ち合う音がする。それから一気に酒杯を煽る面々を見て、エリシュカは仕方なく、飲み口に顔を寄せた。
が──
「──寄越せ」
意外にも、手を伸ばして来たのはアイザックである。エリシュカの手から半ば引ったくるように奪うと、まるで水でも飲むような軽さで一気に胃の腑へと流し込んだ。
「あ、アイザック?」
エリシュカは急なことで目を白黒させるばかりだ。
アイザックは一瞬で空になった酒杯を、卓に叩きつけるように置く。割れなかったのが奇跡のような音にエリシュカとソフィアは一瞬身を固くした。
「──今日の酒宴はヴィタリーの奢りだろう? 浴びるほど飲むぞ」
「おいおい、手加減してくれよ……」
二人のやりとりを見て、イリーナが声を上げて笑った。少し酒が入っただけだというのに、もう感情の振れ幅が大きくなったらしい。
「……もう、こうなったら気の済むまで放っておくしかありませんねぇ」
ソフィアは喧騒から一時離れるためにか、態々席を立って炭酸水を注文しに行く。
一人だけ素面のままのエリシュカは、それでも楽しそうに卓を見渡し、感慨に耽る。
身近な知り合いが一人も欠けずに、しかも一年という長い年月を歩んで来られたのは奇跡に近いことだ、と彼女は既に学んでいた。
──あら?
不意に、エリシュカの目にフローリアンの表情が飛び込んできた。まるで聴き心地のよい音楽を聴いているかのような安らいだ顔つきは、イリーナへと向けられている。
フローリアンの瞳にふんわりと赤みが差す。酔っている──というだけでは説明のつかない甘さがそこにはあって、エリシュカは小さく笑った。
──そう……そういうことなの。イリーナはもっとちゃんと周りを見ればいいのに。
だが、エリシュカはもう一つの勁い視線に気付くことは無かった。
それが、エリシュカに注がれていたものならば、あるいは気が付いていたかもしれない。しかし、それはエリシュカではなくフローリアンへと真っ直ぐに注がれていた。
アイザックは安らぐフローリアンの顔を肴に二杯目の酒杯を煽る。
アイザックは喉まで出かかった言葉を麦芽の苦味と共に飲み込んだ。
──全く、ままならんものだ。
嘆きと苦味の混じり合う戯言は、とぐろを巻くような思いとは裏腹に、喉越し爽やかに胃の底へと静かに落ちて行った。




